伊達政宗の戦い一覧|擦上原の戦い・小田原征伐など主な戦を分かりやすく解説!

伊達政宗の戦い一覧|擦上原の戦い・小田原征伐など主な戦を分かりやすく解説!

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伊達政宗は数々の映画やドラマの主人公として取り上げられ、現在でも人気のある武将です。宮城県の仙台城には政宗の銅像が設置され、多くの観光客の撮影スポットにもなっています。
また、政宗は独眼竜の異名を持ち、右目の視力を失いながらも数々の戦で功績を残してきました。
今回は、伊達政宗の戦いを一覧でご紹介し、主要な戦いをわかりやすく解説していきます。

伊達政宗の戦い一覧

伊達政宗は5歳の時に天然痘にかかり右目を失明してしまいました。
そのため、伊達家の家臣からも跡継ぎには適さないと思われていました。
しかし、15歳で初陣を飾り功績を残したので家臣からも一目置かれるようになりました。
その後は数々の戦いを経験、その戦績は10勝2敗4引き分けです。
その主な戦いを一覧で紹介します。

【伊達政宗の戦い一覧】

  • 1581年(天正9年) 相馬氏との合戦 :勝ち
  • 1585年(天正12年)小手森城の戦い :勝ち
  • 1586年(天正13年)人取橋の戦い :負け
  • 1588年(天正16年)大崎・郡山合戦 :負け/引き分け
  • 1589年(天正17年)摺上原の戦い :勝ち
  • 1589年(天正17年)安子ヶ島・高玉城攻略戦 :勝ち
  • 1589年(天正17年)須賀川城攻略戦 :勝ち
  • 1589年(天正17年)奥会津平定戦 :勝ち
  • 1590年(天正18年)小田原の戦い :勝ち
  • 1590年(天正18年)葛西・大崎一揆 :勝ち
  • 1592年(天正20年)文禄の役(朝鮮出兵):引き分け
  • 1600年(慶長5年)白石城の戦い :勝ち
  • 1600年(慶長5年)慶長出羽合戦 :勝ち
  • 1614年(慶長19年)大坂冬の陣  :引き分け
  • 1615年(慶長20年)大阪夏の陣(誉田の戦い):引き分け

伊達政宗は、負けが少なく引き分けが多いのが特徴的です。

伊達政宗の戦い1|伊達政宗の初陣は隣接する相馬氏との戦い

伊達政宗の初陣は彼がまだ15歳のとき、相馬氏との戦いでした。

伊達政宗の父である伊達輝宗(1554年(天文13年)~1585年(天正13年))が家督を継いだころ、相馬氏に伊達領を攻め込まれています。この時、小斎城、金山城、森丸場(いずれも現在の宮城県)を攻め取られました。
輝宗はこの城を取り戻すべく、1576年(天正4年)頃に相馬氏に戦いを仕掛けたのです。
この戦いはすぐには決着がつかず、1581年(天正9年)、政宗が15歳のときに参戦することになりました。
この戦いで政宗は、勇猛果敢に敵に立ち向かい周辺の大名からも評価されたといいます。
初陣から3年後の1584年(天正12年)、小斎城、金山城、森丸場を取り戻しました。
伊達政宗の戦いぶりを見た輝宗は、伊達政宗に家督を継がせることを決意したと言います。
政宗は5歳の時に天然痘にかかり、右目を失明していたので、家臣の中には「片目では満足に戦えず、伊達家の当主になることはできないだろう」と思う者もいました。
しかし、初陣で堂々と戦う伊達政宗の姿を見て、家臣たちは彼を信頼するようになったと言われています。

伊達政宗の戦い2|小手森城の撫で斬りでその名を挙げた

小手森城は現在の福島県二本松市にある城です。
この城は同じく二本松市内にある小浜城主 大内定綱おおうちさだつな(1545年(天文14年)~1610年(慶長15年))が支配していました。
当時、伊達家を継いだばかりの伊達政宗のところに、大内定綱が挨拶に訪れ、伊達家に従うと約束したにもかかわらず、敵対していた蘆名家側に付いたのです。
これに怒った政宗は、大内定綱が立てこもる小手森城を攻撃し、兵士のみならず農民や女性、子供まで約800人を皆殺しにし、「小手森城の撫で切り」言われています。
当時の奥州(東北地方)では、合戦で敵を皆殺しにすることはなかったので、各地の大名が驚いたといいます。

