上杉謙信の家紋「竹に二羽飛び雀」は伊達家と同じ?その由来と意味を解説!
上杉謙信は、1530年(享禄3年)2月18日~1578年(天正6年)4月19日の戦国武将。
内乱が長く続いた越後国を統一し、繁栄させるために尽力しました。
戦国最強とよばれた武田信玄率いる武田軍と川中島で5度も戦うなど、戦の才能を持っていた武将として知られています。
上杉謙信の家紋は竹に二羽飛び雀の「上杉笹」です。
ちなみに、形は違いますが伊達家の家紋も「竹に雀」の紋になります。
上杉家と伊達家の家紋は同じなのでしょうか?
今回は、上杉謙信の家紋、二羽飛び雀の「上杉笹」にはどのような意味や由来があるのか?また伊達家の家紋との関係性はどうなのか?について、簡単に解説してきます。
目次
上杉謙信の家紋は竹に二羽飛び雀
上杉謙信の代表的な家紋である「竹に二羽飛び雀」です。
この家紋は、「上杉笹」と呼ばれるほどに上杉家に定着している最も有名な家紋です。
上杉謙信は元々は上杉の姓を名乗る前、長尾氏の一族であり、長尾景虎と名乗っていました。
長尾氏は桓武天皇の子孫である桓武平氏の血を受け継ぐ鎌倉氏の一族で、長年上杉氏を支えていました。
長尾氏の家紋は「九曜紋」でしたが、一体どのような経緯で家紋が変わることになったのか?みていきましょう。
上杉謙信が家紋として竹に二羽飛び雀を使用していたのはなぜ?
上杉謙信は、室町幕府の関東管領である上杉憲政の養子となり、上杉家の家督を継ぎました。
その際、竹に二羽飛び雀の家紋を譲り受けたと言われています。
天文15年(1546年)に河越城の戦いで北条氏康に大敗を喫した上杉憲政は、その後も武田信玄や北条氏康に押され続け、権力を失ってしまいます。
そこで、元々家来の筋であった長尾氏の当主、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へと逃れました。
景虎は憲政を助ける為、関東への出兵を開始し、北条氏の本拠地である小田原城を包囲して氏康を追い詰める活躍を見せます。その景虎の武勇を認められた長尾景虎は、上杉憲政から
「上杉」の名前、家系図や家宝を長尾景虎に譲り受けました。
そして景虎はこの時から憲政の「政」の一文字を拝領して、「上杉政虎」と名乗り始め、自らの家紋も「九曜紋」から上杉氏に代々伝わる「竹に飛び雀」を用いるようになったと言われています。
そしてこの家紋は謙信の養子である景勝に受け継がれ、景勝が米沢で藩主となった後もその家紋として代々受け継がれていくことになるのです。
上杉謙信の家紋と伊達家の家紋は同じ?そのルーツは?
伊達家も上杉家と同じ、竹に二羽飛び雀の家紋を使用していたと言われています。
これは上杉家が「婚姻の証」として伊達家に譲ったからです。
雀紋はもともと上杉家の家紋だったのですが、上杉家が「伊達実元を養子に欲しい」と伊達家に申し出、実元と上杉家の娘を婚姻させる約束をした際の婚姻の証として「竹に二羽飛び雀紋」を送ったと言われています。
その後、改良を加え、紋が伊達家の家紋に加わったということです。
諸事情があり、婚姻話は破断となったようですが、家紋だけはそのまま引き継がれたようです。
上杉謙信は、他の家紋も使用していた?
