源義経とはどんな人だった?源頼朝との仲は?伝説は本当?簡単に解説!

源義経とはどんな人だった?源頼朝との仲は?伝説は本当?簡単に解説!

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源義経(1159~1189)といえば、大河ドラマや数々の歴史番組で取り上げられるほど人気の高い平安時代末期の武将です。鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~1199)の弟としても有名です。
源義経は、どのような人だったのでしょうか?頼朝との兄弟仲はどうだったのでしょうか?また、源義経にまつわる数々の伝説は本当のことなのか?源義経について見ていきます。

源義経とはどんな人?

源義経とはどのような人だったのでしょうか?
ここでは、年表を通して源義経の生まれや、幼少期についても見てみましょう。

源義経みなもとのよしつね
1159年(平治元年)京都生まれ
1189年(文治5年)死没 (享年31歳)
父:源義朝みなもとのよしとも | 母:常盤御前ときわごぜん
正室:郷御前さとごぜん | 側室:蕨姫わらびひめ

源義経の年表

源義経の生涯を年表で見てきましょう。

【源義経の年表】
1159年(平治元年)
源義朝の9男として京都で誕生

1160年(永暦元年)
平治の乱によって、父の源義朝が殺される
源義経は、母・常盤御前と供に大和国(現在の奈良県)に逃亡する

1169年(嘉応元年)
11歳の時、母の常盤御前が公家と結婚することになり、源義経は僧になるため鞍馬寺に預けられる
この頃に弁慶に出会う

1174年(承安3年)
鞍馬寺を出て、藤原秀衡ふじわらのひでひらを頼って陸奥国平泉(現在の岩手県)へ

1180年(治承4年)
兄の源頼朝が、平氏を倒すために伊豆で挙兵する
源義経は源頼朝の幕下に入ることを望み、兄のもとに馳せ参じる

1184年(嘉永3年)
宇治川の戦い木曽義仲きそよしなかを倒す
一ノ谷の戦い

1185年(元暦2年)
屋島の戦い
壇ノ浦の戦いで平氏を完全に滅亡させる
後白河法皇から勝手に検非違使けびいしの位をもらい、源頼朝の怒りを買う

1187年(文治3年)
兄の源頼朝との対立が大きくなり、命を狙われるようになる
藤原秀衡を頼って、平泉へと逃げる

1189年(文治5年)
藤原秀衡の子・藤原泰衡ふじわらのやすひらの裏切りにあい、自害(享年31歳)

源義経の生まれと、その幼少期

先程の年表にもあったように、源義経は京都で源義朝の9男として誕生しました。
しかし、生まれてまもなく父親の源義朝が平治の乱で平清盛たいらのきよもりに殺害されてしまいます。

当時、戦に負けた武士の子どもは寝首を掻きに来る恐れがあるので殺すものです。
しかし義経は、母親の常盤御前が仇である平清盛の妾になったので、殺されずに寺に送られたのでした。

源義経は幼少期は牛若丸と名乗っており、打倒平家の誓いを立てていました。
そのため、昼間は東光坊で学業に励み、夜が更けると僧正ガ谷で天狗に兵法・剣術を習ったと言われています。

もちろん天狗が実際にいたわけではなく、
義朝の遺臣が身を隠すために天狗の仮面をかぶっていたという説や、
平家に不満を持っていた鞍馬寺の僧ではないかという説があります。

いずれにせよ、この幼少期があったからこそ義経は、剣術や兵法に長けるようになったと言えるでしょう。

源義経は、平氏を滅亡させるほどの戦さ上手だった

源平合戦図屏風(Wikipediaより)

源義経は源平合戦(1180~1185)において平氏を滅亡においやります。
源義経はどれだけの戦上手だったのでしょうか?
ここでは実際の戦をみながら、義経の活躍をみていきましょう。

源義経の名を世に轟かせた源平合戦での活躍

源平合戦とは、源頼朝率いる源氏と平清盛率いる平氏の戦いです。
そして、義経は兄である源頼朝と供に戦うために、黄瀬川の陣(現在の静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たしています。
この何年かに渡る源平合戦(1180~1185)で、義経の名を世に轟かせるきっかけになった戦は主に2つあります。
それぞれ見ていきましょうl。

一ノ谷の戦いでの奇襲攻撃

まず挙げられるのは、一ノ谷の戦いです。
この平氏が陣を構えていた一ノ谷という場所は、かつて平清盛が一時的に都としていた福原に近く、後ろには六甲の山並みが迫り、東側から近づくためには海沿いの狭い道を通る必要がありました。
源氏としては攻めるのに不都合な土地だったのです。

最初の作戦は、味方が東側の道から地道に攻め込み、義経率いる別働隊が山道を進んで平氏の陣の西側に回り込み、東西から挟み撃ちにして攻めようとしていました。
しかし、義経は山道を行く途中で、北側から平氏の陣に襲いかかることを思いつきます。

