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石田三成とはどんな人?年表から簡単に解説!性格は?功績は?死因は?

石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。そして、小説やドラマ、映画やゲームなど様々なジャンルで取り上げられており、幅広い層に人気があります。そんな石田三成とはどんな人なのでしょうか?この記事では、石田三成の性格や功績、死因などを年表を見ながら、簡単に解説していきます。

石田三成とはどんな人?年表で簡単に解説!

石田三成(いしだみつなり)

1560年(永禄3年)〜1600年(慶長5年)/享年:41歳

父:石田正継

母:瑞岳院

妻:皎月院

子:重家、重成、佐吉、山田隼人正室、小石殿、辰姫、八郎?

【石田三成の年表】

  • 1560年(永禄3年):0歳
    近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県)にて、石田正継と瑞岳院の次男として誕生
  • 1574年(天正2年):14歳
    羽柴秀吉に小姓として仕える
  • 1583年(天正11年):23歳
    賤ヶ岳の戦いにて先駆け衆として一番槍の功名をあげる
  • 1586年(天正14年):26歳
    堺町奉行になる
  • 1587年(天正15年):27歳
    博多町奉行になる
  • 1590年(天正18年):30歳
    秀吉の小田原攻めの際、忍城を攻める
  • 1592年(文禄元年):32歳
    朝鮮出兵で朝鮮総奉行になる
  • 1595年(文禄4年):35歳
    佐和山城の城主になる
  • 1596年(慶長元年):36歳
    京都奉行になる
  • 1600年(慶長5年):41歳
    関ヶ原の戦いに出陣し、敗北。後に捕えられ処刑される

石田三成の性格は?真面目過ぎて嫌われていた?

石田三成の性格として、伝えられている三成の性格の特徴をあげていきます。

  • 頭脳派で算術などが得意な、生真面目な官僚タイプ
  • 好き嫌いがはっきりしている
  • 融通が利かない頑固者
  • 私欲を肥やすことはなく、生活は質素だった
  • 戦上手ではなかったが、後方支援が得意だった
  • 人とのコミュニケーションが不得意だった

つまり、生真面目すぎて融通が利かない面もあったようですが、頭脳明晰でその頭を活かして動ける人物だったということですね。

しかし、このような性格であったために他人と衝突することも多かったようです。
その証拠に、三成は親友だった大谷吉継から、

「三成は横柄で傲慢だと大名から百姓まで噂している。失礼だが、人望がない」

このようにまで言われてしまっています。

親友にここまで言わせるとなると、よっぽど人間関係に問題があったのかもしれません。

そのような性格では誤解を生みやすいのも仕方ないですよね。

石田三成は豊臣秀吉を三献の茶でもてなして気に入られた?

石田三成といえば、豊臣秀吉に仕えていたことで有名です。
いつから石田三成は豊臣秀吉に仕えていたのでしょうか?

それは、石田三成が14歳のときのことです。
その当時、秀吉はまだ長浜城主になって間もないときでした。

ある日、秀吉は鷹狩の帰りに喉が渇き、ある寺に入りお茶を所望しました。

秀吉の要望に対して、ある小姓が大きめの茶碗にぬるめのお茶を入れて持ってきました。
それを喉が渇いていた秀吉は一気に飲み干してしまいます。

そして、もう一杯のお茶を頼みます。
すると、今度は中くらいの茶碗に先程よりも少し熱いお茶が出てきました。

秀吉は違いが気になり、もう一杯お茶を頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入れられた熱々のお茶でした。

秀吉は何故このようなお茶の出し方をしたのかと小姓に聞きました。

すると小姓は、

「最初は喉を潤したいから温いお茶を、2杯目は少し喉が潤わされたからさっきよりも熱めのお茶を、3杯目はお茶を楽しめるように熱いものを出しました」

と言ったのです。

秀吉はこの飲み手への気遣いにとても感心し、この小姓を自分の小姓とすることにしました。
この小姓こそが、石田三成だったのです。

こうして、石田三成は「三献の茶」のおもてなしによって秀吉に仕えることになったのでした。

石田三成の功績を簡単に解説!

石田三成は豊臣家を支え続け出世していきました。
ここでは、石田三成の功績について簡単に解説していきます。

【石田三成の功績】

  • 豊臣政権の外交や内政を支え続けた
  • 全国の検知の基準を統一した
  • 豊臣家を守ろうとして、関ヶ原で徳川家康と戦った

石田三成は豊臣政権の外交や内政を支え続けた

三成は14歳の時に秀吉に気に入られ仕えることになりました。そこからは、豊臣家を支える大事な人材になっていきます。三成がやったことの一部をあげていきます。

  • 賤ヶ岳の戦い(1583)で一番槍の功名をあげる
  • 豊臣政権下の「五奉行」となり、豊臣政権の中核を担った
  • 秀吉に臣従を誓うために上洛した上杉景勝を出迎え、外交窓口として活躍した
  • 秀吉の太閤検地を全国で推進した
  • 堺奉行として堺を整備した
  • 九州平定で水軍を活用した大軍の動員、兵糧や武具などの輸送で遠征を支えた
  • 朝鮮出兵では現地での総奉行を務めて、明との講和交渉に尽力した

このように、一般的に秀吉の功績だと言われるものは、実は影で石田三成が尽力していたものが多いのです。秀吉の意向を実務に反映することができたのが、石田三成のすごいところだと言えるでしょう。

石田三成は全国の検地の基準を統一した?

