伊達政宗の年表を簡単に解説!どんな人だった?主な戦いや功績、政策は?

伊達政宗の年表を簡単に解説!どんな人だった?主な戦いや功績、政策は?

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伊達政宗(1567‐1636)は仙台藩を開き、戦国時代に活躍した武将です。
大河ドラマ「独眼竜政宗」は歴代最高の年間平均視聴率を記録しており、眼帯姿はゲームキャラクターとしても人気です。
今回は、伊達政宗の年表から、どのような功績を残した人物なのか?主な戦いや政策などを分かりやすく解説します。

伊達政宗とはどんな人?

生誕地:出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)
生年:1567(永禄10)年 
没年:1636(寛永13)年 満68歳没
父:伊達輝宗 | 母:義姫(最上義守の娘)
正室:愛姫(田村清顕の娘)
側室:7人
子:10男4女 (伊達秀宗、伊達忠宗、伊達宗清、伊達宗泰、伊達宗綱、伊達宗信、伊達宗高、竹松丸、伊達宗実、伊達宗勝、五郎八姫、牟宇姫、岑姫、千菊姫)

伊達政宗の年表を簡単に解説   

【伊達政宗の年表】

1567(永禄10)年 0歳
伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として生まれる。母は輝宗の正室・義姫。

1571(元亀2)年 4歳 
天然痘により右目を失明

1577(天正5)年 10歳 
元服

1579(天正7)年 12歳 
愛姫と結婚

1581(天正9)年 14歳 
初陣、隣接する相馬氏と戦う

1584(天正12)年 17歳 
父・輝宗が隠居し、家督を相続。伊達家第17代当主となる

1585(天正13)年 18歳 
小手森城で撫で斬りを行う。父・輝宗が二本松城主・畠山義継に殺される(人取橋の戦い)

1586(天正14)年 19歳 
二本松城を攻め落とす

1589(天正17)年 22歳 
摺上原の戦いで勝利し、奥州114万石を支配下に置く

1590(天正18)年 23歳 
北条小田原攻めに参加する
弟・小次郎が急死(伊達政宗が殺害したといわれている)

1591(天正19)年 24歳 
葛西・大崎一揆が起きる。一揆の黒幕は政宗

1593(文禄2)年 26歳 
豊臣秀吉の文禄の役に従軍

1600(慶長5)年 33歳 
関ケ原の戦いで東軍に属する

1601(慶長6)年 34歳 
仙台城をつくる。仙台藩の初代藩主となる

1613(慶長18)年 46歳 
支倉常長をスペイン・ローマに派遣する

1614(慶長19)年 47歳 
大阪冬の陣に参加

1636(寛永13)年 満68歳 
江戸で病死。15人が殉死する

伊達政宗とは何をした人なのか?

伊達政宗一体何をした人なのでしょうか?
【伊達政宗のしたこと】

  • 野心家で積極的に戦を展開していた
  • 伊達家の領地を最大にした
  • 仙台藩の初代藩主なり、政策面も非常に優れていた

それぞれ詳しく見ていきましょう。

伊達政宗の主な戦い

伊達政宗は14歳で初陣を飾り、その後数々の戦場へ赴きました。
伊達政宗が当主として活躍し始めた時には、豊臣秀吉がすでに勢力を拡大していたため、秀吉に従うしかありませんでしたが、政宗はあと20年生まれるのが早ければ天下を取れた言われるほど野心家で戦略家でした。
ここでは、伊達政宗の主な戦いを紹介します。
【伊達政宗の主な戦い】

・1585(天正13)年 18歳 小手森城の撫で斬り
政宗は陸奥国安達郡(現在の福島県二本松市)にある、大内定綱の小手森城を攻めました。政宗の目的は裏切り行為を働いた大内定綱への報復でしたが、大内定綱は逃亡したため、見せしめに城内の人々を全て撫で斬りにしました。その人数は、政宗自身が書状で200人とも1000人とも記しています。

・1585(天正13)年 18歳 人取橋の戦い
発端は二本松城主・畠山義継が政宗の父・伊達輝宗を拉致したことです。
畠山義継が伊達輝宗を刺殺したとも、追撃した政宗の鉄砲隊が伊達輝宗もろとも畠山義継を射殺したとも言われています。
父の弔い合戦を仕掛けた伊達政宗の軍勢と、当主を失った畠山氏・救援に駆け付けた佐竹氏や蘆名氏ら連合軍が、人取橋(現在の福島県本宮市)で衝突したのが人取橋の戦いです。
政宗の兵数7000に対し、連合軍は30,000と4倍以上の兵力があり、政宗自身も負傷しながら敗走しました。
最終的には、内紛が起きたため佐竹軍が撤退し、和睦を結んで戦は終結しました。