そうは言っても、北側から攻めるためには断崖絶壁を降りる必要がありました。
仲間が怯む中、義経は
「四足の鹿が下れるのなら馬も下れるだろう」
と言って、馬に乗ったまま崖を降りることを決断します。

そしうして道なき道を進み、平氏の背後から奇襲攻撃することに成功し、敵を総崩れさせるのです。
これが俗に言う「源義経の逆落とし」です。
この大活躍により、それまで無名に近かった義経が歴史の表舞台に立つことになりました。

壇ノ浦の戦い、ついに平氏を滅亡させる

義経がその名を世に轟かせることになったもう一つの戦は、壇ノ浦の戦いです。
壇ノ浦の戦いは、源平合戦の最後の戦いになります。

両軍が総力を上げて正面からぶつかろうとしている中、義経はまたしても奇策を思いつきます。
壇ノ浦の戦いでは、両軍が船に乗って戦っていたました。
義経はそこに乗っている武士ではなく、先に水主・梶取(かこ・かんどり)、つまり船を操縦する人たちを射殺するように命じたのです。

当時は誰も思いつかなかったこの作戦は大当たりし、合戦は源氏側の勝利で終わります。
そして義経の活躍により平氏は滅亡することになりました。
しかし平氏滅亡のその裏では、取り戻さなくてはならなかった三種の神器を失い、安徳天皇を死に追いやってしまいました。安徳天皇はわずか6歳だったと言われています。

しかしこの義経の活躍が、兄である源頼朝との関係に歪みを生じさせるきっかけとなるのです。

源義経は、源頼朝と仲が悪くなったのはなぜ?

源義経と源頼朝が兄弟だというのは、かなり有名な話ですよね。
しかし、この二人は次第に悪化していきました。
なぜ、義経は兄の頼朝と仲が悪くなったのでしょうか?
3つの説をそれぞれ見ていきましょう。

源頼朝に相談することなく、朝廷から役職をもらった

源平合戦で大活躍をした義経は、当時の朝廷の最大権力者である後白河法皇に目を付けられます。
後白河法皇は、義経に平家追討の褒賞として、検非違使けびいしという役職を与えました。

この検非違使という役職は、京都の軍事や治安維持を司るものです。
つまり、京都を離れて職務を全うすることはできず、幕府の仕事との両立は困難になります。
さらに当時、検非違使を務めていたのは後白河法皇の側近ばかりだったので、この役職に就くということは後白河法皇の側近になることも意味していました。

このとき義経は源頼朝に相談することなく役職をもらってしまったのです。
そして頼朝は、平家追討の際義経を補佐していた梶原景時かじわらかげときから
「義経は追討の功績を独占しようとしている」
と聞かされ、義経に対して不信感や怒りの感情を持つようになったのです。

源義経は、三種の神器を取り戻せなかったから源頼朝の怒りをかった?

源頼朝が源平合戦を戦っていたのには、平家討伐の他、平家から安徳天皇と三種の神器を奪還する使命もありました。この三種の神器とは、歴代天皇が継承してきた八咫鏡やたのかがみ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま天叢雲剣あめのむらくものつるぎ草薙剣くさなぎのつるぎ)のことを指します。

三種の神器は、当時天皇がその位を引き継ぐのになくてはならないものでした。
そのため、使命を受けた頼朝としてはなんとしても取り戻したかったのです。
しかし、義経の奇襲によって平家は追い詰められ、安徳天皇と三種の神器のうちの一つ、天叢雲剣(草薙剣)が海に沈められてしまいます。
これは頼朝からしたら大失態です。
この三種の神器の一つを紛失してしまったことで、義経は頼朝の怒りをかったといわれています。

源義経は、源頼朝から恐れられていた?

源平合戦後の義経の人気は凄まじいものでした。平氏を討ち取ったヒーローです。
後白河法皇からの信用も高まり、武士たちの人望も集まりつつありました。
このことは、武家政権の確立を目指していた頼朝にとっては脅威でした。

義経はかつて平家が独占してきた職務に補任されていますし、平家の捕虜である平時忠たいらのときただの娘を娶っています。
これは、頼朝にとって非常に都合の悪いことでした。
自分の野望を達成するために、義経の存在は邪魔でしかなくなってしまったのです。

平氏を滅亡させて鎌倉幕府をひらいた源頼朝、その平氏滅亡に多大な貢献をした源義経の兄弟は、初めは目的を共にし戦っていましたが、次第にすれ違い仲違いしていったのです。

源義経にまつわる伝説

源義経は、大河ドラマや数々の歴史番組で取り上げられるほど人気のある武将です。
その人気の秘密のうちの1つには、彼にまつわる様々な伝説があるからと言えるでしょう。
その義経にまつわる伝説を見ていきましょう。

源義経にとって弁慶は理想的な家臣だった

牛若丸と弁慶の話は聞いたことがある人が多いのではないでしょうか?
牛若丸は、義経の幼少時代に名乗っていた名前です。
一方、弁慶は平安時代の僧衆(僧兵)で、正式には武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいといいます。

