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源義経の死因は何?最後の姿は?お墓はどこにある?実は生存説もある?

源義経(1159年(平治元年)〜1189年(文治5年))は、平安時代に活躍した武将です。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟でもあります。
源氏と平氏の戦いである源平合戦において、大活躍し最大の功労者となりました。
また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さんが演じられたことで話題となりました。

そんな源義経はどのようにして亡くなったのでしょうか?
また墓所はどこにあるのでしょうか?

この記事では、源義経の死因について簡単に解説していきます。

源義経の死因は何?

源義経の死因は何だったのでしょうか?

源義経の死には、兄である源頼朝が大きく関わっているのです。

ここでは、源義経の死因について簡単に解説していきます。

源義経は妻子らと共に自刃した?

源義経の最後の戦いは、衣川の戦いと言います。

この戦いは、兄である源頼朝に追討され、なんとか平泉に逃げてきた源義経に、奥州藤原氏当主・藤原泰衡が奇襲を仕掛けたという形の戦いでした。

命からがら奥州に逃げてきた義経に十分な軍隊を用意できるはずもなく…。

このときの兵力は、源義経側がわずか10数人なのに対して、泰衡側は約500人もいたそうです。

それでも、源義経の家臣たちは主君を守ろうと奮戦します。

特に武蔵坊弁慶は、最後まで義経を守り、立ったまま全身に矢を受けて戦死しました。

源義経はというと、もう諦めていたのか特に抵抗はせず、機を見計らって妻子に手をかけ、自身も自刃しその生涯に幕を下ろしました。

源義経の最期の地は平泉だった?

源義経が平泉に逃げた理由は、兄・源頼朝に追討されたからです。

源義経は、源氏と平氏の戦いである源平合戦にて大活躍し、最大の功労者となりましたが、戦いの後の義経の態度や失態が許せないとし、頼朝は義経追討の宣旨を出したのです。

そうして追われる身となった義経は、若い頃にお世話になった奥州藤原氏を頼って平泉へと逃亡します。

そしてそこで、奥州藤原氏当主の藤原秀衡は義経を保護。
義経を引き渡せと要求されますが、それを断って最後まで義経を守る姿勢を見せます。

しかし、秀衡が突然亡くなってしまうのです。
秀衡は死ぬ直前に、3人の息子たちに向けて、

「兄弟力を合わせて、義経殿を旗頭として戦うのだ」

と遺言を残しています。

長男の国衡、次男で家督を継いだ泰衡、三男の忠衡です。

藤原秀衡の長男の国衡と三男の忠衡は父の遺言通り、義経を守ろうと言いますが、家督を継いだ次男の泰衡は、頼朝からの圧力に耐えられず、頼朝の言うことを聞こうと言い出すのです。

兄弟で意見が分かれ対立したものの、泰衡は当主権限で強引に義経を襲うことにしてしまいます。

こうして、義経は絶体絶命のピンチに陥ってしまったというわけです。

源義経はなぜ源頼朝と対立したのか?

源義経は、なぜ兄である源頼朝と対立することになってしまったのでしょうか?

それには主に4つの理由があります。

【源義経が源頼朝と対立した理由1】
・源義経が「兄の家来は俺の家来」だと横柄な態度をとったから

源頼朝は、自身が源氏の棟梁になることを望み、平氏滅亡と同時に源氏の統一も進めていました。その際には、袂を分かつようであれば、同じ源氏であろうとも死に追いやっていました。

一方、義経は頼朝と自分は血を分けた兄弟であるから、同等の立場だと考えていました。そのため、「兄の家来は俺の家来」といったような横柄な態度をとることもあったようです。

