邪馬台国の場所はどこ?畿内説・九州説とは?有力なのは?卑弥呼の墓所も関係が?
邪馬台国とは、2世紀〜3世紀頃に日本に存在していたとされるクニです。
女王・卑弥呼の治めていたクニとして知っているという方も多いでしょう。
そんな邪馬台国は、どこにあったのでしょうか?
実はその場所については、ずっと論争が続けられているのです。
この記事では、邪馬台国の場所について、その候補地などを簡単に解説していきます。
目次
邪馬台国の場所はどこ?
卑弥呼が治めていたことでも知られている邪馬台国ですが、その場所はどこにあったのでしょうか?
ここでは、邪馬台国の場所について簡単に解説していきます。
邪馬台国の場所は『魏志倭人伝』に記されている?
邪馬台国の場所は、実ははっきりと判明していません。
それは何故かというと、邪馬台国の場所は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に記載されているのですが、その記載されている文章は様々な解釈ができてしまうのです。
魏志倭人伝での、記載されている内容は、「(朝鮮半島の)帯方郡から邪馬台国までの道のり」です。記載されている道のりは以下の通りです。
- 帯方郡より狗邪韓国 水行7000余里
- 狗邪韓国から対馬国 海渡1000余里
- 対馬国から一支国 海渡南に1000余里
- 一支国から末盧国 海渡1000余里
- 末廬国から伊都国 陸行東南に500里
- 伊都国から奴国 陸行東南に100里
- 奴国から不弥国 東へ100里
- 不弥国から投馬国 水行南へ20日
- 投馬国から邪馬台国 水行南へ10日、陸行1ヶ月
このように、距離で書かれているところと、日数で書かれているところが混在しており、記述も非常に曖昧です。
そのため、邪馬台国の場所は、江戸時代から延々と論争が繰り返されてきました。
そして、明治時代に入ってから出てきた、「畿内説」と「九州説」が今では有力な候補地として考えられています。
邪馬台国の場所は畿内か九州のどちらかにあった?
現在の邪馬台国の有力な候補地としては、畿内と九州が挙げられています。
・畿内説
畿内説を最初に唱えたのは、京都帝国大学の内藤虎二郎です。
内藤は、魏志倭人伝の記載内容が信用できないとし、さらに中国の古書は方角の誤りが多いことを指摘します。
そして、南を東と読み替えて、瀬戸内海を舟で東進後、山陽地方から陸路を1ヶ月ほどで、「邪馬台国=大和国」に至ったと考えました。
・九州説
九州説を最初に唱えたのは、東京帝国大学の白鳥庫吉です。
白鳥は、魏志倭人伝の記載内容の距離に着目しました。
魏志倭人伝では、帯方郡から女王国までが1万2000余里で、帯方郡から不弥国までが1万700余里とされています。
この女王国を邪馬台国だと考えれば、不弥国から邪馬台国までは1300余里となり、魏志倭人伝で使われている1里を約100mと計算すると、南に約130kmとなります。
つまり、その計算で行くとちょうど熊本県のあたりに邪馬台国があったということになるのです。
こうした考えから、白鳥は「邪馬台国=肥後国」と考えました。
どちらの説も、距離を短く計算したり、方角を読み替えたりしなければ成立しないものでした。
その後、これらの説を補強する論も現れてきましたが、未だに邪馬台国の場所ははっきりと判明していないのです。
邪馬台国の場所で有力なのは?候補地はどこ?
邪馬台国の場所は、はっきりと判明していませんが、候補地としては、畿内や九州にあったと推測されています。
それでは、具体的な候補地としてはどこが挙げられているのでしょうか?
ここでは、邪馬台国の有力な候補地について簡単に解説していきます。
邪馬台国(畿内説)の場合の候補地は?
邪馬台国が畿内にあった場合の候補地としては、
- 纒向遺跡
- 唐古・鍵遺跡
以上の遺跡が挙げられます。
特に纒向遺跡はかなり有力だと考えられています。
その理由としては、
- 邪馬台国があったとされる時代と合致する土器が非常に多く出土している
- 畿内以外の各地の特徴を持つ土器が異常なほど出てきていることから、全国から人が移住してきていた可能性が高い
- 大型の建物跡が見つかっており、それが巨大な祭殿跡であった可能性が高い
- 祭殿跡は、魏で用いられていた「吉祥尺」に則っていた
- 近くに卑弥呼の墓所の候補地である箸墓古墳が存在している
以上の理由が挙げられます。
しかし、魏志倭人伝の記載によると、邪馬台国は環濠集落であったと言われています。
その特徴を踏まえると、唐古・鍵遺跡のほうが環濠集落であることから、邪馬台国のイメージに近いという説もあるのです。
また、畿内説の場合、邪馬台国の後に日本を統一したとされる「大和政権」との繋がりは以下のように考えられています。
①邪馬台国がそのままヤマト朝廷となった
②ヤマト朝廷(またはその前身)に征服された(邪馬台国の勢力は残っているが吸収された)
③ヤマト朝廷以外の勢力に征服された(邪馬台国の勢力は政治の中心からは消滅した)
大和政権が出現した時期が卑弥呼の亡くなった時期と同時期なことや、邪馬台国と大和政権の名前が似ていることなども、邪馬台国畿内説の根拠としている人もいます。
畿内説の弱点を挙げるとすると、鉄製品の出土が非常に少ないというところでしょう。
魏志倭人伝によると、倭人は鉄製品を多く使用していたとあり、このことを考えると九州説に軍配が上がるのです。
邪馬台国(九州説)の場合の候補地は?
