足利義満とはどんな人?年表からみる、金閣寺や貿易だけじゃない足利義満の功績
足利義満は、室町幕府の三代目の征夷大将軍で、金閣寺を建てた将軍として有名です。
足利義満は、金閣寺を建立しただけではなく、「南北朝合一」「明との貿易」「室町幕府の権力の確立」「北山文化を開花させる」など、その功績は多岐に渡っており、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築き上げました。
今回は、足利義満の年表から、その功績や人物像を見ていきます。
目次
足利義満とはどんな人?
足利義満は、どのような人物だったのでしょうか。年表から足利義満の生涯を見ていくことにしましょう。
足利義満
1358年(正平13年/延文3年)京都で生まれる
父:足利義詮 母:紀良子
正室:日野業子
継室:日野康子
側室:藤原慶子・春日局ほか
子:足利尊満、足利義持、足利義嗣、足利義教、法尊、虎山永隆、大覚寺義昭、梶井義承ほか
室町幕府第3代征夷大将軍 室町時代の最盛期を築き上げた
足利義満の年表
- 1358年(正平13年/延文3年)1歳
京都に生まれる(幼名は「春王」) - 1368年(正平23年/応安元年)10歳
父の足利義詮が亡くなり、家督を継ぎ、室町幕府の第三代征夷大将軍となる。 - 1374年(文中3年/応安7年)16歳
結婚、日野業子を正室に迎える。 - 1378年(天授4年/永和4年)20歳
花の御所を作り、室町幕府を京都へ移す - 1392年(元中9年/明徳3年)34歳
南北朝を統一する - 1394年(応永元年)36歳
敵男の足利将軍職を嫡男の足利義持に譲り隠居
太政大臣となり、政治上の実権は握り続ける - 1395年(応永2年)37歳
出家する - 1397年(応永4年)39歳
金閣寺を建てる - 1404年(応永11年)46歳
明との貿易を始める - 1408年(応永15年)51歳
病気で亡くなる
足利義満のしたこと
足利義満は金閣寺を建てただけでなく、政治面や経済面でも大きな功績を残し、室町幕府の最盛期を築き上げました。
- 花の御所を建て、京都を政治の中心地とした
- 南北朝を統一した
- 金閣寺を建てた
- 明と貿易した
一つ一つ見ていきましょう。
足利義満が花の御所を建てた場所の地名から、室町幕府と呼ばれるようになった
足利義満が20歳の時、京都に「花の御所」と呼ばれる邸宅を作りました。
足利義満は、ここを居住地とするとともに、政治を行う場所にもしました。
つまり、住んでいる所に仕事場を持ってきたというわけです。
今も昔も、通勤時間は少ない方が良いとの考えは共通なのでしょうか。
花の御所は、もともと二つの大名家の邸宅があった場所を併せた敷地に建てられています。そのため、居住地と仕事場を兼ねることができる十分な広さがあったんです。
この花の御所は、京の町を南北に通る室町小路に正門を設けていました。
このことから、室町殿とも呼ばれていたようです。
室町殿で行われている政治ということで、室町幕府と呼ばれるようになったというわけです。
ちなみに、花の御所があった場所には、現在は同志社大学が建っています。
足利義満が南北朝を統一した
足利義満の大きな功績の一つに、約60年間続いていた南朝・北朝に分かれていた朝廷を統一したことがあげられます。
当時の南北朝の勢力図としては、「幕府+北朝vs南朝」でした。
北朝は幕府の傀儡となっていたので、実質的な調整は、幕府と南朝が行っていたのです。
足利義満は、敵同士を対立させたり、南朝の有力武将を北朝に寝返らせたりと策を講じながら、幕府と対立する豪族を一つ一つ平定していきます。
そうして南朝はどんどん弱体化させていきました。
さらに、足利義満は、寺社などに対して、修復を積極的に実施したりし、歩み寄りを図ります。これによって、それまで幕府に対して不満を抱いていた寺社を、幕府の味方にすることにも成功するのです。
幕府の権威は、この時点で南朝を大きく上回っていました。
この機を逃さず、足利義満は南朝に南北朝統一を提案したのです。
足利義満が出した南北朝統一の主な条件は3つありました。
【足利義満が出した、南北朝統一の主な条件】
1.南朝の持っている神器を、正式な儀式を行って、北朝に与えること
2.天皇には、北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)が交互につくこと
3.領地は鎌倉幕府の時代に戻すこと
足利義満が出した条件は、実は南朝側にも配慮したもので、南朝にとって有利な条件となっています。
もともと弱体化していた南朝側も、この条件ならばと統一に合意したのでした。
しかしながら、この時の条件は守られませんでした。
南朝が持っていた三種の神器は、正式な儀式を行い、南朝が北朝に与える形をとることで、南朝も正式な朝廷であることが示されるものだったのですが、儀式は行われず、北朝に神器が「戻ってきた」という形が取られてしまいます。
南朝はその存在を否定されたのです。
さらに約束していた領地も南朝の天皇には与えられませんでした。
室町政府の対応に納得のいかない南朝は奈良に逃れ挙兵をしますが、平定され南朝は完全に途絶えてしまうのでした。
足利義満は、南北朝を統一したというよりも、統一する体裁を整えたが、実際は南朝を途絶えさせたといった方が良いのかもしれません。
いずれにせよ、相手にとって魅力的な提案をするも、守らず自分の思う通りに事をすすめた、この南北朝統一は、足利義満らしさが存分に込められている出来事といえるでしょう。
足利義満が金閣寺を建てた、その理由は?
