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徳川家康は日光東照宮になぜ祀られている?遺言だった?徳川家康のお墓もある?

徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。

また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。

そんな徳川家康は、日光東照宮に祀られています。

晩年を駿河で過ごしていたはずの徳川家康が、なぜ日光の地に祀られているのでしょうか?

この記事では、徳川家康が日光東照宮に祀られている理由や、徳川家康のお墓について簡単に解説していきます。

徳川家康は日光東照宮になぜ祀られている?

徳川家康は、晩年を駿河で過ごしていました。
普通ならば、そのまま駿河の地にお墓が建てられるでしょう。
しかし、家康は日光東照宮に祀られているのです。
なぜ日光東照宮に祀られているのでしょうか?ここでは、家康が日光東照宮に祀られている理由を簡単に解説していきます。

徳川家康が日光東照宮に祀られているのは遺言?

家康は生前、以下のような遺言を残していました。

「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」

現代語訳:遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ

この遺言に基づき、徳川家康は一度久能山に納められ、1年後の1617年(元和3年)に日光山へと改葬されました。
そして、その際に後水尾天皇から神号「東照大権現」が贈られ、関八州の鎮守となったのです。

つまり、徳川家康が日光に祀られているのは、本人の意志によるものなんです。

徳川家康はなぜ日光の土地を自分の墓に選んだ?

なぜ、徳川家康は晩年を過ごした駿河の土地ではなく、遠く離れた日光の土地を自分の墓に選んだのでしょうか?
その理由は諸説ありますが、主に挙げられているのは2つです。

・日光再興を図ろうとした?
元々日光は山岳信仰の霊場でした。
鎌倉時代には源頼朝が寄進していたこともあったようですが、戦国時代末期には衰退してしまっていました。
徳川家康は、源氏の末裔を名乗って天下統一をしており、源頼朝を尊敬していたのです。そのため、頼朝も大事にしていた場所の、再興を図ろうとしていた可能性があると言われています。

・死後も江戸・関東を鎮守しようとした?
日光は、江戸から見たらちょうど北辰(北極星)の位置にあります。
そのため、家康はどこから見ても動かない北極星のように、恒久的に江戸・関東を、引いては日本を鎮守しようとしたのではないかと推測できます。

徳川家康の墓が日光東照宮にある?

徳川家康の墓は日光東照宮にあり、神様として祀られています。
では、徳川家康の墓はどのような所にあるのでしょうか?
なぜ徳川家康は神様になったのでしょうか?
ここでは、徳川家康の墓について簡単に解説していきます。

徳川家康の墓は日光東照宮のおくまったところにある?

徳川家康のお墓は日光東照宮の本殿の裏側にある「奥宮」というエリアに存在します。
ここは、日光東照宮のパワーの源と言われています。

唐門や拝殿を正面に見て右手側、眠り猫のある東廻廊の坂下門を通って、207段もある石段を上った先にあるのが、拝殿・鋳抜門・宝塔です。

この奥宮へと続く道も龍道というパワーの通り道となっています。

そして、この金・銀・銅の合金で制作された宝塔が徳川家康のお墓です。

宝塔の前には、鶴と亀の像があるのですが、徳川の末永い治世を祈るものだとか、埋蔵金の在処を暗示しているだとか、色々な意味が考えられています。

徳川家康は神様になった?

徳川家康は日光東照宮にて神様として祀られています。

徳川家康が神様になったのは、豊臣秀吉の影響が大きいと考えられています。

豊臣秀吉は、「豊国大明神」という神号で祀られていました。

天下人である自分を神格化することによって、死後も豊臣家の治世を願っていたわけです。

「秀吉様という神様が私達を見守ってくれている」

となれば、残された人々もまだ豊臣再興の希望を捨てないでいられるでしょう。

徳川家康はそのことをわかっていたのか、
1615年に豊臣家が滅亡すると、後水尾天皇の勅許を得て、豊国大明神の神号を剥奪しています。

また、豊国神社も幕府により事実上廃絶し、豊臣再興の芽を徹底的に潰しました。

しかし、徳川家康はこのように直近で神格化の影響力を感じていたわけです。

そのため、天下統一を果たした自身も神格化しようと考えるのは自然なことでしょう。

また、徳川家康の死後に神号を決定する際、
「大明神」か「大権現」の二案があったそうです。

しかし、「大明神」は豊臣ですでに使われており、豊臣は滅亡したのだから良くないということで、「大権現」が選ばれました。

ちなみに、徳川家康の神号を勅許した後水尾天皇は、家康の意向によって天皇になった人物でした。
つまり、家康に好意的だったため、神格化も許されたのでしょう。

もしかしたら、家康は後水尾天皇を天皇とした時点で、すでに神格化のことを考えていたのかもしれませんね。

日光東照宮はどんなところ?

徳川家康のお墓がある日光東照宮とは、そもそもどのようなところなのでしょうか?

ここでは、日光東照宮の歴史や見どころについて簡単に解説していきます。

日光東照宮の歴史を簡単に解説!

