豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?病死?暗殺?晩年はどう過ごした?最後は?

豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?病死?暗殺?晩年はどう過ごした?最後は?

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自分の才覚と人心掌握力を駆使して、乱世をのし上がり、農民のでから天下統一を果たした豊臣秀吉。
そんな豊臣秀吉の死因は、病死といわれています。
しかし、晩年に頻発したとされる奇行や、体調を崩してからわずか三ヶ月で亡くなったことなどから、様々な死因が唱えられています。
今回は、豊臣秀吉の死因はなんだったのか?晩年はどうしていたのかについて見ていきます。

豊臣秀吉の死因は何?

豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)に62歳で亡くなりました。
豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)の3月に京都の醍醐寺にて大規模な花見を開催。
その後、5月頃に体調が悪化、そのまま回復することはなく三か月後の8月に死去しています。

豊臣秀吉の死因は、病死という説が有力ですが、病名までははっきりしていません。
また「天ぷらを食べすぎたから」や、「暗殺された」などの説も存在しています。
有名ないくつかの死因について、一つずつ注目していきます。
【豊臣秀吉の死因として有名な説】

  • 豊臣秀吉の死因は、天ぷらを食べすぎたから
  • 豊臣秀吉の死因は、病死(癌、脚気、梅毒など)
  • 豊臣秀吉の死因は暗殺

豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?

「豊臣秀吉は天ぷらを食べたことで急死した。」との噂がありますが、これはおそらく間違いです。
まず人物が違います。亡くなる前に天ぷらを食べていた記録があるのは、「徳川家康」です。
徳川家康が、鯛の天ぷらを食べて体調を崩した事と、豊臣秀吉が急死した事が混じってしまってできた噂と考えられています。
しかし、「天ぷら」は豊臣秀吉が活躍していた1500年代に来日したポルトガルの宣教師から伝わったといわれています。もしかしたら、豊臣秀吉も「天ぷら」を食していたかもしれませんが、死因ではないと考えてよいでしょう。

豊臣秀吉の死因は病死?癌?脚気?梅毒?

豊臣秀吉の死因は、「病死」説が最も有力です。

晩年の豊臣秀吉は、下痢、腹痛、食欲不振で瞬く間にやせ細っていったとされています。
手足には激痛が走り、漢方薬も効かず、失禁の症状もありました。
既に亡くなっているはずの千利休に築城させよと命じたり、千利休のお茶を飲んだ話をしたりとの奇行や物忘れも目立つようになったとされています。
このような症状に当てはまる病気はどのようなものがあるのでしょうか。
腹痛や急激に痩せた症状から「大腸癌」や「赤痢」などが考えられます。
食欲不振や、失禁症状から「脚気」や「腎不全」なども考えられます。
記憶障害や思考力の低下、妄想などの症状から「梅毒」や「痴呆」などもあげられます。
豊臣秀吉の死因は病死である可能性が高いですが、病名までははっきりしていません。

豊臣秀吉の死因は暗殺?

豊臣秀吉の死因を暗殺とする説も存在しています。
18世紀に書かれた朝鮮の歴史書『燃藜室記述ねんれいしつきじゅつ』に
「明の使節だった沈惟敬しんいけいによって毒殺された」
とあるのです。

しかし、明から沈惟敬が来日したのは豊臣秀吉が亡くなる2年前であることから、沈惟敬による暗殺説の信憑性は低いと考えて良さそうです。
ただ、豊臣秀吉が亡くなることで得する人間や、天下を狙っていた人物もいたので、暗殺説は完全には否定できないかもしれませんね。

豊臣秀吉は晩年をどう過ごしていた?

