北条政子の父 北条時政とはどんな人?何をした人?執権の系図とあわせて解説!
北条政子の父 北条時政は、鎌倉幕府で初代執権です。
伊豆一豪族で、源頼朝を監視する立場から、鎌倉幕府の執権にまで上り詰めた人物です。
北条政子の父親という記憶をしている方も多いのではないでしょうか?
北条政子の父である北条時政は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、北条政子の父 北条時政はどんな人だったのか?執権北条氏の系図とあわせて解説していきます。
目次
北条政子の父 北条時政はどんな人?
北条時政は、伊豆一豪族の出身と言われています。
生年月日:1138年(保延4年)
没年月日:1215年2月6日(建保3年1月6日)享年78歳
父:北条時方(または時兼)母:伊豆掾伴為房の娘
妻が四人、子供は15人ほどいたといわれています
妻1:名前不明 子:北条政子 / 時子
妻2:伊東入道の娘 子:北条宗時 / 阿波局 / 北条義時
妻3:牧の方 子:平賀朝雅および源国通妻 / 滋野井実宣妻 / 宇都宮頼綱妻 / 北条政範
妻4~(生母不明)
子:稲毛女房 / 畠山重忠 / 北条時房 / 坊門忠清妻 / 河野通信妻 / 大岡時親妻
北条時政は、時勢を察知しうる優れた先見性を持ち、フットワークが軽く素早く決断力のある性格だったと考えられています。
北条時政には、子供が何人いた?
北条時政には4男11女の15人もの子供がいたとされています。
妻も分かっているだけで4人以上いたようです。
当時の有力武家は、一族を増やすためにも、多くの妾をもつのが当たりまえでしたので、15人という子どもの数は、当時ではそこまで珍しいものではなかったようです。
北条時政は、源頼朝の監視役だった
源頼朝が開いた鎌倉幕府で大活躍をした北条時政ですが、最初から源頼朝の味方だったわけではありませんでした。最初は、北条時政は、源頼朝の監視役としての立場にいたのです。
伊豆国の小豪族であった北条時政は、妻の一人である「牧の方」の父親が平清盛の家臣だった関係で、平氏側に与していたようです。
そして、「平治の乱」で平氏に源氏が敗北したことで伊豆国に源頼朝が流刑された際、源頼朝の見張り役を任されたのです。
その後、娘の北条政子と源頼朝との恋愛結婚を認めたことをきっかけに、源頼朝の味方へと鞍替えをすることとなったというわけです。
北条時政は何した人?簡単に解説
北条時政はどのような事をした人物なのでしょうか?簡単に解説していきます。
【北条時政がしたこと】
- 北条時政はやり手だった?
- 北条時政は、北条氏の執権の地位を確立した
- 北条時政は、承久の乱にも関わってる?
- 孫の源頼家を暗殺した
北条時政はやり手だった?
北条時政は、巧みに激動の時代を生き抜いた人物だったとされています。
北条時政は、「平治の乱」で源氏を破った平清盛が絶大な権力をもっていた最中に、平氏の傘下を抜け、当時は権力も家臣も資金も持っていない源頼朝の協力者となることを決断しています。
その決断は、源頼朝と娘の北条政子が恋人関係であったことが、きっかけになったかもしれません。
しかしながら、北条時政は情に動かされただけではなく、京の都での平清盛の立場の変化や平家への不信感の高まりを敏感に感じ取っていた可能性もあるという意見もあります。
そんな中、源頼朝が兵士討伐に挙兵すると、北条時政も息子達と共に兵を挙げます。
源頼朝が味方を集める時も、北条時政は使者として甲斐源氏の協力を取り付けることに成功しています。
このことからも、北条時政はそうとうやり手な人物であったことが感じられますよね。
源頼朝からの信頼も厚かったことと思います。
北条時政は、北条氏の執権の地位を確立した
北条時政は、北条氏の執権の地位を確立しました。
執権とは、鎌倉幕府の職名のひとつで、将軍を助け、政務を統轄する役割を担っていました。
北条時政は、孫にあたる源実朝が鎌倉幕府の3代将軍に就任すると、12歳でまだ幼い将軍を補佐することを目的として、執権に就任します。
ここから、将軍が自ら実権を持っていた時代から、執権が政治をおこなう「執権政治」の時代がはじまったのでした。
北条時政は、承久の乱にも関わってる?