上杉謙信は「竹に飛び雀」の他に、「九曜紋」や「五七桐」という家紋も使用していました。
この「五七桐」は桐紋の中で最上位の家紋と言われ、天皇家や幕府の象徴として使われていた家紋であり、豊臣秀吉が使用していたことで有名です。
豊臣秀吉から、桐紋は諸国の武将にも広まっていき、現在も日本政府の紋章として使われています。
上杉謙信が元々使用していた家紋は「九曜紋」
上杉謙信が元々使用していた家紋「九曜の紋」は、平安時代より厄よけの重要な文様とされていました。
九曜の紋は真ん中が太陽で周りの8つは星を現わしており、星は決まった軌道で移動するため、運命を司るものとして
狩猟や航海の際には位置がわかるものとして、農業では季節がわかるものとして信仰の対象として使用されていました。
「星」を武神八幡宮の紋「巴」に変えてさらに強力な呪術性をもった「九曜巴」が生まれたようです。
上杉謙信は元々は上杉の姓を名乗る前、長尾氏の一族であり、長尾景虎と名乗っていました。
長尾氏は桓武天皇の子孫である桓武平氏の血を受け継ぐ鎌倉氏の一族です。
その長尾氏の家紋は「九曜紋」だったので、謙信は、長尾景虎と名乗っていた時は「九曜紋」を使用していたようです。
上杉謙信は、天皇から「五七桐」の家紋を授かった
天皇家や幕府の象徴として使われていた権威ある「五七桐」を、なぜ上杉謙信は使用することができたのでしょうか?
謙信は長尾家の家督を継いで当主となった後、1553年(天文22年)に京への上洛を果たし、後奈良天皇と時の将軍、足利義輝に謁見しています。この際に謙信は後奈良天皇から剣と杯を与えられて、「敵を討伐するべし」との勅命を受けました。
その6年後に再び上洛して正親町天皇と足利義輝に謁見します。
この当時は、各地で合戦が起こっている時代であり、天皇に謁見するということは自らの国を留守にするという事であり、そこで兵を率いて天皇の元へ向かう事は大変危険を伴うものでした。
その危険を侵してまで、遠い東北の地から京まで兵を率いて天皇の元に参じる行為に、正親町天皇が大変感激し、謙信の朝廷への忠義を評価して「五七桐」の家紋を授けたと言われています。
上杉謙信は授かった「五七桐」の家紋の絵柄を少し変えて「上杉桐」として家紋に用いたようです。
上杉謙信の旗印は家紋ではない?
戦国時代には「旗印」と呼ばれる軍旗が、戦場で用いられていました。
「旗印」には武将の思想や世界観が反映されており、武将によって様々なバリエーションがあったようです。
旗印は、その武将の座右の銘や、戦に臨む決意表明的なもの記載されており、戦場での目印のような意味を持っていました。
上杉謙信は、仏教の教えに基づいた旗印を使用しており、「毘(び)」と「龍」の文字をあしらった2種類の旗印を使用していました。
毘は、「毘沙門天」の頭文字で、七難を避け七福を与える北方の守護神であり、闘いの神です。
上杉謙信はあまりにも戦に強く、自らが毘沙門天の生まれ変わり、化身だと言い始め、
「我は戦の神の化身なり!」
との意味も含め、「毘」の文字を掲げ戦に臨んだと言われています。
龍も、仏教において魔を払う「不動明王」を象徴する動物として描かれた龍から取られています。
この2つの軍旗は、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わっており、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になかったと言われています。
まとめ:上杉謙信の家紋は3つ。伊達家には縁あって家紋を贈っていた
上杉謙信は、家紋を複数使い分けており、伊達家との繋がりもあったということがわかりました。の内容をまとめると次のようになります。
- 上杉謙信の家紋は3つあった
- 上杉謙信は、長尾性の時は「九曜紋」を使用していた
- 上杉謙信は、上杉姓を名乗ってからは「竹に飛び雀」
- 上杉謙信は、天皇から「五七桐」を授かった
- 上杉家の家紋と伊達家の家紋が似ている理由は、婚姻の証として「竹に二羽飛び雀紋」を上杉家から送られたから
日本の家の紋章とも言える家紋。現在は、一家に一つの家紋が一般的ですが、戦国時代は婚姻の証や、褒美の代わりとして家紋を授かったりすることも多く、複数の家紋を使い分けていた武将もたくさんいました。
なぜ、その家紋を使用していたのか?ルーツを探っていくのも楽しいですよね。