・1589(天正17)年 22歳 摺上原の戦い
勢力を拡大したい伊達政宗と、南奥州で覇権を握る蘆名義広の争いです。摺上原(現在の福島県磐梯町・猪苗代町)で両軍が激突しました。戦力はほぼ互角でしたが、風向きが味方して政宗の鉄砲隊が優位に働き、政宗は大勝しました。これにより政宗は奥州114万石を支配下に置くこととなりました。

・1590(天正18)年 23歳 北条小田原攻め
豊臣秀吉は北条家を討伐するため小田原合戦を起こし、伊達政宗にも参戦するよう再三書状を送りました。
伊達家は輝宗の代から北条家と同盟関係にあったため、伊達家の中でも秀吉と北条氏のどちらに付くかで意見が分かれ、政宗は小田原に入るが遅れました。
戦が終わる頃に現れた政宗はその場で手打ちにされてもおかしくない状況でしたが、政宗は甲冑の上に白い喪服を着る「死装束」で現れ、秀吉の怒りを解いたと言われています。
遅参したことと、大名同士の戦を禁じる「惣無事令」を破り蘆名氏と争ったことを理由に、政宗は摺上原の戦いで得た領地を取り上げられました。
小田原合戦の参加や貢献度により、東北諸大名の領地が没収・安堵された一連の動きを「奥州仕置」と言います。奥州仕置に反発した葛西晴信・大崎義隆らは1591(天正19)年に葛西・大崎一揆を起こしましたが、政宗はこれを鎮圧しながら、実は一揆が発生するよう裏で扇動していました。
一揆の扇動を秀吉に疑われ申し開きに呼ばれた政宗は、再び死装束をまとい、さらに自らを磔にする黄金の十字架を行列の先頭に担がせるパフォーマンスで、身の潔白を主張しました。

・1593(文禄2)年 26歳 文禄の役
豊臣秀吉の文禄の役に従軍し、政宗は朝鮮に出兵します。京都に集結した軍勢の中でも、豪華絢爛な装束を身に着けた伊達政宗隊はひときわ目を引き、出陣を見送る住民から歓声が上がるほどでした。
朝鮮半島では後方支援で活躍しました。

伊達家の領地を最大にした

伊達政宗は、17代目当主にして伊達家最大の領地を手に入れました。
1589(天正17)年、摺上原の戦いに勝利した政宗は奥州114万石を支配下に置きます。
現在の福島県の中通り地方と会津地方、山形県の南部、宮城県の南部を手中に治め、奥州の覇者となり、全国屈指の領地を持つ大名となりました。
伊達政宗が遅れてきた英雄と呼ばれるのは、若干22歳でこの偉業を達成した所以です。

伊達政宗の政策

政宗は1601(慶長6)年から仙台城と城下町の建造を始め、仙台藩の初代藩主となりました。
【伊達政宗が仙台藩で行った主な政策】

  • ・河川工事、灌漑工事
  • ・文化振興
  • ・外交

それぞれ詳しく見ていきましょう。

・河川工事、灌漑工事
仙台藩を開いた政宗は北上川の流れを変える大工事をし、新田を開いて稲の生産量を増やしました。
また城下町には用水路を開削し、洪水と水不足の両面に対応しました。

・文化振興
仙台藩主となるまで京都や大阪で暮らすことの多かった政宗は、文化人としても教養を磨いており、日本三景の一つ・松島の瑞巌寺や大崎八幡宮など、桃山文化の影響を受けた素晴らしい建築物を建てさせました。

・外交
1613(慶長18)年には家臣の支倉常長をスペイン領メキシコ経由でスペイン・ローマに派遣しました。
慶長遣欧使節と呼ばれるこの使節団は、幕府も認めた正式な外交使節団で、スペイン国王からメキシコとの貿易許可を得ること、ローマ教皇にフランシスコ会修道士の仙台藩への派遣を要請することを目的としていました。
結果的に目的を果たすことはできませんでしたが、政宗は藩主として仙台藩を整備する傍ら、外交活動も行っていたのです。

伊達政宗とはどんな人物だった?