しかし、頼朝は誰であろうとも自分を主君だと認めない人物は許せませんでした。

つまり、自分のことを主君だと思っていない義経のことも気に食わなかったというわけですね。

【源義経が源頼朝と対立した理由2】

・源義経が奇襲攻撃ばかりで勝っていたから

義経は源平合戦にて非常に大活躍し、最大の功労者となりましたが、その戦い方は頼朝にとっては許せないものでした。

当時、武士同士の戦いといえば、戦いに入る前に名乗るというのが常識でした。

しかし、義経の戦い方は奇襲攻撃ばかり。

頼朝は義を重んじる人物でしたので、このような戦い方を好みませんでした。

さらに、この戦い方は義経の独断によるものも多く、義経の手柄とされてしまうわけです。

このように、自分の納得のいかない戦い方で手柄を挙げていく義経のことを見過ごせなかったのでしょう。

【源義経が源頼朝と対立した理由3

・義経のせいで三種の神器を取り戻せなかったから

源頼朝が平氏に戦いを挑んだ目的の1つに、天皇の証である三種の神器を取り戻すというものがありました。この三種の神器は、平氏によって天皇と一緒に持ち去られていたのです。

頼朝は新しい天皇を立てたいのに、三種の神器がない状況ではどうしようもありません。

そのため、平氏を滅亡させることと同じくらい三種の神器を取り戻すことは大事なことでした。

しかし、義経が最終決戦である壇ノ浦の戦いで平氏を追い詰めた際、三種の神器の1つである草薙剣は安徳天皇とともに海底へと沈み、消失してしまいます。その後、探索を試みるも草薙剣は見つかることはありませんでした。

頼朝はこれを義経のせいだとしたわけです。

源義経が源頼朝と対立した理由4】

・源義経が後白河法皇から勝手に冠位をもらってしまったから

頼朝は、自分が頂点の体制を作る際、序列を乱し混乱が起きないように、自分の承諾がない限り、源氏一門には朝廷の官職に就くことを許していませんでした。しかし、義経は後白河法皇に言われるがままに、頼朝の承諾がないのに勝手に冠位をもらってしまったのです。

これに合わせて、頼朝の家臣である梶原景時が「最後の敵は義経なり」と頼朝をそそのかします。

こうして、義経は頼朝に朝敵とみなされることとなってしまったのでした。

源義経は生存説がある?

源義経は、源頼朝に追い詰められた結果自刃して亡くなりました。
しかし、実は生存していたとする説も存在しているのです。

ここでは、源義経の生存説について簡単に解説していきます。

源義経はチンギス・ハーンになった?

源義経の生存説として有名なのが、義経=チンギス・ハーン説です。

「義経は衣川の戦いで死んでおらず、生き延びて大陸に渡った後、皇帝チンギス・ハーンとなり、ユーラシア大陸の半分を支配する大帝国を繰り上げた」

とする逸話です。

この逸話は江戸時代から噂されていた話なのですが、明治・大正時代に爆発的に広まります。その原因として挙げられるのが2冊の本です。

  • 『義経再興記』
  • 『成吉思汗ハ源義經也』

これらの本が爆発的大ヒットをしたおかげで、義経=チンギス・ハーン説が日本に広がったのです。

しかし、この説はすでに学会で完全に否定されており、事実ではないとされています。

源義経はアイヌの王になった?

もう1つの生存説として挙げられているのが「義経北方伝説」です。

この説では、源義経は衣川の戦いでは死なずに、北の地・北海道へと逃亡し、そこに住んでいたアイヌ民族の王になったと言われています。

そして、この説が本当だとすると、江戸時代前期のアイヌ民族の長・シャクシャインは、義経の末裔であった可能性が高いのです。

しかし、こちらの説も、現実的に考えると義経が逃げ延びて生き残った可能性は低いとされ、事実ではないと考えられています。

源義経の子孫はどうなった?

源義経は、自刃という形で人生の幕を下ろしました。

実は、源義経には子供が何人かいたのです。

その源義経の子孫はどうなっていったのでしょうか?
ここでは、源義経の子孫について簡単に解説していきます。

源義経の正室の子供は源義経自身が手を下した?