足利義満が建てた金閣寺は、世界遺産にも登録されている世界規模で有名な寺院の一つです。
足利義満はなぜ金閣寺を建てたのでしょうか。
足利義満が39歳の時、京都に「北山殿」と呼ばれる大規模な邸宅を建てました。今でいう、別荘に該当します。
「自分の死後はお寺にしてほしい」との足利義満の遺言に従い、邸宅の一部が金閣寺(鹿苑寺)となりました。
金閣寺は、金箔がふんだんに貼られた三階建ての建物です。
一階は貴族の住居に使われた神殿造りで、二階は武家造り、そして三階はお寺の造りとなっています。
階層によって、建築様式が異なる珍しい造りの金閣寺ですが、実はここに足利義満の思いが込められているのでは?との説が存在します。
各階の様式は、一階の貴族よりも二階の武家の方が上であり、それよりも寺社が上であるということを示しているのではないかということです。
金閣寺を建築した時、足利義満は将軍職を譲り出家していました。
このことからも、自分が最高権力者であるとの権威を表していることにもつながるわけです。
さらに、金閣寺の屋根の上に神鳥の鳳凰が設置されていることも、足利義満の思いを表しているといわれています。
鳳凰は徳のある天皇のもとに表れるとされています。
この神鳥を自分の邸宅の屋根に置くことで、
「天皇にふさわしいのは自分である」
と権力を示しているのでは?との説が存在しているわけです。
こんなエピソードを知ってから金閣寺を見ると、屋根の上の装飾までじっくり堪能できて、楽しめそうですよね。
足利義満が金閣寺を建てた理由に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
>>足利義満はなぜ金閣寺を建てたのか?その理由と金閣寺の歴史を徹底解説!
足利義満は、明との貿易を積極的に行った
足利義満は、46歳の時に中国の明との貿易を正式に始めます。
この貿易は「日明貿易」とも「勘合貿易」ともいわれています。
当時の日本海には、倭寇と呼ばれる海賊が頻繁に出ていました。
室町政府と明は、正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合を使用しました。
このことから、「勘合貿易」とも呼ばれるようになったのです。
足利義満が始めた、日明貿易は大成功を収めました。
- 日本からの輸出品 : 鋼・金・硫黄・刀・漆器など
- 日本への輸入品 : 銅銭・生糸・織物・陶磁器・仏教法典(書物)など
明との勘合貿易のおかげで、経済的に豊かになった室町幕府では、北山文化と呼ばれる優美で華やかな文化が開花していくのでした。
足利義満は政治面でも優れた手腕を発揮していた
足利義満の優れた手腕は、政治面でも存分に発揮されていました。いくつもの制度を制定することで、室町幕府の権力を確立させたのです。足利義満が携わった政治面での功績に注目していきましょう。
- 三管領、四職の制度をつくった
- 奉公衆を創立した
- 太政大臣に就任した
- 日本で初めて酒税を課した
それぞれ詳しく見ていきましょう。
室町幕府の仕組みや特徴に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
>>室町幕府とはいったいどんな幕府だったのか?その仕組みや特徴を簡単に解説!
