豊臣秀吉の家臣団。側近や五大老、五奉行など秀吉を支えた有能な武将たち

豊臣秀吉の家臣団。側近や五大老、五奉行など秀吉を支えた有能な武将たち

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天下統一を果たし、戦国時代を終わらせた豊臣秀吉は、人心掌握力に長けた「ひとたらし」な性格だったと言われています。
そんな豊臣秀吉には、有能な家臣たちが集まっていました。
今回は、豊臣秀吉の天下統一を支えた家臣団注目していきます。豊臣秀吉の側近や、五大老、五奉行と呼ばれた有能な武将たちにはどんな人物がいたのか解説していきます。

豊臣秀吉の家臣団はどんな構成だった?

豊臣秀吉の家臣団はどのような構成だったのでしょうか。

大将である豊臣秀吉を中心として、豊臣秀吉の親族たち(豊臣一門)や、五大老、五奉行、政治顧問である側近や、軍師などで構成されていました。

どのポジションも有名な人物ばかりで、豊臣秀吉は才能ある人物を見つけ、自分の家臣とする才能があったことがわかります。豊臣秀吉を支えた家臣団のそれぞれの人物に注目していきます。

豊臣秀吉の親族たち(豊臣一門)

豊臣秀吉の親族たちは、どのような人物がいたのでしょうか。
ここでは、豊臣一門の中から二人の跡取り候補だった豊臣秀次豊臣秀頼について見ていきます。

豊臣秀次とよとみひでつぐ :1568年(永禄11年)~1595年(文禄3年)
豊臣秀吉の同父姉「とも(日秀尼)」の子、つまり、豊臣秀吉の甥にあたります。
24歳の時、跡取りのいなかった豊臣秀吉の養子となり、関白の地位も譲られました。
しかし、そのわずか4年後に突然の謀反疑いで地位をはく奪され、切腹を命じられて自害します。
豊臣秀次への対応が急変した背景には、豊臣秀吉の実子とされる豊臣秀頼が産まれたことが関与しているといわれています。

豊臣秀頼 とよとみひでより:1593年(文禄元年)~1615年(元和元年)
豊臣秀吉が56歳の時に側室「淀」が産んだ子どもです。
豊臣秀吉の実子ではないという説も存在しています。
豊臣秀頼が6歳の時、豊臣秀吉が亡くなり後継者となります。
その後、徳川家康との抗争に敗れ、僅か23歳で自害し、豊臣家は滅亡しました。

豊臣秀頼の父親に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

豊臣秀吉の家臣|五大老

豊臣秀吉の家臣の中で、豊臣政権における政務の中枢を担った五名の武将たち(五大老)がいました。
実際には、政務の中枢を担った武将は6名いましたが、その中の一人「小早川隆景」は豊臣秀吉より先に亡くなったため、残った5名が一般的に「五大老」と呼ばれています。

【豊臣秀吉の家臣|五大老+1名】

徳川家康とくがわいえやす:1542年(天文11年) ~1616年(元和2年)
江戸幕府の初代征夷大将軍として、約260年間続く江戸時代の礎を築いた人物です。
豊臣政権下では五大老の筆頭格で、強い発言力を持っていました。

前田利家まえだとしいえ:1539年(天文8年)~1599年(慶長4年)
加賀百万石の礎を築いた、槍の名手です。
豊臣政権下では強い発言力を持ち、徳川家康に唯一対抗できる人物とされていました。

毛利輝元もうりてるもと:1553年(天文22年)~1625年(寛永2年)
中国地方全域を統一した毛利元就の孫で、毛利家の第14代目当主です。
秀吉政権下では、毛利輝元と小早川隆景が西国の重鎮でした。

宇喜多秀家うきたひでいえ:1572年(元亀3年)~1655年(明暦元年)
関ヶ原の戦で敗北するまで、備前・美作・備中半国・播磨3郡をも治めていた備前岡山城主です。
家督を継いだ10歳の幼少期から、豊臣秀吉に寵愛されていました。

上杉景勝うえすぎかげかつ:1556年(弘治2年)~1623年(元和9年)
上杉謙信の後継者で、米沢上杉家の2代目当主です。
北条家より上杉謙信の養子に入っていた「上杉景虎」と家督を争い、勝利しました。

小早川隆景こばやかわたかかげ:1533年(天文2年)~1597年(慶長2年)
毛利元就の三男で、毛利元就が中国地方を統一する偉業に大きく貢献しました。
豊臣秀吉の中国返しの際に追撃しなかったことなどから、豊臣秀吉のお気に入りとなったといわれています。
甥の毛利輝元とともに、西国の統治を担っていました。

