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伊達政宗の評価は過大?過少?一体何がすごかったのか?軍事面・政治面で解説!

伊達政宗の評価は過大?過少?一体何がすごかったのか?軍事面・政治面で解説!

伊達政宗は現代でもドラマの主人公やモンストやパズドラなどゲームのキャラクターとして起用されるほど、非常に人気のある武将です。また伊達政宗のが初代藩主を務めた仙台では、英雄として人気を集めています。
しかし、伊達政宗の評価は別れていて、「すごい武将だ」という意見と「それほどすごい武将ではない」という意見もあるのです。
今回は、伊達政宗は偉大な武将だったのか、はたまた過大評価なのか?伊達政宗の戦や政治の成果見ながら解説していきます。

伊達政宗の評価はなぜわかれるのか?

伊達政宗といえば、「独眼竜政宗」という呼び名が有名です。
これは1987年のNHKの大河ドラマのタイトルで、NHKのアンケートで最も好きな大河ドラマに輝くほど人気の作品です。また、最近はゲームのキャラクターとしても多数起用されたり、仙台ではシンボルのような存在でもありますし、非常に評価された武将です。
しかし、伊達政宗の評価に関しては、賛否両論あります。
過大評価?それとも過小評価?それぞれ理由をみていきましょう。

伊達政宗が過大評価されていると言われる理由

まずは伊達政宗が過大評価されているという意見をご紹介します。

  • 伊達政宗が生まれた伊達家はもともと有力な家系だった
  • 戦に勝って領土を広めたものの、すぐに豊臣秀吉に没収されている
  • パフォーマンスが派手なだけで結果を出していない
  • 岩崎一揆を扇動するも、ばれて貰えるはずの領地が減らされている(奥州仕置)
  • スペインへ使節を出すも、外交は成功していない

伊達政宗は若くして奥州を制覇しましたが、豊臣秀吉に領土を没収されたり、肝心な戦に遅れて参加できなかったりしているため、パフォーマンスと実力が伴っていないとの評価をする人もいるようです。

伊達政宗が過少評価されている理由

一方、伊達政宗は正当に評価されていないという意見もあります。

  • 仙台藩の初代藩主になっている
  • 摺上原の戦いで勝利し、23歳という若さで奥州の覇者となった
  • 多くの戦いで勝ちを収めている
  • 戦国時代にスペインへ使節を出したのは先見の明がある

伊達政宗は戦にも強く、伊達家の領地を最大にしました。また、まだ日本が海外との貿易などをあまり考えていない時代に、海外に目を向けスペインに使節を送ったのは斬新です。
伊達政宗は仙台の内政にも力を入れていたので、そのあたりももっと評価されてもいいのかもしれませんね。

伊達政宗の軍事面での評価

伊達政宗は、若干15歳で初陣を飾っています。その後は数々の戦に参加し生涯戦績は10勝2敗4引き分けです。
多くの戦では 勝ちを収めましたが、評価を落とした戦もあります。
どの戦が高評価につながり、どの戦が評価を落としたのか見ていきましょう。

戦では負け知らずだった

政宗は若くして多くの戦いに参加していました。

今回はその中でも政宗の名声を上げた戦いをご紹介します。

・1581年(天正9年) 相馬氏との合戦 :勝ち
政宗が初めて戦に参加したのは15歳の時、相馬氏との合戦でした。
この合戦で勇敢な戦いぶりを見せた政宗は、家臣からも評価されるようになります。
15歳は現代で言えば、中学3年生か高校1年生です。
まだまだ子供として扱われる年齢で、大人に混じって戦っていたのですからすごいことです。

・1585年(天正12年)小手森城の戦い :勝ち
大内定綱(1545年(天文14年)~1610年(慶長15年))が立てこもる小手森城を攻め、敵の兵士のみならず農民や子供、女性まで皆殺しにしています。
これは「小手森城の撫で切り」と言われ、周囲の武将も政宗の戦いぶりに慄きました。

・1589年(天正17年)摺上原の戦い :勝ち
摺上原の戦い(1589年(天正17年))では、会津(現在の福島県)の蘆名氏と戦い大勝しています。
この戦いに勝利した政宗は奥州の覇者となり、東北地方の一大勢力となったのです。
この時の伊達政宗の活躍は豊臣秀吉(1537年(天文6年)~1598年(慶長3年))も警戒するほどでした。

・1590年(天正18年)葛西・大崎一揆 :勝ち
1590年(天正18年)、豊臣秀吉軍は小田原城の戦いに勝利して天下統一を果たしました。
その後まもなく陸奥国中部(宮城県北部~岩手県南部)で一揆が起こりましたが、政宗がこれを鎮めています。