足利義満がつくった、三管領・四職の制度
足利義満は、「三管領」と「四職」という役職をつくりました。
管領とは政治の中枢を担う役職のことです。
将軍が総理大臣だとしたら、管領は内閣の大臣といったところでしょうか。
そして、三管領の三とは、細川氏、畠山氏、斯波氏のことを指します。
一方、四職は、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏のことで、「侍所」の一番上の長官を交代で務めました。
侍所とは、今でいうところの、警察と自衛隊と税務署を兼務しているような仕事です。こちらも非常に権力のある役職です。
そして、三管領も四職も、職に就くことが決まっている家は全て、足利家と同じ源氏の血族です。
つまり、足利義満は権力のある役職を作り、そこに就任できるのは、自分と同じ源氏の血を引く特定の一門に限定したというわけです。
足利義満が三管領・四職の制度をつくったことで、足利家の血筋を頂点に家柄・血筋を使った一族の序列を定め、室町幕府の権威を確立させるとともに、無用な争いを未然に防いだというわけです。
足利義満は、奉公衆を創設した
足利義満は、将軍に直属する親衛隊である「奉公衆」と呼ばれる組織を創設しました。
この組織のつくられたきっかけは、足利義満の家臣が1379年(天授5年/康暦元年)に起こしたクーデター(康暦の政変)でした。
クーデターを起こした家臣たちの武力に屈する形で、足利義満は当時の管領だった細川頼元を失脚させました。
思いがけないクーデターの勃発により、自分の身を常に守る必要があると強く感じた義満は、御馬廻と呼ばれる将軍直属の親衛隊の整備を開始しました。
逆にそれまで、将軍を守る組織が存在していなかったことに驚きです。
こうしてできた、将軍直属の親衛隊は、室町幕府の6代目征夷大将軍の足利義教のころに「奉公衆」として確立されました。
足利義満は、朝廷の最高職「太政大臣」にも就任した
足利義満が36歳の時、朝廷の最高職「太政大臣」に就任します。
太政大臣とはもともと、皇太子など天皇と同じくらいの権力を持つ人が就く役職でした。
いつも存在している役職ではなく、太政大臣は人格的にも優れている人物が就くべきだとされ、ふさわしい人物が現れたときにだけ与えられる役職でした。
そんな役職に足利義満が就任したということは、当時の朝廷内には足利義満に逆らえる者がいないほどの大きな権力を持っていたことを示していることに他なりません。
足利義満は、日本で初めて酒税を課した
足利義満が初めて行った政策の中には、私達の生活の身近な部分と関わっているものがあります。足利義満は、日本で初めて酒税を課した人物でもありました。
幕府のお金が少なくなったとき、お酒ならば税金を払ってでも皆は買うだろうと考えたわけです。
ちなみに税率は、ツボ一つで今の2万円程の税金をかけていたそうです。
現代の酒税がビール1リットルあたり200円程なので、それと比べると結構な税率だったようにも感じます。
足利義満のエピソード
足利義満にまつわるエピソードを紹介していきます。
- 明との国書では、「日本国王」と名乗っていた
- わがままな性格だった
- 一休さんとは接点は無かった
それぞれ詳しく見ていきましょう。
足利義満は、日本国王と名乗っていた?
日明貿易を始める際に、明の皇帝からもらった手紙の中に、
「おまえを日本国王と認めよう」といった内容のものが残っています。
その手紙に対して足利義満も、
「明の皇帝の家来である私、日本国王からお手紙を差し上げます。」
と、自らを日本国王と名乗る内容の返信を送っています。
当時の明には「中華冊封体制」という体制をとっていました。
これは、明と国交を結ぶためには、日本が明の家来(属国)にならなければいけないというものです。
普通に考えると、属国になるなどとんでもないことだと思いますが、足利義満は違いました。
明との貿易によって得られる利益の大きさを選んだのです。
南北朝統一時に、足利義満が約束を守らなかった狡猾さを知っていると、もしかしたら属国となってもいざとなったら従わなければ良いと考えていたのかもしれないなと思ってしまいます。
足利義満はとんでもなくわがままで、権力に固執していた
足利義満の性格は決して良いものでなかったようです。
権力者でありながら、「強きを助け、弱きを憎む」人であるとされており、
時間にうるさく、かつ家臣たちの服装にも、結構口うるさく口を出しているようです。
粘着質で細かくしつこい性格で、時に自己に利益があるようにものごとを曲げる性格であるといえるでしょう。
足利義満は4歳の頃に、南北朝の戦いを避けるために京から避難していました。その避難場所から京への帰り道に、景色が気に入ったようで、
「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」
と家臣らに命じたそうです。
幼子の微笑ましいエピソードともみることができますが、そのころから足利義満の性格の片鱗が見えているようにも思えます。
足利義満と、一休さんは実際には接点はなかった
足利義満は、テレビアニメ「一休さん」の中で、一休さんとトンチ比べをする人物として登場しています。
足利義満が、
「屏風絵の虎が、夜な夜な屏風を抜け出して暴れて困っている。この虎を退治して欲しい。」
一休さんは、
「では、まずは虎を屏風から出してください。そこを私が捕まえます。」
と切り返し、足利義満を感服させたエピソードは有名ですよね。
しかし、実際には一休和尚と足利義満には接点はなかったようです
屏風の虎を退治してほしいというところは、足利義満の性格を表していると知っていたら、もっと違った目線で見れるかもしれませね。
まとめ:足利義満は、金閣寺の建立だけではなく、経済面、政治面でも優れた手腕を発揮し、室町幕府の最盛期をつくった
足利義満の人生を年表からみていくことで,経済面でも政治面でも能力的には優れている人物であることがわかりました。
今回の内容をまとめると、
- 足利義満が花の御所を建てた場所の地名から、室町幕府と呼ばれるようになった
- 足利義満が南北朝を統一した
- 足利義満は、自分の別荘地として金閣寺を建てた
- 足利義満は、明との勘合貿易を積極的に行い,莫大な富を得た
- 足利義満は政治面でも優れた手腕を発揮していた
- 足利義満と、一休さんは実際には接点はなかった
同時に様様な分社の発展に寄与している千手観音のような仕事ぶりや、目的のためには、柔軟にも豪快にもなれる、絶妙なさじ加減を持っている人物像は、足利義満はやり手の実業家であったと言えるのではないでしょうか。
足利義満が金閣寺を建てた理由に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
>>足利義満はなぜ金閣寺を建てたのか?その理由と金閣寺の歴史を徹底解説!
室町幕府の仕組みや特徴に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。