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徳川家康は関ヶ原の戦いになぜ挑んだ?勝因は?その後はどうなった?

徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。

また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。

そんな徳川家康は、「天下分け目の戦い」とも言われる関ヶ原の戦いで見事勝利を納めたことで、約260年続く徳川将軍時代を築き上げました。

徳川家康はなぜ関ヶ原の戦いに勝つことができたのでしょうか?

この記事では、徳川家康が関ヶ原の戦いに挑んだ原因や、勝因、またその後どうなったのかを簡単に解説していきます。

徳川家康が関ヶ原の戦いに挑んだ理由は?

徳川家康は、天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の戦いに挑み、勝利しました。
そもそも、なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いに挑むことになったのでしょうか?
ここでは、徳川家康が関ヶ原の戦いに挑んだ理由について簡単に解説していきます。

関ヶ原の戦いが起きた原因は?

豊臣秀吉の亡き後、徳川家康は天下統一に向けて動き出しました。

具体的には、大名同士の婚姻を積極的に進めたり、禄高の増減に関わったりなど、豊臣秀吉が禁止していたことをやり始めたのです。

こうして、影響力が大きくなっていく徳川家康のことをよく思わない人物がいました。

それが石田三成です。

石田三成は、豊臣秀吉が作りあげた豊臣政権を存続させていきたいと考えていました。
しかし、徳川家康の行動はその秩序を乱すもので、目に余るものでした。

そのため、新たに天下人となりたい徳川家康と、今までの豊臣政権を維持したい石田三成が対立し始めるのです。

豊臣政権内でも2人のどちらにつくかで内部分裂が始まります。
そして、関ヶ原の戦いへと続く決定的な出来事が起きました。

それは、上杉景勝がかねてからの上洛の招きに応じようとしなかったことから始まります。

その真意を探るために、徳川家康は景勝に使者を送ると、景勝の重臣・直江兼続から「直江状」と呼ばれる手紙が届きました。

内容は以下のとおりです。

「最近の貴方の行いは目に余ります。秀頼様に何か言うことはないですか?」

ここからもわかるように、上杉家も家康の台頭をよく思っていなかったのです。

これを読んだ徳川家康は激怒。

なぜなら徳川家康は、三成や景勝よりもはるか上の位の立場だったのです。

徳川家康からしてみれば、

「目上の者に向かってその無礼な手紙はなんだ!!」

となるわけですね。

そして、徳川家康はこれを受けて、景勝に謀反の意志ありとして、「会津征伐」を決意し、会津に向けて出陣します。

徳川家康が会津に向かったことにより、会津より西は家康が不在となりました。

そこで動いたのが石田三成です。

三成は反徳川家康派を集め、関ヶ原の戦いで西軍となる兵を挙げました。

これを受けて、家康はあっさりと会津征伐を中止し、反石田三成派などを引き連れて西へと引き返します。

こうして、三成率いる西軍と家康率いる東軍が対決することになり、関ヶ原の戦いが始まったのです。

\ 関ヶ原の戦いの原因に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /

関ヶ原の戦いの原因を簡単に解説!いつ、どこで行われた?東軍が勝った理由は?

徳川家康は関ヶ原の戦いの前に石田三成を追放していた?

実は、徳川家康は関ヶ原の戦いの前に、石田三成を豊臣政権から追放しています。
そのきっかけは、石田三成襲撃事件です。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権を動かし、制御していたのは、石田三成と前田利家でした。

この2人がいたため、徳川家康は思ったように動けなかったのです。

そんな中、前田利家が病気で亡くなったのをきっかけに、福島正則や加藤清正など、いわゆる豊臣政権内で武断派と呼ばれている7将が三成を暗殺しようと襲撃しました。
武断派の武将たちは、朝鮮出兵のあたりから三成のことをよく思っていなかったからです。

7将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)

石田三成はなんとか命からがら逃げ出し、京都の伏見城で一時立て篭ります。

そして、この事件の仲裁をしたのが徳川家康でした。

家康は、三成を武断派に引き渡さない代わりに、

  • 石田三成の隠居
  • 朝鮮出兵の査定の見直し

を約束します。

三成は不満はあるものの、命の危険がありましたから、この条件を渋々飲むしかありませんでした。
こうして、三成は豊臣政権から離れ、佐和山城にて隠居することになったのです。

このことから、三成に不満を持っていた武将たちの家康への好感度は上がり、三成の家康への敵意がさらに強くなったということが伺えるでしょう。

徳川家康は関ヶ原の戦いになぜ勝てた?

関ヶ原の戦いは、実質、当時天下を取っていた豊臣家と徳川家康との戦いでした。

当時最大の勢力だった豊臣家との戦いに、なぜ家康は勝てたのでしょうか?

ここでは、家康が関ヶ原の戦いに勝てた理由を簡単に解説していきます。

徳川家康率いる東軍は数では不利だった?

