松平容保と新撰組の関係は?会津藩や京都守護職とはどんな関わりがあった?
会津の最後の藩主として生きた松平容保は、京都守護職という職にも就いており、日本歴史上もっとも有名な部隊、新選組大きなと関わりがある人物です。
会津藩の女性を描いた大河ドラマ「八重の桜」では綾野剛さんが松平容保を演じています。
今回は、イケメンと評判だった松平容保と新選組はどんな関係があるのか?会津藩の藩主が、なぜ京都守護職についたのか?について解説していきます。
目次
松平容保と新撰組の関係は上司と部下だった
松平容保は1862年(文久2年)、28歳のときに京都守護職に就任しました。このときの京都はかなり治安が悪く、井伊直弼の殺害を筆頭に、暗殺が横行するような状況でした。このような状況で松平容保は京都守護職に就任し、新選組を部下として従えるようになりました。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。
>>新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!>>
>>新撰組の主要人物を簡単に解説!メンバーの性格や刀、最後まで生き残ったのは?>>
新撰組が結成された理由は、松平容保の京都守護職就任だった
松平容保が京都守護職に就任する少し前、1853年(嘉永6年)に黒船が来航して、日本は開国を迫られている状態でした。しかし、得体のしれない外国から開国を迫られ、外国人を受け入れたくないと考える人達が出てきます。この人たちが起こしたのが「攘夷運動」で、この運動は「外国人を追い払う」というもので、攘夷派の人間は幕府と対立を深めたのでした。
そんな倒幕の機運が高まる中、京都の治安は最悪な状態になります。
開国に踏み切った井伊直弼も殺され、暗殺が横行。そんな中で松平容保は、京都の治安を守るために京都守護職に就任しました。
時を同じくして、将軍 徳川家茂(1858年(安政5年)~1866年(慶応2年 ))が孝明天皇の異母妹である和宮(1846年(弘化3年)~1877年(明治10年))と結婚するために京都に上洛することになり、その護衛として、浪士たちが京都に集まります。
しかし、実はこの護衛メンバーには倒幕派の人間が紛れており、このことが幕府にばれ、メンバーは江戸に呼び戻されることになりました。
しかし、京都に残って本来の役目をしたいと申し出る者たちがいました。これが後の新選組局長となる近藤勇(1834年(天保5年)~1868年(慶応4年))らです。
この申し出を喜んだ松平容保は、彼らを京都守護職預かりとし、非公式であるものの、壬生浪士組(後の新選組)が結成されたのです。
その後、壬生浪士組は、会津藩にもともとあった剣客集団の名前を与えられ、新選組と呼ばれるようになりました。
松平容保は会津藩主なのに、なぜ京都守護職に就任したのか?
松平容保は第9代会津藩主。会津藩が京都の守護職に就任したのには理由がありました。
詳しく見ていきましょう。
松平容保の先祖は徳川家康
実は松平容保は会津藩主ですが、会津(現在の福島県)出身ではありません。
松平容保は高須藩(現在の岐阜県)藩主の六男として、江戸で生まれ、1846年(弘化3年)に実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第8代藩主・松平容敬の養子となり、のちに会津藩主になったのです。
当時の会津藩の家訓は「武家のトップである徳川家へ尽くすこと」でした。
家訓が、後の松平容保の行動に大きな影響を与たのです。
松平容保の生家、高須松平家は江戸幕府初代将軍・徳川家康(1543年( 天文11年)~1616年(元和2年))の十一男・徳川頼房(1603年(慶長8年)~1661年(寛文元年))の家系でした。
そう、松平容保は徳川家康の血を引く末裔なのです。
1860年前後の京都は、倒幕を目論む者たちによって幕府側の人間の暗殺が日常化しており、京都の治安を守るため京都守護職という役職が創設されました。
京都守護職に白羽の矢が立ったのは松平容保でしたが、このとき病に臥せっており、京都守護職につくことを固辞していました。
しかし松平容保のもとに来た勧誘役の人間が、会津藩の家訓である「武家のトップである徳川家へ尽くすこと」を持ち出し、半ば無理やり容保に京都守護職に就くことを承諾させたのでした。
松平容保と徳川慶喜の関係性は?
