近藤勇の最後を簡単に解説!なぜ処刑された?最後の言葉は?首はどこへ消えた?
近藤勇:1834(天保5年)~1868(慶応4年)は幕末の新選組の局長として有名ですよね。元々はただの浪士の集まりであった新選組。その新選組をまとめあげ、幕臣にまで導いた近藤勇の最後は、罪人として処刑されたと言われています。幕府のために尽力していたのに、何故処刑されてしまったのでしょうか?
この記事では近藤勇の最後について、処刑された理由や、最後の言葉、また、斬首されたとされる近藤勇の首の行方などをご紹介していきます。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。
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目次
新撰組 近藤勇の最後
新選組局長として尽力してきた近藤勇の最後は、罪人として処刑だったとされています。しかも武士として切腹ではなく、斬首刑です。近藤勇はなぜ処刑されることになったのでしょうか?詳しくみていきましょう。
近藤勇の最後は板橋で斬首刑。なぜ処刑されたのか?
1868年4月25日、近藤勇は板橋刑場にて斬首という形で人生の幕を下ろすことになります。武士にとって斬首というのは、最も重く屈辱的な処刑の方法でした。当時武士に対しては、たとえ死罪であっても名誉を重んじて切腹をさせてあげるというのが一般的な慣習としてあったからです。
なぜそれほどまでに重い刑になってしまったのか?それには土佐藩の藩士が関わってきます。
近藤勇を捕縛した後、新政府軍であった薩摩藩と土佐藩はその処遇を話し合うことになります。このとき、薩摩藩は穏便に済ませようとしましたが、土佐藩は断固として処刑を望みました。
土佐藩が近藤勇の処刑を望んだのは、坂本龍馬と中岡慎太郎暗殺の犯人を新選組だと信じて疑っていなかったからというのが大きいです。
そして、結局土佐藩が押し切る形で、近藤勇は斬首刑となりました。
このとき、近藤は命乞いをしたと言われています。しかし、それは「自分の命を助けてくれ」というものではなく、一緒に捕縛された2人の隊士・野村利三郎と相馬主計のためのものでした。
近藤勇は、「自分ほどの大物を処刑できるのだから、この2人は生かして欲しい」と嘆願したのです。
そのおかげで、2人の命は救われることになります。最後の最後まで隊士思いの局長でいた近藤勇のその姿は、とても潔く男らしいですよね。
近藤勇の最後の言葉(辞世の句)
近藤の辞世の句だと言われているのは、以下の2つの漢詩です。
「孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔」
(孤軍たすけ絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思えば涙さらに流る 一片の丹衷よく節に殉ず 雎陽千古これ吾がともがしら)
現代訳:
「軍が孤立して援軍も絶えて囚われの身となった。主が気にかけてくれたことを思い出すと涙が更に流れてくる。一面に溢れる忠誠心で節義に殉じる。唐の時代の忠臣・張巡こそが私の同志である」
「靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩」
(他になびき今日また何をか言わん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 快く受けん電光三尺の剣 只まさに一死をもって君恩に報いん)
現代訳:
「敵になびいて言うべきことはない。生きることを捨て義を取ることは、私が尊ぶところである。斬首を快く受け入れよう。一死をもって主の恩に報いるのだ」
近藤は、捕えられたときにはすでにこの漢詩を懐に忍ばせていたとされています。つまり、もうずっと死を覚悟して活動していたということなのでしょう。
幕府のリーダーであった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いにおいて味方を見捨てて逃げ帰るなどしていました。それでもなお、最後まで幕府への恩に報いようとしたその忠誠心は見事としか言いようがありません。