この戦いで、伊達政宗を敵に回すと恐ろしいと、その評判は知れ渡りました。

伊達政宗の戦い3|人取り橋の戦い

小手森城を陥落させた伊達政宗は、大内定綱に味方した畠山義継はたけやまよしつぐ(1552年(天文21年)~1585年(天正13年))を攻撃を仕掛けました。
しかし、畠山義継に隙きをつかれて、父・伊達輝宗が人質になってしまったのです。

もう逃げられないと悟り死を覚悟した輝宗は、「自分もろとも義継を倒せ」と命令。

伊達政宗は、泣く泣く輝宗と義継を鉄砲で 打ち殺しました。義継を倒した政宗は、父の亡骸に駆け寄ったと言われています。
この時の恨みを晴らすべく、父を殺す原因を作った畠山氏が城主である二本松城(福島県二本松市)を攻撃しました。
しかし、常陸(茨木県)の佐竹義重(1547年(天文16年)~1612年(慶弔7年)や、会津(福島県)の蘆名氏あしなしなどが畠山氏の味方に付き、総勢約3万の兵が集まっていました。
対する伊達政宗の軍は、約7千と圧倒的な不利な状況に追い込まれます。
人取橋付近で激しい戦いとなりましたが、苦戦を強いられた伊達政宗軍は総崩れとなり、追い詰められた政宗は死を覚悟しました。
しかし、家臣の片倉景綱かたくらかげつな(1557年(弘治3年)~1615年(元和元年))が「我こそが本当の政宗である」と叫んで敵を引き付け、その隙に政宗は戦場から逃げ出したと言われています。
結果として伊達政宗は敗北しましたが、のちの政宗の強さを作る象徴的な戦いです。

伊達政宗の戦い4|摺上原の戦いで奥州の覇者となる

1589年(天正17年)、伊達政宗は会津(福島県)の蘆名氏を倒そうと、大軍を率いて蘆名領に攻め込みました。
この時、政宗は蘆名家の重臣である猪苗代盛国いなわしろもりくに(1536年(天文5年)~1590年(天正18年))を仲間に引き入れていたのです。

この敵方の重臣を懐柔していたことが、伊達政宗勝利の要因の一つになりました。

伊達政宗勝利の、もう一つの要因は風です。
開戦当初、強風が吹いており、風下にいた伊達軍は目も開けられなかったといいます。そこに蘆名軍が攻め込み、伊達軍は劣勢になります。
しかし、途中で風向きが変わり伊達軍が風上になると、鉄砲隊が蘆名軍を狙撃し一気に優勢になりました。蘆名軍は総崩れとなり、政宗は勝利をおさめ黒川城(福島県)を手に入れると同時に奥州の覇者となったのです。

この時、伊達政宗は若干23歳の若さでした。

伊達政宗の戦い5|北条小田原攻め。豊臣秀吉から奥州仕置きを受ける

政宗が黒川城を手に入れた翌年の1590年(天正18年)、豊臣秀吉(1537年(天文6年)~1598年(慶長3年))から「小田原城(神奈川県)を攻めるので戦に参加するように」と命令がありました。

豊臣秀吉の命令に従うことを決めた伊達政宗でしたが、ある事件がきっかけで召集に遅れてしまいます。
母による、政宗暗殺未遂事件です。

伊達政宗は、豊臣秀吉から招集された頃、母の義姫(1548年(天文17年)ごろ~1623年(元和9年))から食事に招かれます。
しかし、この食事に毒が入れられており、政宗は体調を崩してしまいました。

伊達政宗は一命は取り止めたものの、この騒動は義姫が弟の小次郎(1568年(永禄11年)~1590年(天正18年))を当主にしたいために起こしたものだと考え、この騒動の首謀者として、弟である小次郎を自分の手で切ったのでした。

この暗殺未遂事件で、伊達政宗は秀吉の招集に遅れてしまったのです。
普通に参陣しては殺されてしまうかもしれないと考えた政宗は、なんと白装束で秀吉の前に現れたのです。
白装束を着ることで、「自分は死をも覚悟している」ということを示しました。

