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室町幕府とはいったいどんな幕府だったのか?その仕組みや特徴を簡単に解説!

室町幕府とはいったいどんな幕府だったのか?その仕組みや特徴を簡単に解説!

日本の歴史を考える上で、まず話題に上がるのが戦国時代と江戸幕府、明治維新など。幕府と言えば、「江戸幕府」「鎌倉幕府」そして「室町幕府」です。江戸や鎌倉幕府と比べると、すこし印象の薄い「室町幕府」。
今回は、室町幕府とは一体どんな時代だったのか?について、室町幕府の成り立ちから滅亡まで、出来事や特徴を解説していきます。

この記事を読んでいただけたら、室町幕府とは一体どんな時代だったのかがざっくりとご理解いただけます。

室町幕府とはどんな時代だったのか?

室町幕府とは、足利尊氏あしかがたかうじが1336年(建武3年)に入京し、光明天皇を即位させ北朝を成立した頃から始まったとされています。
室町幕府という呼び方は、3代将軍 足利義満あしかがよしみつが室町に花の御所を建てたことから、その場所の呼び名をとり室町幕府と呼ばれるようになりました。

花の御所(Wikipediaより)

室町幕府の成り立ち

・1274年・1281年
 元寇の影響で、鎌倉幕府の権力と信頼が低下

・1333年(元弘3年)
 後醍醐天皇ごだいごてんのうが「建武の新政けんむのしんせい」を開始するが、武士たちの不満は解消されない。
 武士たちが足利尊氏新田義貞にったよしさだらと共に挙兵し、鎌倉幕府を滅亡させる

・1336年(建武3年)
 足利尊氏が京に入り、光明天皇を即位させる「北朝の成立」
 後醍醐天皇は京都から脱出し、吉野朝廷(現在の奈良県)「南朝の成立」

・1338年
 足利尊氏が征夷大将軍に任命される
 足利将軍は第15代の足利義昭あしかがよしあきまで約240年続く

それぞれの出来事を詳しくみていきましょう。

時は鎌倉時代、1274年と1281年にモンゴル帝国が日本に攻めてきました。(元寇げんこう)当時最強と言われていた、チンギスハンが率いるモンゴル帝国が日本に攻めてきて、日本は大きなダメージを負いましたが、モンゴルの侵略をなんとか防ぐことができました。
しかし、外敵からの侵略を防ぐ戦いだったため、領地も増えることはなく、必死に戦った武士たちに褒美を与えることができなかった鎌倉幕府は、次第に武士たちからの信頼とその権力が弱まっていきました。

時の天皇「後醍醐天皇」は、そのたまりにたまった武士たちの不満をうまく利用し、1331年(元弘元年)に倒幕を計画しましたが失敗
隠岐島へ流されましたが、1332年に脱出し挙兵、足利尊氏足利尊氏や新田義貞らと共に幕府を攻撃、こうして鎌倉幕府は滅亡しました。

そして、後醍醐天皇は天皇に返り咲き1333年(元弘3年)建武の新政を行います。
しかし、鎌倉幕府時代に設定された精度の廃止や変更や、新設された機関の権限を廻り衝突や混乱が続き、武士たちの不満は募る一方でした。

そんな不満を抱えた武士たちをまとめ、挙兵した足利尊氏は1336年(建武3年)に京都に入り、光明天皇を即位させ北朝を成立させました。
そして、幕府としての基本方針をまとめた「建武式目けんむしきもくを制定。
この建武式目の制定が室町幕府の始まりとされています。

一方、後醍醐天皇は、京から脱出し現在の奈良県に南朝(吉野朝廷)を成立させ、ここから南北朝の争いの時代が始まりました。
南北朝の争いは、3代将軍の足利義満の代まで約60年間続きました。

