伊達政宗にゆかりの城を徹底解説!城の特徴は?城下町はどうだった?現在は?
伊達政宗と言えば仙台のヒーローで、遅れてきた英雄や独眼竜政宗の呼び名で大変人気の高い戦国武将です。
大河ドラマでも度々登場し、渡辺 謙や松田 龍平などそうそうたる俳優が伊達政宗を演じています。
またパズドラやモンストなど、ゲームのキャラクターとしても人気の高い武将です。
伊達政宗ゆかりの城と言えば宮城県・仙台城を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、若くして欧州の覇者となった政宗には、他にも縁が深い城があるのです。
今回は、戦国時代から太平の世にかけて活躍した伊達政宗にゆかりのある城を一覧でご紹介し、解説していきます。
目次
伊達政宗にゆかりのある城一覧
伊達政宗は出羽米沢(現在の山形県)に生まれ、僅か23歳の若さで欧州の覇者となりました。
そして、伊達者の由来になったといわれるほど、派手好きだったと言われています。
伊達政宗に縁のある城を一覧で紹介します。
【伊達政宗にゆかりのある城一覧】
- 仙台城(青葉城): 宮城県仙台市青葉区川内1
伊達政宗が築城した城として有名。 - 米沢城:山形県米沢市丸の内
伊達政宗が生まれた城。 - 小手森城: 福島県二本松市針道愛宕森
大内定綱(1545年(天文14年)~1610年(慶長15年))を打つために攻め入り、小手森城の撫で切りを行った。 - 小浜城:福井県小浜市城内1丁目7番55号
伊達政宗が落城させた城。 - 黒川城:福島県会津若松市追手町1-1
摺上原の戦い(1589年(天正17年))で蘆名氏を倒し、居城とした城。 - 岩出山城:宮城県大崎市岩出山字城山42番地2ほか
米沢城から拠点を移して12年間居住した城。 - 若林城: 宮城県仙台市若林区古城2丁目3
伊達政宗のために作られ、彼の死後、壊された城。
仙台城と青葉城の違いは何?
仙台城は、青葉山という山に作られた城で、別名「青葉城」という名前があります。
同じく青葉山に創建された宮城県護国神社は「青葉城」または「青葉城址」と呼んでおり、青葉山公園を管理している仙台市は「仙台城跡」と呼んでいます。
つまり仙台城と青葉城は、呼び方が違うだけで同じ城を指しています。
仙台城跡には、伊達政宗の銅像があり、観光地として名高く、バス停も近くにあるのでアクセスのよい場所です。
城下町はどうだった?
仙台城の築城と同時に、城下町も建設されました。
この土地は、仙台平野の中央にあり、海が近く奥羽街道にも接しており、交通の便が良い場所でした。
お城の近くは身分の高い重臣の屋敷、幹線道路沿いには商店、町はずれや町裏には職人が済むように振り分けられています。
交通の便を活かして、仙台から多くのお米を江戸に運び、江戸に流通するお米のほとんどが仙台藩のお米だっといわれています。
このほか、伊達政宗は田畑を塩害から守るために植林を行ったり、北上川(岩手県~宮城県)を改修し、新田を開いたりしました。
伊達政宗は、戦に強かっただけではなく、政治にも力を入れていたことがわかります。
伊達政宗に関しては、こちらの記事でも詳しくまとめております。
>>伊達政宗の年表を簡単に解説!どんな人だった?主な戦いや功績、政策は?>>
>>伊達政宗の戦い一覧|擦上原の戦い・小田原征伐など主な戦を分かりやすく解説!>>
>>伊達政宗の評価は過大?過少?一体何がすごかったのか?軍事面・政治面で解説!>>
伊達政宗の城1|伊達政宗が生まれた城「米沢城」
米沢城は現在の山形県米沢市の中心にある城です。
伊達政宗が生まれた城として有名で、室町時代の初期から伊達家の本拠地として約200年一族が居住していました。
1589年(天正17年)蘆名氏を摺上原の戦いで破った政宗は、本拠地を黒川城(福島県)に移します。
しかし、伊達政宗は豊臣秀吉に召集された小田原城の戦い(1590年(天正18年))に遅れた罰として黒川城を没収されてしまいました。