秀吉は1582年(天正10年)から、太閤検地を始めますが、その多くの場所を石田三成が検地奉行として担当しました。

その際、石田三成は土地の大きさを測る基準になるものさしを統一しました。
ここで使われていたのが「検地尺」です。

現代では、全国を統一の基準で測るというのは当たり前のことですが、この時代では革命的なことでした。

この石田三成が主体となって行われた太閤検地によって、それまで申告制だったために曖昧だった石高が、より正確なものになり、年貢の徴収が安定するようになりました。
そして、収入が増えた豊臣政権はより強大な力を持っていくことになるのです。

石田三成は関ヶ原の戦いで徳川家康と戦った?

秀吉の死後、天下を取ろうと徳川家康が暴走し始めます。

それは、秀吉が生前に作った法を破ったりなどもしていたのです。そこで、石田三成は豊臣家を守るために、徳川家康と対峙することを決心します。

これが関ヶ原の戦い(1600)です。

結果として石田三成は徳川家康に負け、捕えられて処刑されてしまいます。
しかし、石田三成は生涯をかけて、豊臣家に尽くしたと言っても過言ではないでしょう。

\関ヶ原の戦いについては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

関ヶ原の戦いの原因を簡単に解説!いつ、どこで行われた?東軍が勝った理由は?

石田三成の性格がわかる逸話

石田三成は、秀吉への忠義にとても厚く、その生涯を豊臣家のために尽くしました。

真面目とも頑固とも言われる石田三成ですが、他にはどのような一面があるのでしょうか?
ここでは、石田三成の性格がわかる逸話を簡単に解説していきます。

石田三成の家紋は「大一大万大吉」だった?

石田三成の家紋は「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」だと思われがちですが、実はこれは三成の家紋ではありません。正確には旗印として使用されていたものでした。

この旗印の意味は、
「一人が万人のために、万人は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」

というもの。
石田三成は皆が協力して幸せな生活を築いていく、そんな理想を旗印に掲げていたのでしょう。

コミュニケーションを取ることが苦手で、他人から誤解されがちな石田三成ですが、その根本は優しい人なのだということがよくわかりますね。

しかし、この旗印ですが、江戸時代前期の史料には全く見ることができないのです。

秀吉の家臣として名をあげていた石田三成の旗印が全く見られないということはおかしいですよね??

これは、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、情報操作をしたのではないかと言われています。

敗者である石田三成がいい奴ではなく悪いやつであればあるほど、家康にとって都合がよかったということですね。
「歴史は勝者が作る」とはよく言われますが、石田三成もその被害者であったと言っても過言ではないでしょう。

石田三成は島左近に自分と同じだけの領地を与えた?

石田三成の家臣として1番有名だと言えるのが、島左近でしょう。

のちに
「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」
と謳われるほど、島左近は本来は石田三成が家臣にできるような人物ではありませんでした。

それでは、石田三成はどのようにして左近を家臣にしたのでしょうか?

その方法はとても大胆なものです。

石田三成はあるとき、秀吉から4万石の領地を新たに与えられました。

そこで、秀吉は

「何人家来を増やしたか?」
と石田三成に訪ねました。

それに対して石田三成は「一人です」と言ったのです。

秀吉はこれにびっくりすると同時に、どうして一人しか増えなかったのか疑問をもちました。

そこで、誰をどれだけの禄高で召し抱えたのかを聞きます。
すると三成は、島左近に領地の半分である2万石を与えたと言うのです。

これを聞いた秀吉は、
「主君と家臣の禄高が同じとは聞いたことがない。だが、そうでもなければ左近ほどの名士が部下にはなるまい」

と納得したと言われています。

普通であれば家臣への威厳を保つために、主君が1番多い禄高になるようにしますよね。

しかし、石田三成は自分と左近の実力をしっかり考えた上で、そうでもしなければいけないだろうと踏んだのでしょう。
普通であれば考えられないようなことでも、自分の目標のためならば実行する。それができる人物だったと言えるでしょう。

ちなみに、石田三成はこの時自分と同じだけの禄高を分け与えたにも関わらず、その後領地を得た時にまた島左近に与えようとします。
しかし、島左近は流石に
「もう禄はいらないです。他の家臣にあげてください」と断ったそうです。

石田三成がいかに島左近を大事にしていたのかがわかりますし、左近も禄をこれ以上もらわなくても仕えていたいと考えていたことがわかりますね。

石田三成は大谷吉継との友情を大事にしていた?