しかし、60年って長いですね。生まれてから還暦までですよ。
それだけの期間争ったら、それは疲弊しちゃいます。

南北朝の争いが終わり、幕府の体制や制度がようやく整い、室町幕府は安定した時代となっていくのです。

室町幕府とは文化や芸能が育った時代だった

室町幕府の時代は、現代にも続く文化や芸能が育った時代と言えます。
茶の湯生花狂言などは、室町幕府の時代に、武家と公家、庶民の文化が融合してできたものなのです。

室町幕府の時代の文化は、主に3つの文化に分けることができます。

・南北朝文化
闘茶とうちゃ猿楽さるがく、田楽から発展した能楽のうがく

・北山文化
3代将軍 足利義満、4代将軍 足利義持あしかがよしもちの時代
禅宗の影響を強く受けた武家文化と公家文化が融合した文化。
中央、地方を問わず、武家・公家・庶民を問わず、能・狂言・茶の湯・生け花などの形が整えられ、基盤を確立されていった。
観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみによる能の確立、風姿花伝ふうしかでんもこの時代に書かれたと言われています。
足利義満が、黄金に輝く金閣寺(鹿苑寺金閣ろくおんじきんかくを造った。

・東山文化
禅の精神「幽玄ゆうげん侘び」に代表される美意識が、公家・武家・庶民に浸透した。能、茶道、華道、庭園、建築(書院造)、連歌、御伽草子などが、徐々に浸透し、日本の伝統文化となっていった。
8代将軍 足利義政あしかがよしまさ銀閣寺(慈照寺銀閣じしょうじぎんかくを造った。

現代にも続く、多くの文化の基盤が出来始めたのは、実は室町幕府の時代なんです。
この時代に花開いた文化や芸能が、徐々に確立され現代に続いているなんて興味深いですね。

室町幕府の主な出来事

・南北朝統一
足利尊氏が北朝に光明天皇を、後醍醐天皇が南朝をと、日本が南北にわかれて争った時代が60年続きました。
1392年に3代将軍 足利義満が、南朝の後亀山天皇から三種の神器を譲り受けたことをきっかけとして、約60年続いた争いが終わりました。

・日明貿易
時は3代将軍 足利義満の時代、倭寇わこうと呼ばれる海賊が東アジアの海域で活動していました。
足利義満は、明や朝鮮からの依頼で、倭寇を取締ることに成功し、明と貿易を開始します。
正式な貿易と倭寇とを区別するために、勘合かんごう(合札)を用いていたことから、勘合貿易とも呼ばれています。
この日明貿易で稼ぎ、足利義満は様々な幕府安定の政策を行い、金閣寺も建立できたと言われています。

・応仁の乱 1467年(応仁元年)〜1477年(文明9年)
約11年間に及んだ応仁の乱のきっかけは、元々は家督争いだったんです。
8代将軍 足利義政は、あまり政治には興味がなく、文化や芸能の発展に力をいれていました。
そんな義政にはなかなか後継が生まれず、弟の足利義視あしかがよしみを養子として迎え、次の将軍にすることを決めていました。
しかし、義政の妻 日野富子ひのとみこと義政の間に、待望の後継が生まれたことから、一気に流れが変わります。
日野富子は、「自分が産んだ男子をなんとしても将軍にしたい!」
しかし、次期将軍は弟の義視に決まっている。
そんな時期将軍を巡る争いと、将軍の補佐役の家督争いが重なり、全国の武士を巻き込んんだ大きな戦いとなりました。

この応仁の乱がきっかけで、戦国時代に突入したとも言われている、いわば日本の歴史上最大級の家族喧嘩と言ってもよいでしょう。
応仁の乱以降、全国各地の農民や寺社仏閣の宗教団体が勢力を拡大し、各地で一揆が怒るようになります。
また、日明貿易をはじめとして貿易も盛んになり、商人たちも力を蓄えるようになりました。

室町幕府の将軍一覧

足利尊氏(Wikipediaより)

足利尊氏がひらいた室町幕府の将軍は15代続きました。

氏名(享年)在職年数主な出来事
1足利尊氏たかうじ(54)19年8ヶ月室町幕府をひらく、建武式目の制定
2足利義詮よしあきら(38)9年
3足利義満よしみつ(51)26年南北朝の統一、金閣寺、日明貿易
4足利義持よしもち(43)28年4ヶ月
5足利義量よしかず(19)1年11ヶ月
6足利義教よしのり(48)12年3ヶ月嘉吉の乱かきつのらんで暗殺される
7足利義勝よしかつ(10)8ヶ月
8足利義政よしまさ(55)24年8ヶ月応仁の乱、銀閣寺
9足利義尚よしひさ(25)15年4ヶ月
10足利義材よしき(58)後の義稙よしたね3年/13年6ヶ月改名し、再度将軍に就く
11足利義澄よしずみ(32)13年4ヶ月
12足利義晴よしはる(40)25年
13足利義輝よしてる(30)18年5ヶ月
14足利義栄よしひで(29)8ヶ月
15足利義昭よしあき(61)19年3ヶ月織田信長と対立、京都を追放される