眼帯姿で描かれるのが定番の伊達政宗ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか。

  • 伊達政宗は4歳で右目を失明した
  • 独眼竜と呼ばれたのは江戸後期から
  • 伊達政宗は愛妻家だった

伊達政宗が残した名言も見ながら、人物像を探っていきましょう。

伊達政宗は4歳で右目を失明

伊達政宗は4歳で天然痘にかかり、右目を失明します。
右目に眼帯をつけた姿は近年の映画やドラマで描かれた表現であり、実際に目を覆ってはいなかったようです。
白濁した右目を描く肖像もありますが、政宗本人が「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」と言って、自身の肖像は両目を描くよう希望していました。
伊達政宗と言えば仙台城跡にある騎馬像が有名ですが、この政宗公も両目を見開いた姿で作成されています。

伊達政宗を「独眼竜」と呼ぶこともありますが、これは江戸時代後期の儒学者・頼山陽が詠んだ漢詩が由来です。「独眼竜」という言葉自体、もとは中国の武人のあだ名であり、政宗のために作られた言葉ではありません。独眼竜は政宗の存命中のあだ名ではありませんが、政宗の功績にふさわしい表現ですね。

なお、文禄の役における伊達政宗隊の豪華絢爛な衣装から「伊達者」という言葉が生まれたという説もありますが、「伊達者」は政宗以前から使われていた言葉のようです。

伊達政宗は愛妻家だった

伊達政宗には正室の愛姫と7人の側室がおり、子供は10男4女いました。正室の愛姫との間には4人の子供をもうけています。
結婚当初、内通を疑った政宗が愛姫の乳母や侍女を殺害するという事件が起きますが、その後夫婦仲は良好だったと言われています。
当時の通例にならい、愛姫も生涯のほとんどを人質として江戸で過ごしましたが、離れて暮らす政宗が愛姫を気遣う手紙が残されています。

政宗は、武将としては珍しく自ら料理研究するのが趣味で、ずんだ餅や仙台味噌を作りました。能や美術に造詣が深く、後年文化人として評価された人物像も、愛妻家である所以なのかもしれません。

伊達政宗の名言

儒教には、人が守るべき項目として五徳「仁・義・礼・智・信」の教えがあります。
伊達政宗は自身の経験を踏まえて、この五徳を「伊達政宗五常訓」で表現しました。

に過ぎれば弱くなる
(相手に優しくしすぎれば自分が弱くなる)

に過ぎれば固くなる
(義理に縛られれば動きも考えも固くなる)

に過ぎれば 諂(へつら)いとなる
(礼儀正しさも過ぎてしまえば嫌味になり失礼である)

に過ぎれば 嘘をつく
(知識が増えれば嘘をつくようになる)

に過ぎれば 損をする
(他人を信じすぎれば損をする)

伊達政宗の最期は病死

伊達政宗は68歳で没します。
戦国武将としては長命でしたが、どのような最期だったのでしょうか?
伊達政宗の最後を見ていきましょう。

伊達政宗の死因と家臣の殉死

伊達政宗の死因は食道癌と癌性腹膜炎の合併症でした。
体調不良から死期を悟り、政宗は自分の墓の場所を指示していました。
江戸にいた政宗に対し、妻の愛姫や娘の五郎八姫は政宗に面会を願い出ましたが、政宗は見苦しいところを見せたくないと断り、顔を合わせずに遺言と形見の品を贈りました。
伊達政宗はその翌日に息を引き取りました。満68歳でした。

伊達政宗の死去に伴い、15人の直臣が殉死しました。
さらに5名が直臣に殉死し、合わせて20名が政宗と共に永遠の眠りにつきました。

殉死は江戸時代に一種の風習として広まったとされますが、政宗が死去した際、幕府は殉死者が出ないよう仙台藩に命じていました。
しかし家臣が強く願い出たため、許可されたそうです。
殉死した家臣たちにとって、死後の世界でも側に仕えたいほど、伊達政宗は魅力的な人物だったのでしょう。

伊達政宗の辞世の句

伊達政宗の辞世の句は次のとおりです。

「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
何も見えない暗闇の中を、曇りのない月の光を頼りに進むような一生であった

派手に見えるエピソードの多い伊達政宗ですが、手探りをしながら時勢を読み、試行錯誤して領地を豊かにした生涯でした。

まとめ:遅れてきた英雄・伊達政宗は、男が惚れる男だった

伊達政宗は、戦歴も多く、また政策面でも優れた手腕を発揮した、有能な武将でした。
また、家臣たちにも慕われており、政宗の死の際には20名の殉死者が出たほどです。
今回の内容をまとめると、

  • 伊達政宗は、生まれるのが早ければ天下を取れたと言われた
  • 伊達家の領地を最大にし、仙台藩の初代藩主となった
  • 伊達政宗は4歳で右目を失明したが、独眼竜と呼ばれたのは没後
  • 伊達政宗は病死し、家臣が殉死した

撫で斬りを行う冷酷さと派手な振る舞いを兼ね備えた伊達政宗は、遅れてきた英雄であり、男が惚れるような男でした。

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