「承久の乱」は、北条時政がいなければ起こらなかったとの見解が存在しています。
「承久の乱」は、鎌倉幕府を倒すために鳥羽上皇が起こした乱のことです。
鎌倉幕府側の北条時政が、なぜ討幕の乱に関わっているのでしょうか?
ことの発端は、承久の乱がおきる18年前。
源実朝が鎌倉幕府の3代将軍に就任します。
その際、北条時政は源実朝の後ろ盾になることを後鳥羽上皇にお願いします。
後鳥羽上皇は、源実朝の後ろ盾になることを承諾しますが、そのかわりに、後鳥羽上皇の直属の武士を鎌倉幕府に派遣することを条件としました。
北条時政は後鳥羽上皇の条件を快諾し、後鳥羽院直属の武士西面武士が誕生したのです。
つまり、承久の乱を後鳥羽上皇が起こすことができたのは、西面武士がいたからであり、西面武士誕生のきっかけが、北条時政にあったということです。
北条時政は、源頼家を暗殺した
北条時政は、自分の孫にあたる源頼家を暗殺したといわれています。
なぜ北条時政は、源頼朝の息子を暗殺することになってしまったのでしょうか?
北条時政が62歳の頃、源頼朝が急死し、源頼家が家督を継いで鎌倉幕府の2代目将軍となります。
北条時政は、源頼朝とは強固な信頼関係を築いていたようですが、鎌倉幕府の2代目将軍に就任した源頼家とは相性が良いとは言えなかったようです。
源頼家もしだいに自分の妻の父親である比企能員を、北条時政よりも重用するようになっていきます。
こうして源頼朝が亡くなった後の鎌倉幕府では、
「前将軍(源頼朝)の妻の父親」北条時政と、「現将軍(源頼家)の妻の父親」比企能員
の対立が激化していったのでした。
そのような状況の折、源頼家が病に臥せります。
一時は危篤状態に陥る程の重病だったようです。
この時をチャンスとみた北条時政は、比企家を襲撃し、一族を滅亡させてしまいます。
また、まだ源頼家が存命しているにも関わらず、
「源頼家が死亡したため弟の源実朝が家督を継いだ」
との報告を京の都に届け、源頼家の権力を奪ってしまうのです。
病から少し回復した源頼家は反撃することもできず、修伊豆国の修禅寺に幽閉されてしまい、入浴中に襲撃を受けて暗殺されてしまうのでした。
源頼家の死因となった暗殺事件の首謀者は北条時政とされています。
北条時政は、老齢になっても「状況を見極める力」や「チャンスを逃さない決断力」は健在だったことが伺えますね。
源頼家の死因については、こちらの記事で詳しく解説しております。
北条政子と、父 北条時政の関係はどうだった?
北条政子と父親の北条時政の関係はどのようなものだったのでしょうか。
北条政子と北条時政の後妻「牧の方」は関係が決して良くなかったといわれています。
北条時政は後妻である「牧の方」をとても大事にしていたようですから、晩年の北条時政と北条政子の関係も良いものとはいえなかったのかもしれません。
北条政子は、父を追放して尼将軍となった
源実朝が3代目将軍になった際に、執権として最大の権力を手に入れた北条時政ですが、
執権の在任期間は約2年という短いものでした。
北条時政は娘の北条政子や息子の北条義時によって追放され、伊豆国に幽閉されてしまったのです。
北条時政を追放後、次の執権には北条義時が就き、4代目将軍の後見人となった北条政子は「尼将軍」とよばれるようになったのでした。
北条時政が追放された原因は、「牧の方」と結託して、3代将軍の源実朝を廃し、
娘婿の平賀朝雅を新たに将軍として擁立しようとしたためと言われています。
つまり、北条時政と牧の方は、幕府を乗っ取ろうとしたのです。
しかし、この計画は北条政子と北条義時によって素早く阻止ました。
そうして、北条時政と牧の方は出家し、伊豆国での幽閉生活を余儀なくされ、表舞台に返り咲くことなく、伊豆国の地で生涯を終えるのでした。
北条政子はどんな人?