元祖下剋上を成し遂げた豊臣秀吉の人物像を言い表す言葉で良く知られているのが、「ひとたらし」というものです。
事実、現存している豊臣秀吉の資料や直筆の手紙などからも、周りの人に対する細やかな心遣いを見ることができます。豊臣秀吉は、人心掌握力に長けた人物だったと思われます。

しかし、そんな豊臣秀吉も晩年については、「ひとたらし」という言葉が当てはまらなくなっていったようです。
晩年の豊臣秀吉の性格は、散々な評価になるほど激変してしまっているのです。
晩年の豊臣秀吉の問題行動は、それまでの自分の功績を崩すようなもので、家臣たちの求心力も失い、結果として豊臣家の滅亡に導いた原因となったといっても過言ではありません。

豊臣秀吉は、晩年をどのように過ごしていたのでしょうか?
ここでは、豊臣秀吉が天下統一を果たした後から、亡くなるまでの晩年の姿を見ていきましょう。

豊臣秀吉の晩年は孤独だった?

豊臣秀吉の晩年は、孤独だったといわれています。
後見者としていた甥の豊臣秀次を自害させたり、よき理解者で相談相手であった茶の師匠の千利休を切腹させ、落書きの罪で町民を大量処刑したりと、暴君となり果てた晩年の豊臣秀吉。

心を許せるものはなく、周囲の者たちを常に疑い、身内も信頼できない疑心暗鬼の塊な孤独な老人であったとされています。 

豊臣秀吉の暴君的な行動が目立つようになったのは、天下統一を果たした同年の1591年(天正19年)に、異父弟の豊臣秀長の病死してからと言われています。

豊臣秀長は、豊臣秀吉を長い間そばで支え続け、天下人へ押し上げた名参謀です。
豊臣秀吉にとっても、信頼の厚い人物でした。
気が短く怒りっぽい性格の豊臣秀吉を諫めることができる数少ない人物だったとされています。
謙虚、温厚で誠実な性格な豊臣秀長の存在は、家臣たちと豊臣秀吉との緩衝材としても欠かせないものだったようです。
そんな秀吉を支え続けた秀長が病死した後の豊臣秀吉は、ブレーキを失ったかのようになり、独裁的な暴君となり果てしまったのかもしれませんね。

豊臣秀吉は健康に気を遣っていた?

豊臣秀吉の食生活は、健康に気を使ったものだったのでしょうか?
関白になった後の豊臣秀吉は、全国各地の高級食材や珍味を集めさせ、贅沢に明け暮れた食生活を送っていたといわれています。

しかし、晩年になって最も好んだとされる食べ物は以外なほど質素なものでした。
それは、「割粥わりがゆ」とよばれるものです。
「割粥」とは、米粒を石うすで細かくして作ったお粥のことで、当時は長寿に効果があるといわれていました。
晩年の豊臣秀吉は長生きしたいと思い、健康に気を使った食生活をしていたのかもしれません。
一方で、贅沢を尽くした食事よりも、貧しい時代に空腹を満たした麦飯な方が美味しく感じると家臣に言っていたそうです。
このことから、晩年の豊臣秀吉は贅を尽くした生活に虚しさを感じ、割粥を好むようになったとも考えられます。

豊臣秀吉の最後。

豊臣秀吉は、京都の伏見城内で亡くなりました。
ここでは、豊臣秀吉の最後はいったいどんな姿だったのかを見ていきましょう。

豊臣秀吉の没年月日と享年

豊臣秀吉の没年月日は、1598年(慶長3年)の8月18日です。
京都伏見城内で亡くなりました。享年62歳です。

豊臣秀吉の遺言書

豊臣秀吉は、亡くなる数か月前から体調を崩し始めます。
自分の死期を悟ったのか、そのころから豊臣政権を支える家臣たちに、しきりに遺言書を残しています。
現在まで伝えられている遺言書の数は三つです。 