豊臣秀吉は、白装束で現れた伊達政宗の行動に驚きつつ、許したといいます。

小田原城の戦いでは、秀吉は約14万の大群で攻め入り小田原城主の北条氏政を倒しました。
この時、政宗は遅れて参加したため、戦うことなく黒川城に帰っています。

戦いに勝った秀吉は、奥州(東北地方)の大名を処罰し始めました。
これを奥州仕置といいます。
伊達政宗は戦いに遅れた処罰として、黒川城(福島県)と会津(福島県)を取り上げられました。

伊達政宗の戦い6|文禄の役(朝鮮出兵)

天下統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮へ出兵することを決めます。そして秀吉から声がかかった政宗は、部下ともども非常に豪華な戦装束で上洛しました。
豊臣秀吉は朝鮮出兵のために肥前(佐賀県)に、名護屋城という城を築城しました。名護屋城を基点にして、約15万もの兵を朝鮮へ送り込んだと言われています。

文禄の役は、初めは豊臣軍が快進撃を続けていましたが、朝鮮水軍におされるようになり、明の軍が参加すると苦戦を強いられました。
1593年(文禄2年)、名護屋城で待機していた伊達政宗にも出兵の命令が出ました。
伊達政宗の部隊は朝鮮各地で戦うも、なかなか戦況はよくなりません。
この朝鮮出兵は、最終的に明と講和交渉が成立し政宗を含む豊臣軍は撤退しました。

伊達政宗の戦い7|大阪の陣(道明寺・誉田の戦い)真田幸村軍との戦い

朝鮮出兵後、1598年(慶長3年)豊臣秀吉が亡くなると、跡継ぎである豊臣秀頼とよとみひでより(1593年(文禄2年)~1615年(慶長20年))と徳川家康(1543年(天文11年)~1616年(元和2年))の権力争いが勃発します。

徳川家康は豊臣秀頼を打つため、豊臣の本拠地だった大阪城を攻撃しました。

伊達政宗にも出撃の命令が下り大阪城へ出撃したものの、豊臣家を滅ぼしたいと強く思っていなかったので、積極的には戦に参加しなかったそうです。

そうこうしているうちに、徳川軍と豊臣軍で和平が決まり、いったん戦いは終了しました。
ここまでが大阪冬の陣です。

冬の陣が終わって江戸(東京)にもどった政宗でしたが、徳川家康は再び豊臣を攻撃します。
政宗にも出陣命令が出て再び大阪へ行くことになりました。これが大阪夏の陣です。

伊達政宗は約1万の兵を率いて、道明寺(大阪府藤井寺市)の誉田山古墳付近で真田幸村さなだゆきむら(1567年(永禄10年)頃~1615年(慶長20年))の軍と対峙することになります。(誉田の戦い

この時、伊達政宗の約1万の兵士に対して、真田幸村の軍は約3000と、伊達政宗が有利な状況でした。
政宗は鉄砲隊で激しく攻撃しますが、幸村は兵を地面に伏せさせて攻撃を回避。
政宗は兵を進めますが、幸村軍に一斉に反撃されます。
この攻撃に政宗軍は混乱して後退しますが、豊臣秀頼から撤退の命を受けた真田幸村は退却。

この時の、真田幸村の戦いぶりに感銘を受けた政宗は、自分の軍だけではなく他の徳川軍にも、真田軍を追撃しないように命じたといいます。

まとめ:伊達政宗の戦いは、奥州の覇者と呼ばれるに相応しいものだった

15歳という若さで初陣を飾り、その戦いぶりから家臣たちも一目置かれるようになった伊達政宗。若い頃から晩年まで様々な戦いに参加してきました。その活躍は、奥州の覇者と呼ばれるにふさわしい戦いぶりでした。
今回の内容をまとめると

  • 伊達政宗は、15歳で初陣を勝利で飾り、家督を継ぐことができた
  • 小森手城の戦いでは、敵を皆殺しにするほど残虐な戦い方もした
  • 摺上原の戦いで勝利を収め、奥州の覇者となった
  • 真田幸村との戦いは、真田幸村に敬意を表し、追撃しないなど男らしい一面もあった
  • 伊達政宗の生涯戦績は10勝2敗4引き分け

様々な戦いを生き抜いてきた伊達政宗。ときには実の父や弟を自らの手で殺さなければならない状況に陥り、実の母から毒をもられるなど波乱万丈の人生を送っていました。様々な苦難を乗り越え戦ってきた姿は、まさに奥州の覇者と言えるでしょう。

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