伊藤博文の年表をわかりやすく解説!出身はどこ?どんな功績を残した?

伊藤博文の年表をわかりやすく解説!出身はどこ?どんな功績を残した?

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初代内閣総理大臣として明治日本を創り、歴史に名を刻んだ伊藤博文。

大日本帝国憲法の制定や国会の開設では、中心的な役割を果たした人物でもあります。

日本史に残る数々の仕事を成し遂げた伊藤博文ですが、実は貧しい農家の出身でした。そこから学び明治維新を経て日本の近代化の土台を創り上げた、努力の人です。

今回は、明治新政府を創った伊藤博文の年表見ながら、その生涯を。また、伊藤博文の功績などもわかりやすく解説していきます。

伊藤博文の生涯を簡単に解説

伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した人物として有名です。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」では山崎育三郎さんが伊藤博文を演じています。

【伊藤博文のプロフィール】

【伊藤博文のプロフィール】
伊藤博文(いとうひろぶみ)
出身地:周防国束荷村(現在の山口県光市)
生年月日:1841年9月2日〜1909年10月26日(享年70歳)
妻:伊藤すみ子(先妻)伊藤梅子(後妻)
子:貞子(長女)生子(次女)朝子(三女)文吉(長男・庶子)眞一(次男・庶子)

さらには、初代内閣総理大臣になり、大日本帝国憲法の制定にも携わりました。

日本の近代化に向けた土台を築き上げましたが、最後は暗殺されその生涯を終えました。

伊藤博文の年表を簡単に解説

【伊藤博文の年表】

  • 1841年(天保12年)(1歳)
    周防国(現在の山口県)に貧しい農家の子として生まれる
  • 1857年(安政4年)(17歳)
    松下村塾に入塾し、吉田松陰から政治家の資質を認められる
  • 1862年(文久2年)(22歳)
    高杉晋作らと江戸のイギリス公使館を焼き討ちする
  • 1863年(文久3年)(23歳)
    藩の密命を受けてイギリスに留学
  • 1864年(元治元年)(24歳)
    高杉晋作の功山寺挙兵に参加
  • 1868年(明治元年)(28歳)
    兵庫県知事に就任
  • 1871年(明治4年)(31歳)
    岩倉使節団の副使として米欧回覧
  • 1873年(明治6年)(33歳)
    任参議兼工部卿に就任
  • 1885年(明治18年)(45歳)
    初代内閣総理大臣に就任し、第一次伊藤内閣が発足
  • 1892年(明治25年)(52歳)
    第二次伊藤内閣が発足
  • 1898年(明治31年)(58歳)
    第三次伊藤内閣が発足
  • 1900年(明治33年)(60歳)
    第4時伊藤内閣が発足
  • 1903年(明治36年)(63歳)
    枢密院議長に就任
  • 1905年(明治38年)(65歳)
    特派大使として韓国に派遣され、韓国統監に就任
  • 1909年(明治42年)(69歳)
  • 韓国人の反日運動家・安重根に狙撃され死去

伊藤博文はどんな人

内閣総理大臣務める人物の多くは、元々裕福な家庭の出身が多い印象ですが、実は、伊藤博文はそうではありません。

しかし、努力を重ねて内閣総理大臣となり、近代日本の礎を築きました。

伊藤博文の生涯を簡単に解説します。

【伊藤博文ってどんな人?】

  • 貧しい農家の出身だった
  • 松下村塾に入塾し、松下松陰の下で学んだ
  • 藩の密命でイギリスに留学した
  • 初代内閣総理大臣になり、合計4回総理大臣になった
  • 大日本帝国憲法の制定に携わった
  • 韓国の初代韓国統監になった
  • 中国で暗殺された

伊藤博文の出身は、貧しい身分だった

1841年(天保12年)、伊藤博文は周防国(現在の山口県)の貧しい農家の子として生まれました。

子供のころは満足に食べられず、いつも青い顔をしていたので「青びょうたん」と呼ばれるほどだったようです。

そんな中、伊藤博文は寺で雑用しながら読み書きを学び、上級武士の子に奉公するなど苦労して育ちました。

伊藤博文は松下村塾で、吉田松陰の思想を学んだ

伊藤博文が14歳の時、父の伊藤十蔵が家族ぐるみで長州藩士の伊藤弥右衛門の養子となり、下級武士の身分を手に入れました。

その後、伊藤博文は幕府に相模国(現在の神奈川県)の警備を命じられ、警備隊の隊長・来原良蔵に気に入られて学問を教え込まれています。

この来原良蔵の紹介で、吉田松陰が主宰する松下村塾に入り、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに勉学に励むことになりました。

伊藤博文は、若い時にイギリス留学した

1863年(文久3年)、伊藤博文をはじめとして、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉の長州藩士は、航海術を学ぶために藩の密命でイギリスに留学することになりました。