豊臣秀吉の家臣|五奉行

「五奉行」とは、豊臣秀吉が書いた遺言書の一つ「豊臣秀吉遺言覚書案」に基づき、政権の実務を担っていた5名の武将を指した総称です。

【豊臣秀吉の家臣|五奉行】

石田三成いしだみつなり:1560年(永禄3年)~1600年(慶長5年)
豊臣政権では、政治の実務を担っていた、佐和山城主です。
豊臣秀吉の死後、毛利輝元らと西軍を組織しましたが、関ケ原の戦いで敗れ、処刑されました。

浅野長政あさのながまさ:1547年(天文16年)~1611年(慶長16年)
豊臣政権の五奉行の筆頭大名であった、浅野家の第14代目の当主です。
豊臣秀吉が織田信長の家臣だったころから豊臣秀吉に仕えていました。
豊臣秀吉の正室「ねね」の妹「やや」と結婚しており、豊臣秀吉とは義弟の関係です。

増田長盛ましたながもり:1545年(天文14年)~1615年(元和元年)
豊臣秀吉が織田信長の家臣だったころから秀吉に仕え、中国攻めなどの戦いに従軍した知勇兼備の武将といわれる人物です。豊臣秀吉の政策「太閤検地」では石田三成とともに中心的役割を担いました。

長束正家なつかまさいえ:1562年(永禄5年)~1600年(慶長5年)
戦国時代に武力ではなく、高い算術能力を武器に出世し、内政面で豊臣政権を支えた武将です。
豊臣秀吉が九州征伐や小田原征伐を行った際は、物資の輸送を担当し勝利に貢献しました。

前田玄以まえだげんい:1539年 (天文8年)~1602年(慶長7年)
もともとは織田信長の嫡男の織田信忠に仕えており、織田信長の孫である三法師(織田秀信)を本能寺の変の際に守り抜いた人物です。
豊臣政権下では、三法師の教育係を担いながら、豊臣秀吉に仕えました。

豊臣秀吉の家臣|秀吉を支えた側近たち

豊臣秀吉の側近と秀吉を支えた人物として有名なのが、「豊臣秀長」と「千利休」です。
二人が豊臣秀吉のサポートをしたのは、政治や軍事のことだけではありませんでした。
よき相談相手として、他の家臣と豊臣秀吉の関係を取り持つことなども行い、公私にわたり豊臣秀吉を支えた、豊臣政権にとって欠かせない人物たちです。

【豊臣秀吉の家臣|側近】

 豊臣秀長とよとみひでなが:1540年(天文9年)~1591年(天正19年)
豊臣秀吉の異父弟で、長い間ずっと豊臣秀吉を支え続けました。
豊臣秀長は、豊臣秀吉からの信頼も高く、豊臣秀吉を諫めることができる数少ない人物といわれています。
温厚な調整役としてだけでなく、戦でも活躍しました。
豊臣秀長の死去から豊臣家崩壊が始まったともいわれる程の人物です。

千利休せんのりきゅう:1522(大永2年)~1591(天正19年)
茶聖ともいわれ、豊臣秀吉の茶道文化の発展を支えた人物です。
織田信長の時から茶の湯に政治的権威が与えられるようになったのに伴い立場を強くしていきました。
豊臣政権下でも相談役として重用されていました。
豊臣秀吉の絶大な信頼を得ていた千利休ですが、晩年の豊臣秀吉自身から切腹を命じられ自害しています。

千利休については、こちらの記事でも詳しく解説しております。


豊臣秀吉の家臣|両兵衛と呼ばれた軍師たち

豊臣秀吉には優秀な軍師が仕えていたことも有名です。
竹中半兵衛と黒田官兵衛の名前の共通点から、豊臣秀吉に仕えたこの軍師たちを総称して「両兵衛」と呼ばれています。

竹中半兵衛たけなかはんべえ:1544年(天文13年)~1579年(天正7年)
「半兵衛」とは通称で、正式な名前は竹中重治たけなかしげはるといいます。
元々は美濃の斎藤龍興さいとうたつおきの家臣でしたが、織田信長によって滅ぼされた後、豊臣秀吉の強い希望で家臣になりました。豊臣秀吉からの信頼は厚く、36歳の若さで亡くなった際には、その死を豊臣秀吉はとても悲しんだと言われています。

黒田官兵衛くろだかんべえ:1546年(天文15年)~1604年(慶長9年)

「官兵衛」とは通称で、正式な名前は黒田孝高くろだよしたかといいます。
豊臣秀吉の軍師として中国攻めにも参加しました。
その際、本能寺の変で織田信長の急死との知らせ悲しむ秀吉に対して、「これはチャンスですね…」とささやいたとの逸話もあるほどの、冷静沈着な軍師だったと言われています。