関ヶ原の戦いが開戦したとき、家康率いる東軍は7万5千人、三成率いる西軍は8万人でした。
東軍のほうが数では不利だったのです。

実際、開戦してすぐは、東軍よりも高所に布陣していたこともあり、西軍が有利に戦いを進めていっていました。

しかし、西軍の中には関ヶ原の戦いが起こる前から徳川家康と内通しているものも多く、そういう武将たちは戦いに参戦せずに傍観していました。
そのため、実際に動いていた西軍の人数は3万5千人ほどだったと言われています。
それでもなお、西軍有利で進んでいたのですから、いかに西軍が奮戦していたのかということがわかりますね。これには、徳川家康もかなり焦っていたようです。

徳川家康の入念な下準備が勝因になった?

序盤は西軍が有利な展開だったにも関わらず、最終的に勝利を飾ったのは東軍でした。

なぜ東軍は不利な状況であったのに、勝利することができたのでしょうか?
それは、家康の入念な下準備が花開いた結果でした。

徳川家康は、関ヶ原の戦いが起こる直前、江戸にとどまり、来るべき合戦に関する文書を側近くに仕える家臣と、外様大名に向けて合計175通ほど送ったのです。

その内容は、「自分に味方をすれば領地を与える」といったようなもの。

この下準備のおかげで、開戦後に西軍では傍観する武将も多く、戦力を大幅に削ることができました。

しかし、家康の思っていた以上に西軍は奮戦し、勝負はなかなか決まりませんでした。

そんな中、勝敗の決定打になったのは、西軍・小早川秀秋の裏切りでした。

小早川秀秋も、家康と内通していました。

しかし、秀秋は秀吉にとてもかわいがられていたため、西軍を裏切ることは難しかったのです。

どちらにつくか悩みに悩んでいた秀秋でしたが、そんな秀秋に家康は厳しく催促します。

家康に急き立てられ、ようやく動いた秀秋は、大谷吉継の軍を後ろから攻撃。

秀秋の裏切りにより西軍の態勢が崩れ始めると、さらに西軍から寝返るものが続出します。
こうして、西軍は総崩れとなり、東軍が勝利するわけです。

このように、関ヶ原の戦いの勝因は、先を見越して動いていた家康の下準備だったと言えるでしょう。

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したその後は?

徳川家康は、天下分け目の戦いとも言われる関ヶ原の戦いに勝利しました。
このことにより、その後の戦国武将たちの運命は大きく変わっていくことになります。
関ヶ原の戦いはどのような影響を与えたのでしょうか?
ここでは、家康が関ヶ原の戦いに勝利したその後について簡単に解説していきます。

西軍だった諸大名に厳しい処罰が下された?

関ヶ原の戦いで敗北した西軍に属していた諸大名には厳しい処罰が下されました。

西軍の総大将であった毛利輝元は、周防国(現在の山口県東南部)、長門国(現在の山口県西部)の2カ国に減封。

副大将の宇喜多秀家は、八丈島へ流罪。

その他の大名もことごとく処刑されたり、改易・減封されたりしました。

また、実質的に西軍の中心となっていた石田三成は、戦場から逃亡していたものの捕縛され、小西行長と安国寺恵瓊とともに京都の六条河原にて処刑されました。

そして、全国各地にあった豊臣氏の所領「太閤蔵入地(たいこうくらいりち)」も、東軍の大名に分配され、豊臣氏は近畿地方3カ国に65万石を有する一大名へと転落します。

こうして、徳川家康に対抗する勢力はいなくなったのです。

徳川家康が江戸幕府を開いた?

徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利した結果、自身の所領を250万石から400万石にまで伸ばしました。

これにより、他に対抗する勢力もおらず、家康は天下人としての地位を確立するのです。

さらに、1603年(慶長8年)には朝廷より征夷大将軍に任命され、徳川家康は江戸幕府を開きました。

以降、戦乱の世は終焉を迎え、約260年にわたる平和な世の中が始まるのです。

まとめ:徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利したことにより天下統一を成し遂げた

徳川家康は、豊臣秀吉の死後、天下を取るために動き出しますが、それを阻止しようとする石田三成によって関ヶ原の戦いにて戦うことになりました。
そして、徳川家康はこの戦いに見事勝利し、天下統一を果たすのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下統一を目指して動き始めた
  • 徳川家康の台頭をよく思わない石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こった
  • 関ヶ原の戦いは、徳川家康の根回しにより裏切る西軍武将が多く、東軍の勝利に終わった
  • 東軍が勝利したことにより、徳川家康は江戸幕府を開き、天下統一を果たした

徳川家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」と言い表されるくらい辛抱強い人物だと言われています。しかし、関ヶ原の戦いの最中、なかなか動かない小早川秀秋に対して発砲して脅したという話もあります。

辛抱強いと言われている徳川家康が、そのように急かしたということは、よほど関原の戦いは家康にとってもギリギリの戦いだったのかもしれませんね。

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