博文はイギリスの鉄道や馬車、工場やビルを目の当たりにし、圧倒的な国力の差に驚きました。

近代化した西洋の技術に衝撃を受けた伊藤博文は、早急な開国が必要だと考えるようになります。

伊藤博文は、初代総理大臣になり、何度も総理大臣を務めた

明治新政府が誕生した1868年(明治元年)、備前藩(現在の岡山県)とフランス兵との間で「神戸事件」が起こりました。

伊藤博文は、新政府初の外交官として交渉を行い、この事件を解決に導いています。

その後は、大蔵少輔や工部卿といった政府の要職を歴任し、木戸孝允や大久保利通が急逝すると、新政府の事実上の指導者になりました。

1885年(明治18年)には、初代の内閣総理大臣に就任し、名実ともに日本の最高権力者となったのです。

その後も、三度(合計四度)内閣総理大臣となっています。

【伊藤博文内閣】

  • 初代内閣総理大臣 1885年(明治18年)12月22日~1888年(明治21年)4月30日
  • 第5第内閣総理大臣 1892年(明治25年)8月8日~1896年(明治29年)8月31日
  • 第7第内閣総理大臣 1898年(明治31年)1月12日~1898年(明治31年)6月30日
  • 第10第内閣総理大臣 1900年(明治33年)10月19日~1901年(明治34年)5月10日

伊藤博文の功績を簡単に解説

伊藤博文といえば、初代内閣総理大臣、そして旧千円札の肖像画の人物というイメージが強いですが、その他にも数々の功績を残しています。

伊藤博文が成し遂げた功績を紹介していきます。

【伊藤博文の功績】

  • 伊藤博文は海外に留学し、欧米諸国を参考にして日本の近代化を進めた
  • 伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した
  • 伊藤博文は大日本帝国憲法の制定にも貢献した
  • 伊藤博文は初代韓国統監に就任した

伊藤博文は、欧米諸国を研究し日本の近代化を進めた

伊藤博文は三度海外へ渡航しています。

一度目は、1863年(文久3)年に藩の密命を受けてイギリスへ。

二度目は、明治維新後の1871年(明治4)年から1873年(明治6)年にかけて、岩倉遣外使節団の一員としてアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国へ渡航しました。

三度目は、1882年(明治15)年から1883年(明治16)年にかけてドイツ、オーストリア、イギリス、ベルギーなど各国を巡っています。

この海外で学んだ事柄は、日本初の憲法を制定や政治体制の近代化に反映されました。

伊藤博文は、初代内閣総理大臣に就任した

明治新政府が誕生した1868年(明治元年)は、明治維新の功労者である木戸孝允や大久保利通が実権を握っていました。

このころ、伊藤博文は、英語に堪能なことを買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿といった明治政府の重要な職を歴任しました。

その後、木戸孝允や大久保利通が急逝すると伊藤博文は事実上の指導者となります。

1885年(明治18年)、伊藤博文は44歳という若さで初代総理大臣に就任しました。

実はこの時、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目されていましたが、英語能力の高さを評価されて、伊藤博文が総理大臣に就任することが決まったと言われています。

伊藤博文は、大日本帝国憲法の制定にも大きく貢献した

伊藤博文は生涯で、三回海外に渡り見聞を広めています。

その中でも、1882年(明治15)年から1883年(明治16)年にかけての渡欧は、海外の近代憲法を学ぶことが目的でした。

伊藤博文が特に参考にしたのがドイツ国憲法です。

帰国後、伊藤博文が主導して草案が作られ1899年(明治22年)、「大日本帝国憲法」が制定されました。

大日本帝国憲法では、天皇が国のトップとして統治をおこなうことが記載されています。

伊藤博文は、初代韓国統監

 1904年(明治37年)~1905年(明治38年)に行われた日露戦争に勝利した日本は、韓国の支配権を得ました。

この時、韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しています。

伊藤博文は韓国の潜在能力の高さを見抜き、文明国に成長させるべく日本の保護国としました。

しかし、韓国内では日本に対する反感が高まり、1906年(明治39年)、韓国人の反日活動家・安重根によって伊藤博文は暗殺されたのでした。

まとめ:伊藤博文はその生涯を日本の近代化のために捧げた、初代内閣総理大臣

貧しい農家の出身ながら初代内閣総理大臣となった伊藤博文。

三度も海外にわたり、欧米諸国の技術や制度を日本に取り入れ、歴史に残る様々な功績を残しました。

今回の内容をまとめると

  • 貧しい農家の出身で、満足に食べられなかったため「青びょうたん」と呼ばれるほど青い顔をしていた
  • 吉田松陰の松下村塾に入り、吉田松陰の思想を学んだ
  • 長州藩の密命によりイギリスに留学し、西洋の技術や近代社会をを目の当たりにした
  • 44歳の若さで初代内閣総理大臣になり、合計四回総理大臣を務めた
  • 初代韓国統監になったが、最後は暗殺された

日本が近代化に向けて大きく前進できたのは、伊藤博文が海外に3度も渡り、その見識を日本に適した形で取り入れることができたからだと思うと、暗殺という最後を迎えたのがなんだか悲しいですね。

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