豊臣秀吉の家臣|秀吉に仕えたその他の武将たち

豊臣秀吉にはその他にも有能な家臣たちが大勢仕えていました。
代表的なのが、豊臣秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳の戦いで大活躍をした賤ケ岳七本槍しずがたけしちほんやりと総称される武将たちです。賤ケ岳七本槍の武将たちも、個性的で優れた人物揃いです。

加藤清正かとうきよまさ:1562年(永禄5年)~1611年(慶長16年)
虎を退治した逸話ももつ、勇猛果敢な戦国武士です。
また、肥後熊本藩の初代藩主として肥後54万石の礎を築いた人物でもあります。
幼少の頃から豊臣秀吉に仕え、豊臣家への忠義は生涯忘れることはありませんでした。

福島正則ふくしままさのり:1561年(永禄4年)~1624年(寛永元年)
加藤清正らとともに、幼少期から豊臣秀吉に仕えていた、豊臣秀吉の子飼いの武将の一人です。
賤ケ岳七本槍の中でも、最も戦功があり、最も武勇に優れていたとも言われています。

加藤嘉明かとうよしあきら:1563年(永禄6年)~1631年(寛永8年)
賤ケ岳七本槍の中で、主に水軍を指揮して活躍した武将です。
豊臣秀吉の四国征伐、九州征伐、小田原征伐でも水軍を率いて参戦し、勝利に貢献しています。
朝鮮出兵(慶長の役)の際も、水軍を率いて朝鮮水軍を撃破した実力の持ち主です。

片桐且元かたぎりかつもと:1556年 (弘治2年)~1615年(元和元年)
もともとは浅井長政に仕えていましたが、織田信長が浅井家を滅亡させた後は、豊臣秀吉に仕えました。
賤ケ岳の戦いだけでなく、小牧・長久手の戦いや、九州征伐、小田原征伐などの、多くの合戦に従軍し勝利に貢献しました。

脇坂安治わきざかやすはる:1554年(天文23年)~1626年(寛永3年)
もともとは浅井長政に仕えていましたが、織田信長が浅井家を滅亡させた後は、明智光秀の家臣になり、その後、豊臣秀吉に仕えました。
関ヶ原の戦いでは西軍側で出陣するも、戦場では小早川秀秋と共に東軍へ寝返りをし、西軍の敗北を決定づけた人物でもあります。

平野長泰ひらのながやす:1559年(永禄2年)~1628年(寛永5年)
賤ケ岳の戦いの功績により、現在の奈良県である大和国十市郡やまとのくにといちぐんに五千石を拝領し領主となった人物です。
賤ケ岳七本槍の中で唯一、明治時代まで大名になれませんでしたが、家は断絶されることなく子孫代々続くことができています。

 糟屋武則かすやたけのり:1562年(永禄5年)~1607年(慶長12年)
黒田官兵衛に推挙されて、豊臣秀吉の家臣となった人物です。
関ヶ原の戦いでは西軍側で戦い、敗戦後は家禄を没収されています。
その後の記録は乏しく、晩年の様子は正確なことがまだ分かっていません。

まとめ:豊臣秀吉の家臣には、後世に語り継がれるほどの有能な武将が沢山いた

豊臣秀吉は、大勢の有能な家臣たちに支えられていたことが分かりました。
今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀吉には、多くの有能な家臣が仕えていた。
  • 豊臣秀吉の親族たち(豊臣一門):「豊臣秀次」と「豊臣秀頼」
  • 五大老:「徳川家康」「前田利家」「毛利輝元」「宇喜多秀家」「上杉景勝」
  • 五奉行:「石田三成」「浅野長政」「増田長盛」「長束正家」「前田玄以」
  • 側近:「豊臣秀長」「千利休」
  • 軍師(両兵衛):「竹中半兵衛」「黒田官兵衛」
  • 賤ケ岳七本槍:「加藤清正」「福島正則」「加藤嘉明」「片桐且元」「脇坂安治」「平野長泰」

豊臣秀吉の家臣たちは、仕えるようになった経緯も様々であることも分かりました。
初期の頃から豊臣秀吉と苦楽を共に出世していった家臣や、能力を見込まれて取り立てられた家臣だけでなく、合戦相手だった人物もおり、それぞれが秀吉のもっていた、「この人についていきたい」「従わなければいけない」と感じさせる人間力に惹かれたのでしょうか。
それぞれの家臣たちは、豊臣秀吉の天下統一の偉業を果たすには欠かせない人物だったことがわかりますね。

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