日光は、奈良時代に勝道上人が訪れ開山されました。

勝道上人は、ここを山岳信仰の聖地として開山したので、それ以来多くの山伏が、修行のためにこの地に足を運んでいたようです。

戦国時代末期には衰退してしまっていた日光でしたが、徳川家康の遺言により、この地に家康の息子の徳川秀忠が日光東照宮を創建します。
このときの日光東照宮は、家康の遺言通り質素で簡潔な作りのものでした。

しかし、現在の日光東照宮といえば、豪華絢爛な姿が印象的ですよね。

この姿になったのは、3代将軍・徳川家光のときです。

1634年(寛永11年)から1636年(寛永13年)の21神忌に向けて、家光が大規模な造替を行ったのです。

徳川家光は、家康によって秀忠の後継者に指名された人物だったので、家康のことを深く敬愛していました。

その証拠として、徳川将軍は秀忠以降、14代の家茂まで芝増上寺と上野寛永寺に6人ずつ葬られたのですが、家光だけは「死後も祖父に仕える」と遺言を残し、東照宮の近くに霊廟を建造させたと言われています。

それほど崇敬していた祖父の墓を豪華なものにしたいと思ったのでしょう。

このときの大造営は、約1年5ヶ月の工期で、延べ168万人もの大工が動員され、総工費にして、金56万8千両・銀100貫匁・米千石という、現在の紙幣価値だと200億円とも400億円とも伝えられる巨額が投じられたのです。

特に陽明門や社殿の彫刻は、江戸だけではなく大阪や京都からも宮大工が呼ばれ、江戸時代初期における匠の技の粋を集めて施されたものでした。

また、日光東照宮は、日光の社寺として1999年(平成11年)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

そして、本殿や拝殿、東照宮の象徴とも言える陽明門などは、江戸時代から大小21回に及ぶ修理が繰り返されてきました。

現在は、2003年(平成15年)から2024年(令和6年)までの22年間続く一大プロジェクト「平成の大修理」によって、創建当時の輝きを保っているのです。

日光東照宮
住所:栃木県日光市山内2301
拝観時間:4月1日〜10月31日:午前9時〜午後5時
     11月1日〜3月31日:午前9時〜午後4時  
     (受付は閉門の30分前まで)
拝観料:大人・高校生:1300円/小・中学生:450円
定休日:なし
駐車場:あり

日光東照宮の見どころは?

日光東照宮の建造物は、国宝8棟、重要文化財34棟と見どころのオンパレードです。
その中でも特におすすめをここではご紹介していきます。

・陽明門
陽明門は、故事や聖人などをモチーフとした彫刻が500以上も施されている、きらびやかな国宝の門です。この門は、私達の住む外の世界と神の世界とを隔てるため、または神の領域に入るものを見張るために作られたと言われています。家光によって豪華絢爛な姿に改築され、現在も平成の大修理を経て、その色彩豊かな姿は現存しています。1日眺めていても飽きることがないことから「日暮らしの門」とも言われ、数多ある東照宮の社殿群の中でもその豪華さは随一のものです。

・三猿、眠り猫
5千体を超える東照宮の彫刻の中でも、特に有名で人気があるのが「三猿」「眠り猫」です。
猿は、馬の守り神ということで、人の一生を風刺した猿の彫刻が神厩舎に飾られています。
その中の1枚が「見ざる・言わざる・聞かざる」で有名な三猿です。
3匹のそれぞれの猿が目と口と耳を塞いでいます。
これは、3つの行為を慎むことで、安全幸福な人生が送れることを表しているようです。

眠り猫は、坂下門前の廻廊にある小さな彫刻で、名工・左甚五郎の作だと伝えられています。反対側の同じ位置にはスズメの彫刻があり、猫が居眠りしていれば両者は共存できるということが示されており、これは天下泰平の世を表しているのです。
また、この猫は薄眼を開け、前足を踏ん張っているようにも見えます。
そのことから、寝たふりをしながらいつでも飛びかかれるようにして、家康を守っているのではないかという解釈も存在します。

まとめ:徳川家康は日光東照宮にて神格化して祀られている

徳川家康は、自身の遺言で日光の土地に自分の墓を建てるように指示しました。それを子供や孫たちが実行に移し、家康は日光東照宮に神様として祀られるようになりました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康は遺言で自身を日光の土地に埋葬するように指示した
  • 徳川秀忠が日光東照宮を遺言どおりに建てた
  • 徳川家康は、豊臣秀吉と同じように神様として祀られるようになった
  • 日光東照宮のおくまったところに、徳川家康のお墓がある

生涯、質素倹約を意識して過ごしていたと言われている徳川家康。
その思いをしっかりと受け継いで、質素なものを秀忠は建てました。
しかし、祖父を尊敬するあまり、徳川家光がそれを豪華なものにしてしまいます。
徳川家康は天からそれを見てどう思ったのでしょうね。

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