そんな15代いる足利将軍ですが、特に覚えておいた方が良い将軍は4人。
初代 足利尊氏」「3代 足利義満」「8代 足利義政」「15代 足利義昭」この4人を覚えておけば、室町幕府の時代の流れは把握できます。

室町幕府の仕組み。どのような機関が政府を動かしていたのか?

室町幕府は、鎌倉幕府の仕組みを引き継いだような形で構成されていました。

【室町幕府の仕組み】

将軍の直下に管領かんれいをおき、全体を管理するという仕組みをとっていました。鎌倉幕府の時代に執権と呼ばれていた役職を管領とした以外は、ほぼそのまま引き継いだかたちです。

その管領には北条氏の一族だけではなく、「大内氏」「赤松氏」などの有力な守護大名を配置しました。また、3代将軍 足利義満の頃には、「斯波しば」「畠山氏」「細川氏」の三氏が交代で管領を持ち回すことが定められ「三管領さんかんれい」と呼ばれました。
管領は、複数の守護に任命されるほど強大な存在となっていきましたが、この守護大名の対立が後の応仁の乱の原因にもなります。

また、室町幕府では、中央と地方で仕組みを変えて運営する仕組みをとっていました。

【中央の仕組み】
政所まんどころ
政治や経理を担当する部署。現在の会社に例えると、経営企画部や経理部、総務部のような所です。
15世期後半に成立した「武政軌範(室町幕府の訴訟制度解説書)」によると、

  • 将軍家および幕府の経済基盤
  • 諸国両所年貢
  • 土蔵、酒屋、その他所商売公役など…
  • 利銭、出挙、替銭、年経地など…

などを管轄するという職務が規定されています。
長官を「執事」、次官を「執事代」、執事代の代理を「政所代」、政府職員の役人は「寄人よりうど」と呼んでいました。
トップに執事がいて、15〜20人位で構成された寄人が実務を担当していました。

侍所さむらいどころ
侍の文字通り、武士を統括する機関で、京都の警備や治安維持、現代の警察のような役割を担っていました。
3代将軍 足利義満の頃から、「赤松氏」「一色氏」「京極氏」「山名氏」が交代で侍所の長官を努めるようになり、「四職ししき」と呼ばれました。
長官を「当人とうにん」または「所司しょし」、その補佐官として実務を担当する「所司代しょしだい」、その下に「奉公人」、「小舎人こどねり」、「雑色ぞうしき」と配置されていました。
また、侍所の職員ではないものの事務方責任者として「開闔かいこう」、その下に「目附めつけ」、「寄人よりうど」と配置されていました。

問注所もんちゅうじょ
文書作成や管理、訴訟事務を担当する機関。主に簡易訴訟のみを扱うことが多く、一般訴訟に関しては「評定衆」の下に配置されていた「引付」が担当していた。

【地方の仕組み】
・鎌倉府
鎌倉幕府が滅亡した後、関東の勢力を監視するために設置されました。
室町幕府の出張機関で、都の機関の縮小版ともとれるほどです。
鎌倉幕府のあった鎌倉の地は、室町幕府にとっても重要な拠点でその長官には足利基氏あしかがもとうじの子孫が世襲していました。
鎌倉府は、「常陸」「上野」「下野」「上総」「下総」「武蔵」「相模」「安房」の関東8ヵ国と、「甲斐」「伊豆」を合わせた10ヵ国を統治していました。

・関東管領
鎌倉府の補佐として関東管領がありました。
中央の機関と同様に、政所、侍所、問注所が設置され、奉公衆も存在していたことから、まさに中央の機関の出張所的な位置付けでした。