邪馬台国が九州にあった場合の候補地としては、
- 吉野ヶ里遺跡
- 平塚川添遺跡
以上の遺跡などが挙げられます。
いずれの遺跡も、「環濠・宮室・楼閣・城柵」を備えており、魏志倭人伝に記載されている特徴と一致するのです。
また、畿内の遺跡ではあまり見つかっていない、鉄製品が非常に多く見つかっています。
その量は、なんと畿内の約100倍。
これは、鉄鉱石の産地・朝鮮半島との交流があったためと考えられています。
さらに、九州説の根拠として挙げられているものの1つに「巫女」の存在があります。
九州では、弥生時代半ば辺りから、高い社会的地位を持った巫女という存在が現れたと考えられています。いわゆる、強い霊能力を持ったシャーマンです。
この頃の九州では、男王が世俗的権威、巫女王が宗教的権威を司るという二重の政治形態が用いられていました。
そのため、邪馬台国で卑弥呼が巫女王、卑弥呼の弟が政務を司るという形態が一致するのです。
このように、九州説にも様々な根拠が説かれているのですが、どれも決定打に欠け、断定することはできていません。
邪馬台国の場所は卑弥呼の墓所に関係がある?
卑弥呼が邪馬台国を治めていたということは、卑弥呼の墓所は邪馬台国にある可能性が高いですよね。つまり、邪馬台国の場所と卑弥呼の墓所は深い関係があると言っても過言ではありません。
それでは、卑弥呼の墓所はどこにあるのでしょうか?
ここでは卑弥呼の墓所について簡単に解説していきます。
卑弥呼の墓所は判明していない?
結論から言うと、卑弥呼の墓所がどこかというのは、はっきりと判明していません。
普通に考えたら、先程もお伝えしたように、卑弥呼の墓所は、卑弥呼の治めていたクニである邪馬台国にあったはずですよね。
しかし、その邪馬台国自体がどこにあるのか判明していないため、卑弥呼の墓所も断定できない状態なのです。
さらに、近年では、そもそも卑弥呼の墓所は、邪馬台国ではない別のどこかのクニにあるのではないかという説まで出てきています。
これは、卑弥呼が共立された国々の中のひとつのクニの王であり、都とした邪馬台国ではなく、別のクニの出身ではなかったのかというところからきています。
そうなると、当然出身のクニの場所に墓所があるはずですよね。
このように、卑弥呼の墓所の候補地はいくつかあるものの、決定打となるような証拠は出てきていません。そのため、卑弥呼の墓所については、邪馬台国同様、昔から議論が続けられているのです。
邪馬台国の場所による卑弥呼の墓所の候補地は?
卑弥呼の墓所は判明していないものの、邪馬台国の場所による候補地がいくつか存在します。
邪馬台国(畿内説)の場合の候補地
- 箸墓古墳
邪馬台国(九州説)の場合の候補地
- 石塚山古墳
- 祇園山古墳
- 平原王墓
『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の墓所の特徴を参考にして、当てはまるものが多いところが候補地となっていますが、いずれも決定打となる証拠は出てきていません。
もし、卑弥呼の墓所だと断定できるような証拠が出てきたら、邪馬台国論争も決着がつくかもしれませんね。
\ 卑弥呼の墓に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
まとめ:邪馬台国の場所は畿内説と九州説があり、ずっと論争が続けられている
邪馬台国の場所は、中国の歴史書『魏志倭人伝』にその場所が記載されていましたが、その記載の仕方が曖昧であったため、はっきりと断定するまでに至っていませんでした。江戸時代からその場所については延々と論争が繰り返され続けています。
今回の内容をまとめると、
- 邪馬台国の場所は『魏志倭人伝』に記載がある
- 邪馬台国の場所については、記載が曖昧なため場所の断定はできていない
- 邪馬台国の場所は、擬似倭人伝の記載から様々な推測がされ、現在は「畿内説」「九州説」が有力となっている
- 邪馬台国の場所が確定すると、卑弥呼の墓所もわかるかもしれない
江戸時代から論争され続けている邪馬台国の場所ですが、決定づける証拠がないため断定にいたっていません。しかし、時代が進むにつれ、発掘技術などが向上しています。
そのため、昔ではわからなかったようなこと、発見できなかったようなものが今後出てくる可能性が非常に高いです。邪馬台国の場所が確定するのも、そう遠い未来のことではないかもしれませんね。