一つ目は、病に伏した5月に重臣に向けた11カ条からなる遺言書です。
この遺言書を渡す際、豊臣秀吉は、内容を厳守するように家臣たちに血判を押させたといいます。
内容は、自分が亡くなった後に誰に何を頼むのかといったものでした。
「何事においても徳川家康と前田利家の意見を求めるように」
「 徳川家康が天下人となりたい時は、とらせてよいので、豊臣家を存続させよ」
といった、具体的な内容まで書かれてあります。
豊臣秀吉は、前田利家が大阪城で息子の豊臣秀頼を後見し、徳川家康は伏見城にて政務を行う体制を構想していたようです。
プライベートは前田利家に、オフィシャル面は徳川家康に、託したというわけですね。

二つ目は、7月に徳川家康などの諸大名に対して届けた「豊臣秀吉遺言覚書案」とよばれる遺言書です。

書かれている内容は、
「徳川家康は三年の間は京に留まり、自分の領地に用事ができても、息子の徳川秀忠が行うようにせよ」
といった、徳川家康に政務面は託す内容が書かれているようです。

そして、三つ目の遺言書は、8月に書かれたもので、五大老に宛てて書かれた「豊臣秀吉自筆遺言状案」とよばれる遺言書です。
書かれている内容は、豊臣秀頼をくれぐれも頼むといったことでした。

このように、豊臣秀吉は病に伏してから、日を開けて三つもの遺言書を複数の人物に託しているのでした。
このことからも、本当に信頼のおける人物がいなかったのではないかと感じられ、豊臣秀吉の孤独な晩年な姿が浮かんでしまいます。

遺言書にはその他にも、自分の死後の取り扱いなど様々な事が書かれているのですが、繰り返し触れている内容があります。
それは、自分の後継ぎであり、当時まだ6歳だった豊臣秀頼のことでした。
豊臣秀吉は遺言書の中で、何度も豊臣秀頼のことに触れ「くれぐれもよろしく頼む」 と懇願しているのです。
この三つの遺言書からは、亡くなる時に豊臣秀吉の中で最も気がかりだったのは、豊臣秀頼のことだったことが強く伝わります。

豊臣秀吉の辞世の句

豊臣秀吉の辞世の句は、このようなものです。

「露とおち 露と消へにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」
現代語訳:
「露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく、儚い人生でした。なにわ(大阪城)で過ごした栄光と繁栄の日々も、春の夜にみる夢のように、むなしく消えていきます。」 

農民の出から自らの力で成り上がり、天下統一という華々しい功績を残した豊臣秀吉が読むとは思えないほど、もの悲しく孤独な一句と感じてしまいます。

豊臣秀吉の遺体はどこへ?

豊臣秀吉が亡くなった時、朝鮮出兵の慶長の役の最中でした。
このため影響を考え豊臣秀吉の死は秘密とされ、その遺体は半年もの間、伏見城内に保管されていたそうです。

その後、遺言に従って現在の京都府の阿弥陀ヶ峰あみだがみねという山の中腹に葬られました。

豊臣秀吉の墓といわれている場所は他にもいくつも存在していますが、明治時代に頂上の五輪塔に再埋葬されていることからも、豊臣秀吉の遺体が埋葬されている場所は、阿弥陀ヶ峰であるとしてほぼ間違いないでしょう。

現在でも、565段もの長い石段を登ると、五輪塔にたどり着き、参拝することができます。

まとめ:豊臣秀吉の死因は病死が有力だが、病名は不明のまま

天下統一を果たした豊臣秀吉が亡くなった原因は病死説が有力です。しかし、どのような病気で亡くなったかは、謎に包まれたままです。
今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀吉の死因は、病死説が有力だが、病名は不明のままである
  • 豊臣秀吉の晩年は、孤独だった
  • 豊臣秀吉の遺体は、京都の山中に埋葬されている

また、豊臣秀吉の晩年は孤独で寂しいものだったことが感じられました。
豊臣秀吉の波乱万丈の人生からは、輝かしい成功者としての憧れを感じる一方で、家族や友人との信頼と愛情のある人間関係が充足した人生には欠かせないことも学ぶことができます。

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