このように政宗は数々の戦いを経験していますが、その多くで勝ちを収めています。

肝心な戦いでは、評価を落としている

数々の戦いで勝ち星を挙げてきた伊達政宗ですが、実は肝心な戦いで評価を落としています。

・1590年(天正18年)小田原の戦い 
豊臣秀吉は天下統一に向けて北条氏がいる小田原城を攻めるため、伊達政宗も招集されました。
しかし伊達政宗の母・義姫(1548年(天文17年)ごろ~1623年(元和9年))による伊達政宗暗殺未遂事件が発生し、小田原城の戦いへの参戦が遅れてしまいました。
豊臣秀吉から殺されてしまうかも?と思った伊達政宗は、秀吉の前に白装束で現れます。
白装束を着ることで、「自分は死をも覚悟している」というアピールで秀吉に許しを乞うたのです。
その結果、無事に許されたものの、結局、戦いには参加せず自分の城に戻っています。
これがパフォーマンスだけで結果を出してないと言われるゆえんです。

・1590年(天正18年)葛西・大崎一揆 
小田原の戦いに遅れたため、伊達政宗は領地を取り上げられてしまいました。(奥州仕置)
しかし、伊達政宗はただでは起き上がりませんでした。取り上げられた領地で一揆を起こして、その一揆を鎮めれば褒美として取り上げられた領地を与えられると考えたと言われています。
まもなく、葛西・大崎一揆が起こり、これを伊達政宗が鎮めました。
しかし、伊達政宗のことをあまりよく思っていなかった家臣の須田伯耆が「この一揆は政宗が扇動した」と秀吉に報告し、秀吉は激怒。
秀吉に呼び出された政宗は、磔柱を持参し自身の潔白を訴えました。
結果的にこの件は不問にされましたが、褒美として希望した領地はもらえていません。
実際のところ、この一揆を主導したのが伊達政宗なのか、真実は分かっていません。ここでも、一揆が自作自演だと噂が立ち、パフォーマンスで懲罰を回避しています。

肝心な戦いでは遅刻し、領地を広げることに失敗している点が、伊達政宗の評価を下げているのでしょう。

伊達政宗の政治面での評価

伊達政宗は武将ということで、その戦いぶりに注目されていますが、仙台藩の初代藩主として政治の面でも功績を残しています。

【伊達政宗の政治面での功績】

  • 仙台城の築城
  • 新田の開発
  • 田畑を守るための植林
  • 石巻港の整備
  • スペイン大使との面会
  • スペインへの使節団の派遣

内政だけでなく、海外に向けて外交政策も行なっていたのです。

伊達政宗は伊達家の領地を最大にするほど、内政に力をいれていた

1601年(慶長6年)、政宗は仙台に移住し、城と城下町を築きその発展に力を入れます。

  • 仙台城の築城
    この城を中心として仙台藩の政治を行いました。
  • 新田の開発
    北上川(岩手県~宮城県)を改修し、新田を開きました。
  • 植林
    田畑への塩害対策としての植林を行っています。
  • 石巻港の整備
    港を整備することで農作物を江戸へ効率よく運搬できるようになりました。

伊達政宗が行った内政によって、仙台藩は実収穫高100万石と言われるほど豊かになったのです。
このころ、江戸に流通するお米のほとんどが仙台藩のお米だっといわれています。

伊達政宗は、外交に力を入れていた

1611年(慶長16年)、伊達政宗はスペインの大使ビスカイノと面会しています。
当時、スペインは世界最強ともいわれる艦隊を有し力を持っていました。このスペインと貿易を行えば国が潤うと考えて国交を開こうとしたのです。

こうして1613年(慶長18年)、伊達政宗は家臣である支倉常長(1571年(元亀2年)~1622年(元和8年))をスペインへ送り出しています。

しかし、翌年の1614年(慶長19年)に徳川家康(1543年(天文11年)~1616年(元和2年))と豊臣秀頼(1593年(文禄2年)~1615年(慶長20年))の対立が表面化。
その後、大阪の陣(1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年))を経て豊臣家は滅びました。

徳川幕府が盤石なものになるとともに、キリスト教の禁教令が発令されました。

伊達政宗が貿易しようとしていたスペインは、貿易とキリスト教の布教を一体のもの考えていたので、政宗が行ったスペインへの使節団派遣は、江戸幕府に良く思われず、スペインとの外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。
しかし、この時代から外交に注目していた伊達政宗はかなり先見の明があったと言えるでしょう。

まとめ:伊達政宗の評価は賛否両論だが、大河ドラマやゲームなどで人気が高い

伊達政宗が注目されたのは、やはりNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」の影響でしょう。
大河ドラマの前はそれほど有名な武将ではありませんでした。それ以降、伊達政宗の知名度と人気は高まり、現在ではモンスト、パズドラ、センゴクといったゲームのキャラクターに起用されています。
今回の記事の内容をまとめると

  • ・伊達政宗は15歳で初めて戦に参加し、それ以降勝ちを重ねてきた。
  • ・肝心の戦いでは、遅刻や自作自演の疑いがかけれ評価を落としている。
  • ・仙台藩の初代藩主となり、内政に力を入れて藩を発展させた。
  • ・外交に注目し、スペインと国交を開こうとしていた。

伊達政宗は若くして奥州の覇者となりながらも、その評価は賛否両論です。
近年ではゲームで人気のキャラクターになっていますが、若くして活躍し、年上の武将と肩を並べて戦ったところが現代人に支持されたのかもしれませんね。

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