・奥州探題
陸奥国(青森・岩手・宮城・福島)を統治する機関。

・羽州探題
出羽国(秋田・山形)を統治する機関。

・九州探題
九州全域を統治する機関。
設置された初期の頃には、「鎮西管領ちんぜいかんれい」とも呼ばれていました。

・守護、地頭
守護」は、地方の各国の行政、軍事の代行権限を委任されていました。
また、守護は荘園などを管理する「地頭」の統括も担当していましたが、徐々に勢力を拡大し「守護大名へとなっていきました。

室町幕府がこのような仕組みで安定して運営されるようになったのは、3代将軍 足利義満が南北朝を統一した頃からだといわれています。

なぜ室町幕府は滅びたのか?

15代、約240年も続いた室町幕府はなぜその時代に幕を下ろすことになったのでしょうか?
原因は様々ありますが、簡単にまとめると、

  • 1467年応仁の乱
  • 守護大名の権力が強くなった
  • 織田信長と15代将軍 足利義昭の対立

・1467年応仁の乱
応仁の乱は、将軍の継承を巡る争い、管領や守護の家督争いなどが重なり勃発し、約10年間におよび続きました。
戦場となった京都は、焼け野原となり「花の御所」も焼け落ちてしまうなど、その被害は大きく、この応仁の乱をきっかけに幕府の信頼と権力は徐々に力を失っていきました。

・守護大名の権力が強くなった
応仁の乱以降は、各地を治めていた守護大名が領地を巡った争いをするようになりました。
戦国時代の幕開けです。
また守護大名だけでなく、農民や貿易で一財産を築いた商人、宗教団体などの一揆が各地で起き始めます。自分たちで自治区を作ったりと、各地域ごとに制度が崩れるなど、幕府の影響力が弱まっていきました。

・織田信長と15代将軍 足利義昭の対立
織田信長は、1560年桶狭間の戦いで今川義元を討ったことでその名を全国に轟かせ、その勢力を拡大していきます。
その頃、将軍の座を狙っていた足利義昭は、織田信長の力を借りて上洛じょうらくし、15代将軍の座を手にします。
義昭は非常に感謝し、織田信長を「室町殿御父」と呼び自分の父親のように敬意を払っていました
しかし、あまりにも好き勝手する足利義昭に対して織田信長は再三にわたって警告をしますが、義昭はそれを受け入れるどころか激情。
信長包囲網を仕掛けたり、信長の敵対勢力と手を組むなどして、なんとか信長を潰そうとしますがその計画も失敗します。

信長は義昭を京から追放し、室町幕府は滅亡への道を辿ります。
京を追放された義昭は、中国地方の毛利氏を頼りともという場所に落ち着き細々と幕府を続けていきました。
「鞆幕府」時代にも、義昭はめげずに反信長の大名たちに手紙を送り最後まで信長と戦おうとしていたといいます。
その後、本能寺の変で信長が討たれ、豊臣秀吉が天下を統一すると、「政治には一切関わらない」という条件のもと京都に帰還することを許されました。

こうして、15代 約240年続いた室町幕府はその時代に幕を閉じたのです。
滅亡の時期がなんともすっきりしない終わり方だったので、印象に残りづらいのかもしれませんね。

織田信長と足利義昭の関係に関しては、こちらの記事にまとめてあります。

まとめ:室町幕府とは?簡単にまとめると

今回は、室町幕府とは一体どんな時代だったのかを見てきました。
簡単にまとめると、

  • 室町幕府は足利尊氏がひらいた幕府で15代 約240年続いた
  • 3代 足利義満、8代 足利義政、15代 足利義昭は、特に特徴的な将軍
  • 南北朝文化、北山文化、東山文化と、文化や芸能が花開た時代だった
  • 応仁の乱がきっかけとなり、幕府の力は衰退していった
  • 織田信長が将軍を京から追放し、室町幕府は滅亡へと向かっていった

室町時代は240年続いたこともあり、比較的安定していた時期が長かったような印象です。歴史というと、戦いにフォーカスすることが多いですが、文化や芸能が花開いたということにフォーカスすると、非常に興味深い時代ですね。

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