北条政子は、夫である源頼朝が作った鎌倉幕府を守るために人生を捧げたと言っても過言ではない人物です。
鎌倉幕府を守るためなら、息子でも父でも幽閉し、自ら尼将軍となって政治を行っていました。
承久の乱を終わらせるきっかけとなった、伝説の演説も有名ですよね。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子の役を演じることが決まっています。
どんな北条政子が見れるのか?楽しみですね。
北条政子に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。
>> 北条政子の年表|どんな人?功績は?尼将軍と呼ばれたその生涯を簡単に解説! >>
北条政子と父 北条時政が築いた執権政治の仕組み
北条時政が始めた執権政治は、北条時政が作り上げ、二代目執権の北条義時で完成されたと言われています。
ここでは、執権の系図や執権政治の仕組みを簡単に解説していきます。
北条時政から続く、執権の系図
北条時政から続く、全16代の鎌倉幕府の執権と在任期間をまとめてみました。
【北条執権 一覧】
- 初代執権 :北条時政(ときまさ):1年 11ヶ月
- 第2代執権 :北条義時(よしとき):18年11ヶ月
- 第3代執権 :北条泰時(やすとき):18年
- 第4代執権 :北条経時(つねとき):3年9ヶ月
- 第5代執権 :北条時頼(ときより):10年8ヶ月
- 第6代執権 :北条長時(ながとき):7年7ヶ月
- 第7代執権 :北条政村(まさむら):3年7ヶ月
- 第8代執権 :北条時宗(ときむね):16年1ヶ月
- 第9代執権 :北条貞時(さだとき):17年4ヶ月
- 第10代執権:北条師時(もろとき):10年1ヶ月
- 第11代執権:北条宗宣(むねのぶ):8ヶ月
- 第12代執権:北条煕時(ひろとき):3年1ヶ月
- 第13代執権:北条基時(もととき):1年
- 第14代執権:北条高時(たかとき):9年7ヶ月
- 第15代執権:北条貞顕(さだあき):11日
- 第16代執権:北条守時(もりとき):7年1ヶ月
北条時政は幽閉され、北条義時が2代目執権となった
北条時政が作り上げた執権政治を完成させたのが、2代目執権の北条義時と言われています。
北条時政と牧の方を伊豆国に追放し幽閉することに成功し、北条義時が2代目執権となりました。
将軍の代わりに政務を統轄する権力をもっていた執権ですが、北条時政が初代執権となった時はまだ、完全な権力をもっていたわけではありませんでした。
なぜなら、北条時政は鎌倉幕府の軍部「侍所」を掌握していなかったからです。
執権が、鎌倉幕府の軍部も掌握するようになったのは、2代目執権となった北条義時からです。
北条義時は、軍部トップだった和田義盛に謀反の嫌疑をかけ、排除することに成功したのです。
こうして、政務も軍部も掌握した執権は、名実ともに幕府の実質的な最高権力者として君臨することになりました。また、執権を北条氏の世襲制とすることで、北条氏が幕政を支配するシステムが完成したのも、北条義時からとされています。
この時から滅亡するまで、鎌倉幕府は北条氏を中心に運営されていくのでした。
まとめ:北条政子の父 北条時政は執権北条氏の地位を確立した人物
北条政子の父親である北条時政は、執権北条氏の地位を確立した人物であることがわかりました。
流人だった源頼朝の味方になる事を決断し、2代目将軍を廃することを決断し、3代目将軍の後ろ盾に立候補すると、その2年後には源家以外を将軍にしようと決断するなど、北条時政の人生は、大きな決断の連続でしたね。
今回の内容をまとめると、
- 北条時政は、15人の子供がいた
- 北条時政は、源頼朝の味方になることを決断した
- 北条時政は、孫の源頼家を暗殺した
- 北条時政は、北条氏の執権の地位を確立した
最後の決断は、北条政子らによって阻止されてしまいましたが、北条時政の決断力があったらからこそ、伊豆国の小豪族だった北条氏が、幕府の最高権力を手に入れることができたんですね。