この弁慶は義経にとって理想的な家臣であったと言えるのです。

二人の出会いは、京都の五条大橋で弁慶が刀狩りをしていて、そこに義経がやってきたところから始まります。
二人は刀をかけて一戦交えるのですが、まだ子どもであった義経に弁慶は負けてしまいます。
そこから、弁慶は義経に仕えるようになりました。

弁慶は義経の忠実な部下として最後まで付き添いました。
その様子は後世で歌舞伎などになって語り継がれているのです。特に有名な話が、『勧進帳かんじんちょう』です。

義経一行が北陸から奥州へと逃げる際、山伏の姿で関所を通り抜けようとします。
しかし、偽物の山伏ではないかと疑われてしまうのです。
そこで、弁慶は機転を利かせて「焼失した東大寺再建のための勧進を行っている」と嘘をつきます。
当然嘘ですから、勧進帳など持っているはずもありません。
勧進帳とは、寺社・仏像の建立や修繕などのために寄付を募る際に、その趣旨が記してある帳面のことを指します。 しかし、弁慶は白紙の何も書かれていない巻物を、あたかも勧進帳であるかのようにつらつらと読み上げたのです。
さらに、義経が役人に本人だとバレそうになると、弁慶は
「お前が居るから関所を超えることができないではないか!」
と主君である義経を杖で思いっきり叩くのです。
主君を叩くなど本来であれば言語道断ですが、この弁慶の機転のきいた行動により、義経一行は関所を通ることができたというお話です。
本来であれば、主君を叩くなど絶対に許されるものではありませんが、義経は弁慶にとても感謝したといいます。
義経と弁慶はお互いを思い合い、非常jにに良い関係を築いていたと言えるでしょう。

源義経はチンギスハン?

源義経は実はチンギスハンではないかという説もあります。
チンギスハンとは、ちょうど義経が生きていた頃、海を渡った内陸のモンゴル周辺で活躍していた人物です。

チンギスハンは、各地に散らばっていた遊牧民族をまとめ上げ、モンゴル高原を統一し、モンゴル帝国を築き上げます。そして、このチンギスハンなのですが、実は出生に諸説あり、明確にはわかっていないのです。
そこで出てくるのが、義経=チンギスハン説です。
義経は実は自害しておらず、蝦夷(現在の北海道)へと逃げ、その後大陸へと渡って活躍した姿がチンギスハンなのではないかと唱える人もいるのです。

根拠としては、ちょうど年代に矛盾点がないこと、使用していた紋章が似ていること、軍事戦略が似ていることなどが挙げられています。
しかし、この説は未だに学術的には証明されておらず、あくまで伝説という位置づけです。

しかし、史実かどうかはおいておいても、ストーリー性の高さや歴史ロマンの観点から、エンターテイメントとして様々な媒体で作品化されているのです。

源義経は卓越した戦術家だった

先程のお伝えした源平合戦での戦術でもそうですが、義経の戦術は他人には真似することのできない卓越したものでした。

当時の戦といえば、全国スケールの大戦争はまずなく、大軍を指揮して戦ったことがある人などほとんどいませんでした。そのため、どのようにしたら相手側に効率的にダメージを与えることができるのかという定石のようなものはなかったのです。

しかし、義経は戦全体を俯瞰し、いかに効率的に相手側にダメージを与えることができるのかを考えていたのでしょう。一ノ谷の戦いでの奇襲作戦や、壇ノ浦の戦いでの船の操縦士を狙う作戦など、当時としては画期的な戦術を用いて、義経は戦を勝利に導いたのです。このことから、義経は卓越した戦術家だったとこが伺えますね。

まとめ:源義経はその卓越した戦術で平氏を滅亡させたが、最後は自害した悲劇のヒーローとなった

源義経は、幼少期の経験を活かして戦術に長けた人物へとなっていったことがわかりましたね。
生まれてすぐに奪われてしまった両親の仇討ちが、義経を動かしていた原動力なのかもしれません。

今回の内容をまとめると、

  • 義経は幼少期牛若丸と名乗り、鞍馬寺という場所で自己研鑽を行った
  • その結果、戦術にも剣術にも長けた人物となった
  • 源平合戦では、兄・源頼朝のために獅子奮迅の活躍をし、平氏を滅亡させた
  • その奇策はだれにでも思いつくようなものではなく、自由で合理的な発想の持ち主だった
  • あまりにも活躍しすぎたせいで、頼朝から恐れられ追い詰められることになってしまった
  • 数々の伝説が今も多く語り継がれている

どの時代も優秀すぎる人物というのは恐れられる傾向にあります。義経もまたそういった人物の一人だったのかもしれません。これだけの優秀な人物の最後が自害だというのは、残念でなりません。しかし、だからこそこの悲劇のヒーローに惹かれるという人が後を立たないのかもしれないですね。

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