近藤勇は首を切り落とされる直前、「ながながとご厄介に相成った」と役人たちにハッキリとした口調で礼をしたそうです。享年35歳という若さでした。
新撰組、近藤勇の最後は、鳥羽・伏見の戦いからカウントダウンが始まっていた
新選組は幕臣にまで取り上げられ、本来であれば近藤勇が処刑されることなどあり得なかったでしょう。
しかし、幕府が大政奉還をしたあたりから雲行きが怪しくなってきます。そして、近藤勇が終わりへと向かい始めたきっかけとなったのは、鳥羽・伏見の戦いであると言えるでしょう。ここでは、近藤勇が捕らえられるまでの経緯を簡単に解説していきます。
新撰組あらため、甲陽鎮部隊へ。近藤勇あらため、大久保大和。
1867(慶応3年)年12月18日に、近藤勇は新選組に恨みを抱く御陵衛士の残党に狙撃され、肩を負傷してしまいます。なんとか一命をとりとめたものの、それ以降刀を満足に振ることができないほどの怪我でした。この傷を負ったため、近藤勇は鳥羽・伏見の戦いに参戦することができませんでした。治療のために大坂城で療養していたのです。
近藤勇を欠いた新選組は鳥羽・伏見の戦いで惨敗します。その報を聞いた近藤の悔しさは計り知れませんね。
戦いに破れた新選組は江戸へと戻り、江戸鍛冶橋門外に屯所を構えます。そして、今度は徳川慶喜に対して、甲斐国甲府の甲府城の委任を養成する建白書を提出しました。
その結果、新選組は幕府から甲陽鎮撫(現在の山梨県の治安維持)を命じられ、大砲2門、鉄砲500丁、軍資金5千両を幕府や会津藩から与えられます。このときに、新選組という名前を改めて、「甲陽鎮撫隊」という名前に変更しました。そして、近藤勇も「大久保剛」という名前に変え、甲陽鎮撫隊を率いることになります。
70名ほどまで減っていた隊士も、新規募集の兵を加えて200名ほどまでになります。しかし、練度の低い隊士が増えたことで統率が取りづらく、進軍が遅れてしまうのです。甲陽鎮撫隊が甲府に到着できたときには、すでに新政府軍の東山道先鋒総督参謀 板垣退助率いる迅衝隊に制圧されてしまっていました。そこで、近藤たちは迅衝隊と戦いますが、壊滅的な打撃を受けて敗走することになります。
再び江戸に戻った近藤は、江戸を退去することを宣言し、会津にて再起することを考えました。
しかし、その際に新選組立ち上げから共に戦った永倉新八・原田左之助と意見が対立してしまい、2人は離隊してしまいます。さらに、新選組最強を誇った沖田総司は病気の療養中で参戦することができない状況。残された隊士はわずか44名しかいませんでした。
そこでもう一度新規募集をかけて、なんとか227名にまで回復し、会津を目指して北上を始めるのです。このときに、近藤は再び名前を「大久保大和」という名前に改めます。そしてその途中、新しい隊士の訓練も兼ねて下総国流山(現在の千葉県流山市)に駐屯することにします。
甲陽鎮撫隊が流山に屯所を構えたときには、東征を進めていた新政府軍はすでに江戸板橋宿に到着していました。そして、そのまま会津・桑名の軍勢に対抗するために糟壁(現在の埼玉県春日部市)に入ります。そこで、新政府軍は甲陽鎮撫隊が背後から襲う計画があると知り、急いで甲陽鎮撫隊の流山の屯所を完全包囲することにするのです。
近藤勇の投降。そして板橋の処刑場へ
新政府軍に完全包囲された近藤は、もはやこれまでと自刃することを決意します。しかし、土方に押し止められ、大久保大和として板橋の新政府軍総統府に投降することにしました(資料によっては投降ではなく、新政府軍に捕縛されたとする説もあります)。あくまでも近藤勇ではないと押し切ろうとしたのです。
しかし、元新選組隊士で御陵衛士に所属していた加納鷲雄などがいたため、大久保大和は近藤勇だと証明されてしまいます。そのため、新選組局長・近藤勇として裁かれることになるのです。
土佐藩と薩摩藩の間で近藤の処遇をめぐって対立が生じましたが、結局土佐藩が押し切る形で近藤は斬首が決定しました。そして、1868年(慶応4年)4月25日、近藤は板橋刑場の近くの平尾一里塚付近の馬捨て場にて処刑されます。享年35歳のことでした。
近藤勇の首はどこへ消えた?
斬首された近藤勇の首は、各地で晒されることになります。しかし、その後首が行方不明になってしまったとされているのです。ここでは、処刑後の近藤勇の行方を解説していきます。
近藤勇の首は塩漬けにされた?