そのため、黒川城を手に入れた翌年の1590年(天正18年)には、米沢城に戻っています。
現在は米沢城址 として整備され、春には水堀沿いに植えられた200本の桜が、秋には鮮やかな紅葉がみられるフォトスポットです。
所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4
築城年:1238年(暦仁元年)頃
築城者:長井時広(不明~1241年(仁治2年))
伊達政宗の城2|小手森城
小手森城は、二本松市内にある小浜城主 大内定綱(1545年(天文14年)~1610年(慶長15年))が支配していた城です。伊達政宗が伊達家を継いだばかりのころ、大内定綱が挨拶に訪れ、伊達家に従うと約束しました。
しかし、その約束を裏切って、伊達家と敵対していた蘆名家側に付いたのです。
これに怒った伊達政宗は、大内定綱が立てこもる小手森城を攻撃し、兵士のみならず農民や女性、子供まで約800人を皆殺しにしました。
これは「小手森城の撫で切り」と言われており、伊達政宗の名を諸国にとどろかせた戦です。
小森手城跡地は、現在本丸は残っていませんが、愛宕神社という神社が祀られています。
所在地: 福島県二本松市針道愛宕森
築城年:不明
築城者:不明
伊達政宗の城3|小浜城
大内定綱が城主の時、伊達家に従うと政宗に約束したにもかかわらず、裏切って蘆名氏に付きました。
これに怒った政宗は、小手森城を攻め、その勢いに乗り小浜城も攻め落とすことに成功。
その後は、二本松氏を攻撃するために、小浜城を拠点として戦をしていました。
伊達政宗は約1年間この城に滞在しています。
しかし、この城に滞在している間に、政宗の父・伊達輝宗(1554年(天文13年)~1585年(天正13年))が畠山義継(1552年(天文21年)~1585年(天正13年))人質に取られ、父もろとも畠山義継を殺害することに。
伊達政宗にとっては悲しい思い出のある城です。
現在は本丸の跡地が小浜城址として整備されています。
所在地:福島県二本松市小浜下舘
築城年:1471年(文明3年)
築城者:大内宗政(生没不明)大内晴継(生没不明)※築城者は諸説あり
伊達政宗の城4|黒川城
黒川城はもともと城として築城されたのではなく、蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を作ったのが始まりです。様々な説がありますが、15世紀半ばまでには黒川城として成立したと考えられています。
1589年(天正17年)、伊達政宗は会津(福島県)の蘆名氏を倒そうと、大軍を率いて蘆名領に攻め込みました。
この戦いは摺上原の戦いと呼ばれ、この戦いに勝利した伊達政宗は黒川城も手に入れ、さらに奥州の覇者となったのです。
しかし、翌年の1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原城(神奈川県)攻め参加するように命令され、あろうことか遅刻し、せっかく手に入れた黒川城を取り上げられてしまいました。
代わりに黒川城に住むようになったのは、蒲生氏郷(1556年(弘治2年)~1595年(文禄4年))です。
現在、伊達政宗のころの黒川城の姿は残念ながら残っていません。
1592年(文禄元年)に蒲生氏郷の手によって改修され、さらに、1593年(文禄2年)にも天守が作られる改修が行われています。
合わせて城の名前も「鶴ヶ城」に変更になりました。
地元では現在も鶴ヶ城と呼ばれていますが、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多く、国の史跡としては、若松城跡の名称で指定されています。
所在地:福島県会津若松市追手町1-1
築城年:1384年(元中元年)
築城者:蘆名直盛(1323年(元亨3年)~1391年(元中7年))