石田三成の親友といえば大谷吉継です。
石田三成は大谷吉継との友情を非常に大事にしていました。
それがよくわかるエピソードとして、お茶会でのことが挙げられます。

当時、秀吉は頻繁に茶会を開いており、一口ずつお茶を回し飲みする習慣がありました。

その茶会には当然のことながら、秀吉の家臣であった三成と吉継も参加していました。

しかし、吉継はハンセン病を患っており、口をつけずにお茶を回そうとしていたのですが、顔の膿がお茶の中に入ってしまったのです。
それを見た他の武将たちはどよめき、吉継は茶碗を回せなくなってしまいます。

その時、石田三成が
「吉継、私は喉が渇いて待ち切れない。早く碗を回せ」

といい、一気にそのお茶を飲み干してしまいました。
さらには、秀吉に向かって、
「美味しかったので全部飲み干してしまいました。もう一杯ください」とも言いました。

大谷吉継を助け、さらには茶会の場まで丸く収める三成の行動は、まさに義に厚い男であると言えるでしょう。
これ以降、三成と吉継の絆はより一層深いものとなり、関ヶ原の戦いまで運命をともにすることになるのです。

石田三成の死因は?

三成は関ヶ原の戦いのあと亡くなりました。
ここでは、石田三成の死因について簡単に解説していきます。

石田三成は関ヶ原の戦いに負けて捕縛され処刑された?

豊臣家を守るために徳川家康と戦った石田三成でしたが、関ヶ原の戦いには敗れてしまいます。

そこで石田三成は一旦近江国浅井郡(現在の滋賀県)に逃れて、再建を図ろうとするのです。

そうして、石田三成は農民である与次郎太夫に匿われ、身を潜めていました。
与次郎太夫からしたら、石田三成は旧領主であり、かつて飢饉が起きた際に救ってくれた命の恩人だったので、恩を返せるチャンスだったわけです。
しかし、石田三成を匿っていることが名主にバレてしまい、差し出すようにと迫られてしまいます。

石田三成は与次郎太夫の好意に感謝し、自ら捕縛を申し出ることにしました。
こうして、石田三成は捕縛され処刑されてしまうのです。

ちなみに、捕縛された三成を見に来た小早川秀秋に、
「お前が裏切るとは思えなかったのは私が馬鹿だった。しかし、道理を捨てて人を騙して裏切ったことは、武将として恥だ。後世に笑われてしまうべきだ」
と言い放ったと言われています。

いかに、石田三成が豊臣家への忠義を大事にしていたのかがわかるエピソードですね。

石田三成は死ぬ間際まで希望を捨てなかった?

石田三成は残念ながら捕えられ処刑されてしまったわけですが、その死ぬ間際にはこんなエピソードがあります。

処刑の直前、石田三成は喉が渇き、警護の人に水を求めました。

しかし、水はもらえず、代わりに渡されたのは、近くの民家にあった干し柿でした。

それを見た三成は「柿は痰の毒だからいらない」と断ったのです。

それを聞いた警護の人たちは「これから死ぬというのに今更毒断ちして何になる」と笑いました。
しかし、石田三成は笑われても、「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ」と相手にしませんでした。

石田三成は処刑されることが決まっていても、万が一奇跡が起きて生き残ったときのことを考えて、決して自分の信念を曲げることはなかったのです。

まとめ:石田三成は忠義に厚く真面目で知性あふれる武将だった

石田三成は、幼いときから豊臣秀吉に仕え、そこから生涯をかけて豊臣家を支え続けました。決して戦が上手なわけではありませんでしたが、後方支援などをメインにどんどん台頭していきました。

今回の内容をまとめると、

  • 石田三成は14歳の時に、三献の茶で秀吉をもてなし、秀吉の小姓となった
  • 真面目で融通の利かない頑固者であったために、他の家臣との衝突も多かった
  • 戦は上手ではなかったが、後方支援などに長けていた
  • 生涯をかけて豊臣家を支え続けた
  • 豊臣家を守るために徳川家康と戦うことを決意した(関ヶ原の戦い)
  • 関ヶ原の戦いに負け、捕えられ処刑された

頭のいい石田三成のことですから、関ケ原の戦いに挑むことは無謀なことだと推測していたかもしれません。それでも徳川家康に挑んだのは、ひとえに豊臣家への忠義を大事にしたかったからなのでしょう。自分の命すら捧げる石田三成の忠誠心には感心させられます。

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