当時さらし首を行う際は、塩漬けにして保存するのが一般的でした。しかし、これだと腐敗はしなくても水分がすべて吸い出されてしまうので、ミイラのようになってしまいます。
近藤の首は晒されている間も生きているときに近い状態であったことから、アルコール(焼酎)に漬けられていたのではないかとされています。河原で晒されても腐敗することなく、まるで生きているかのようなその首は、見に来た人々を恐れさせました。
近藤勇の首の行方を追ってみましょう。
まず最初は、板橋の地で3日間晒されることとなります。
その後、京都へ輸送され、三条河原でも晒されます。
そして、さらに今度は大阪の千日前でも晒されることになるのです。
京都の三条河原で晒されたときには、数ヶ月前まで町を震撼させていた新選組の局長の首を一目見ようと、連日多くの人が押しかけていたようです。
大阪で晒された後、近藤の首は行方不明となってしまいました。はっきりとした情報はないものの、近藤の首の行方には諸説あります。
- 東本願寺の住職が引き取って、東山の墓地のどこかに埋められた
- 斎藤一が首を持ち去り、京都・宝蔵寺の住職に供養を依頼した後、愛知県岡崎の法蔵寺に葬った
- 土方歳三が首を持ち去り、会津の天寧寺に葬った
- 近藤の従兄弟である近藤金太郎が山形県米沢市の高国寺に密かに葬った
このように近藤の首の行方は明確にはなっておらず、全国に首塚も5箇所ほど存在します。どこが本当の場所かというのは現在においても不明のままです。
近藤勇の胴体はどこへ?
近藤勇の首が行方不明という話をしてきましたが、その胴体についてもいくつかの伝承が混ざり合って特定することが難しくなっています。
板橋の地元の伝承では、
近藤勇の胴体を刑場に埋めた後に「遺体を誰かが取りに来る可能性があるから他へ移せ」という命令が出たので、掘り起こして石山家の庭(現在の寿徳寺境外墓地)へと改装したといいます。
しかし、『新選組始末記』への掲載などで近藤の甥である宮川勇五郎の証言によると、
郷里の仲間とともに刑場に埋められた胴体を掘り起こして、肩の傷を確認してから、三鷹の龍源寺に改装したというのです。
胴体は2つもあるわけありませんから、どちらかが間違っているということになりますよね。このような伝承が他にもいくつか存在します。そのため、胴体においても行方の真相は不明のままなのです。
近藤勇の墓はどこにある?
近藤の首も胴体もはっきりとした行方は不明のままです。そのため、近藤の墓も全国各地に存在します。
- 龍源寺(東京都三鷹市)
- 板橋の「近藤勇」墓所(東京都)
- 天寧寺(福島県会津若松市)
- 高国寺(山形県米沢市)
この中で最も有力とされているのは、板橋の「近藤勇」墓所です。
ここは、新選組で同志であった永倉新八が建立したと言われています。そのためこの近くにある寿徳寺は近藤勇の菩提寺とされていて、毎年近藤の命日には寿徳寺と地元の方々によって墓前供養祭が行われているそうです。
まとめ:近藤勇の最後は潔く男らしい姿だった
武士として切腹させてもらうことが叶わなかった近藤勇でしたが、自分の命よりも他の隊士の命を気にかけるなど、最後まで潔く男らしい姿であったと言えるでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 近藤勇は鳥羽・伏見の戦いのあたりからどんどん追い詰められていった
- 流山の屯所で新政府軍に囲まれてしまい、自ら投降した(または捕縛された)
- 新選組に強い恨みを持っていた土佐藩によって、武士として最も重く屈辱的な処刑法である斬首された
- 近藤勇は処刑される直前、自分の命ではなく他の隊士の命乞いを行った
- 近藤勇は斬首された後、各地でその首を晒されることになる
- 近藤勇の遺体は、首も胴体も行方不明になってしまっている
最後の最後まで幕府のために忠義を尽くしてきた近藤勇の処刑。その報を聞いた徳川側は「うちは関係ないから…」といったような無情なものだったそうです。それを処刑された近藤勇が知ることはありませんでしたが、もし生前に幕府の対応を知っていれば死ぬこともなかったのではないか?と思うと、なんともやるせない気持ちにさせられます。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。
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