伊達政宗の城5|岩出山城
1589年(天正17年)、摺上原の戦いで黒川城を手に入れた伊達政宗ですが、豊臣秀吉の奥州仕置きによって、黒川城を取り上げられて、伊達政宗は米沢城に戻ることになります。
そんな中、1590年(天正18年)10月に葛西大崎一揆が発生し、伊達政宗が見事に鎮圧。
この葛西・大崎一揆の黒幕は伊達政宗ではないか疑惑があがり、それを知った秀吉は、政宗を無罪にはしたものの、米沢城を含む伊達家の領地を没収しました。結果として政宗は、米沢城を出ていかなくてはならず、岩出山城に移住したのです。
伊達政宗が移住した当初は、岩手沢城という名前でしたが、伊達政宗が「岩出山城」という名前に改めています。
現在は岩出山城址(城山公園)として整備されています。
所在地:宮城県大崎市岩出山字城山42番地2
築城年:1394年(応永元年)~1428年(応永35年)ごろ
築城者:氏家直益
伊達政宗の城6|仙台城(青葉城)
伊達政宗と言えば、仙台城(青葉城)。
伊達政宗は豊臣秀吉(1537年(天文6年)~1598年(慶長3年))の配下に入った後、戦に遅刻したので会津(福島県)を取り上げられてしまいます。
その後は、米沢に戻りましたが、奥州仕置きにより岩出山城に移動させられました。
そして、豊臣秀吉亡き後に徳川家康(1543年(天文11年)~1616年(元和2年))に伺いを立てて築城したのが仙台城です。
この仙台城(青葉城)は、明治から大正にかけて多くの建築物が解体され、残っていた門なども第二次世界大戦時の空襲により焼失してしまいました。現在は、寅の門の部材が宮城県知事公舎正門に転用されて残っているのみで、城跡一帯は青葉山公園になっています。そのほか、青葉城本丸会館という施設もあり、政宗ゆかりの兜や刀、家紋をあしらった調度品の展示、城下町のCGなどがあり、伊達政宗をはじめ伊達家、仙台藩、仙台城の歴史を学ぶことができます。
所在地:宮城県仙台市青葉区川内1
築城年:1601年(慶長6年)
築城者:伊達政宗1554年(天文13年)~1585年(天正13年))
伊達政宗の城7|若林城
若林城は、1628年(寛永5年)に伊達政宗によって作られた城です。このころ、既に仙台城がありましたが、実質的な仕事は息子・伊達忠宗(1600年(慶長4年)~1658年(万治元年))が行っていました。
仙台城に行く機会が少なくなっていた政宗は、若林城を造営し、1636年(寛永13年)まで晩年の約8年間をここで過ごしています。
城のほかにも、侍や町人が住む町、奉行所、家臣の屋敷が作られ、城下町となっていました。
しかし、伊達政宗は「自分が死んだら、城の周りの堀を残して若林城は取り壊し、畑とするように」と、遺言を残しており、伊達政宗の死後、遺言に沿って城は取り壊されました。現在、城跡は宮城刑務所となっています。
所在地:宮城県仙台市若林区古城2丁目3
築城年:1628年(寛永5年)
築城者:伊達政宗1554年(天文13年)~1585年(天正13年))
まとめ:伊達政宗にゆかりの城には、伊達政宗の想いと野望が込められていた
多くの人が伊達政宗と言えば、仙台城を思い浮かべるでしょう。しかし、調べてみると、予想以上にゆかりのある城は多くありました。また、苦労して手に入れた城をすぐに没収されたり、生家である城も取り上げられ、波乱万丈な人生を送っていることがわかります。
今回の内容をまとめると、
- 戦で手に入れた城を拠点として、さらに勢力拡大することを目論んでいた
- 戦で成果を上げて喜んだのもつかの間、秀吉から黒川城や米沢城を没収された
- 戦だけではなく、城下町を整備するなど政治にも力を入れていた
- 若林城で比較的穏やかな晩年を過ごしている
戦国時代という、激動の時代を生きた伊達政宗。伊達政宗にゆかりの城は、現在では跡地しか残っていないものもあります。しかし、現地に行くと伊達政宗の息吹を感じることが出いるかもしれませんね。