源義経の正室は、郷御前という女性で、義経と郷御前の間には、娘が1人いました。

この郷御前と娘は義経が平泉に逃げた時に、一緒に平泉に向かっています。

そして、秀衡が亡くなるまでは、衣川館で家族仲良く暮らしていたわけです。

しかし、泰衡によって衣川館は襲撃を受けます。

最期を悟った義経は、この妻子を自ら手にかけるのです。

この時、郷御前は22歳、娘は4歳とまだまだ若い2人でした。

つまり、正室の子孫は全く残らなかったということになります。

源義経には静御前との間に産まれた子もいた?

源義経には実は正室との間以外にも子供がいました。

それは、妾であった静御前との子でした。

静御前は義経の都落ち後、義経に付き従って移動していました。

しかし、最終的に義経の命で別れることを余儀なくされます。

その後、鎌倉方の手に落ち、鎌倉まで連れて行かれることになるのですが、その時にはすでに静御前のお腹の中には義経の子がいたといいます。

この子は、女の子であれば助命されることが決まっていたのですが、運悪く産まれてきたのは男の子でした。

静御前は泣いて抵抗したそうですが、息子は頼朝家臣の手によって、由比ヶ浜の海の中に沈められてしまいました。

そのため、源義経には子孫は残らなかったということになります。

源義経の墓所はどこにある?

源義経は平泉にて自刃し、亡くなりました。

それでは、その墓所はどこにあるのでしょうか?

源義経の首は、藤原泰衡によって源頼朝に届けられています。
そのため、首塚もあるようです。

ここでは、義経の墓所について簡単に解説していきます。

源義経の墓所は平泉

源義経は平泉にて自刃して亡くなったので、墓所も平泉に存在します。

墓所の場所は、義経が最期に過ごしていた場所・衣川館の場所にあたります。

現在この地には、高館義経堂という建物が建っており、そこに義経の墓もあります。

ちなみに、この高館義経堂は、1683年(天和3年)に、仙台4代藩主・伊達綱村によって建てられました。この堂内には義経の木造が安置されています。

【高館義経堂】

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14

拝観時間:8時30分〜16時30分(11月21日〜3月14日の冬期は休業)

拝観料:大人:300円/小・中学生:100円

駐車場:有り

源義経の首塚が藤沢にある?

源義経が平泉にて自刃した後、藤原泰衡は源頼朝に取り入ろうと、義経の首のみを頼朝に送りつけています。そのため、義経の首は、平泉から鎌倉に送られ、首実検された後、片瀬の浜に捨てられました。

その後、首は潮に乗って境川を遡り漂着し、村人にすくい上げられ、井戸で洗清められたという伝説も残っています。

小田急線藤沢本町の駅に近い白旗交差点のそばの公園の片隅に、義経の首塚の碑と、首を洗ったとされる「首洗井戸」がひっそりと現在も存在しています。

【首洗井戸】

住所:神奈川県藤沢市藤沢2-1-10

まとめ:源義経は源頼朝に追討され、平泉にて自刃した

源義経は源平合戦で大活躍しましたが、様々な理由で兄の源頼朝と対立し、追討されることになってしまいます。頼朝から逃げた義経は、最終的に平泉にて自刃し亡くなりました。

今回の内容をまとめると、

  • 源義経は頼朝に追討され、奥州藤原氏を頼って平泉に逃げた
  • 奥州藤原氏当主・藤原秀衡は義経を匿ったが、その後亡くなってしまう
  • 藤原泰衡は頼朝の圧力に屈し、源義経を攻める
  • 藤原泰衡に攻められた義経は諦めて、妻子に手をかけ、その後自刃する
  • 源義経には、生存説も存在するが、否定されている

現実的に考えて不可能な生存説が、後の時代に広まったことからも、いかに多くの人物が義経に同情し、生きていてほしいと願っていたのかが伺えますね。

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