実は、松平容保の京都守護職就任の説得にあたったのが、徳川慶喜1837年(天保8年)~1913年(大正2年)です。
当時混乱を極めていた京都において、参預会議という制度が発足しましたが、このときのメンバーとして松平容保と徳川慶喜が朝廷から任命を受けています。
この時期の京都の政治は実質、松平容保、徳川慶喜、容保の弟である松平定敬1847年(弘化年)~1908年(明治41年)が監視していました。
しかし、徳川慶喜が行った大政奉還で江戸幕府は消滅。同時に京都守護職は廃止され、会津藩が追放される形となり松平容保と徳川慶喜は大阪城へ移動します。
そして、戊辰戦争が勃発し旧幕府軍が不利になると、松平容保は徳川慶喜に連れられる形で、半ば無理やりに江戸へ移動し、最終的には会津へ帰郷するように通達されています。
松平容保と徳川慶喜は、容保にとっての人生の分岐点である京都守護職への就任から、大政奉還後の戊辰戦争まで激動の時代を共に過ごしてきました。
また、松平容保は養子として慶喜の実の弟である松平喜徳1855年(安政2年)~1891年(明治24年)を迎えるなど、容保と最後の将軍・慶喜は深い関係がありました。
新撰組の最も有名な功績「池田屋事件」
新撰組は、京都の治安を守るべく攘夷派の志士たちの取締を行っていました。その中で、新撰組の名を有名にしたのが「池田屋事件」です。
この事件の発端は、古高 俊太郎1829年(文政12年)~1864年( 元治元年)という攘夷派の志士が捕まったことでした。新撰組は彼を拷問し、御所を放火する計画があることや、松平容保らを殺害し、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画があることを聞き出します。
それを聞いた新撰組は、めぼしい場所をしらみ潰しに探し、三条大橋西詰旅宿街の池田屋が怪しいことを察知し、池田屋に御用改に入りました。池田屋には攘夷派の志士が集まっており、新撰組は見事クーデターの芽を摘むことができたのです。
新撰組のメンバーだった永倉新八1839年(天保10年)~1915年(大正4年)は、「池田屋の襲撃に新撰組が勝ってなければ、徳川幕府の寿命はそれだけ縮まっていた」という趣旨の言葉を残しています。
新撰組にとって、池田屋事件はそれほど重要な出来事だったと言えますね。
新撰組と松平容保の悲劇の始まり「戊辰戦争」
京都の治安を守っていた松平容保と新撰組ですが、やがて彼らに悲劇が訪れます。
攘夷派の志士たちは土佐藩や長州藩の人達でした。
松平容保や新撰組は京都の治安を守るため、攘夷派の志士たちを取り締まっていましたが、同志を殺された土佐、長州藩の志士たちから恨みを買うことになったのです。
1866年(慶応2年)、薩摩藩と長州藩は薩長同盟という協力関係になりました。
この薩摩・長州藩が倒幕路線に進むと考えた徳川慶喜は、1867年(慶応3年)大政奉還を行い政権を天皇に返上したのです。
しかし、政権を返上したとはいえ旧幕府や慶喜の力が全くなくなったわけではありません。そのため、薩摩藩は旧幕府軍に戦いを仕掛け、この騒動が拡大して旧幕府軍と新政府軍が対立する戊辰戦争へと発展したのです。
新撰組の最後
新撰組は旧幕府軍の一員として戊辰戦争に参加しました。
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いに参加するものの旧幕府軍の士気がガタ落ちし、敗北してしまいます。
それ以降、甲州勝沼戦争では新撰組局長の近藤勇が板垣退助1837年(天保8年)~ 1919年(大正8年)と戦い大敗。
戦いの舞台は会津に移り、怪我を追っていた土方歳三1835年(天保6年)~1869年(明治2年)に代わり、斎藤一(1844年(天保15年)~1915年(大正4年))が隊長となり新政府軍と戦いましたが、結局は新政府軍が勝利します。
土方歳三は北海道へ出航し、蝦夷共和国を成立させましたが、新政府軍はそれを認めず戦いになりました。土方歳三は敵の銃弾に倒れ、戊辰戦争が終了、新撰組も終りを迎えたのです。
【主な新撰組メンバーの最後】
- 近藤勇:1834年(天保5年)~1868年(慶応4年)
戊辰戦争を経て板橋刑場にて斬首。 - 斎藤一:1844年(天保15年)~1915年(大正4年)
戊辰戦争では旧幕府軍として戦い、捕虜となり謹慎生活を送った。
その後は警察官となり、東京高等師範学校(現・筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の 庶務掛兼会計掛を務めた。 - 永倉新八:1839年(天保10年)~1915年(大正4年)
戊辰戦争では板垣退助の軍と戦うも、敗れる。
その後、近藤勇らと意見が衝突し袂を分かち北海道へ渡り、大学の剣道部の指導を行った。 - 土方歳三:1835年(天保6年)~1869年(明治2年)
戊辰戦争の最後の戦場である函館で敵の銃弾に倒れ戦死。 - 沖田総司:1842年(天保13年)~1868年(慶応4年)
近藤勇斬首から2ヶ月後の1868年(慶応4年)病死。
そして松平容保はどうなった?
1867年(慶応3年)の大政奉還後、明治天皇1852年(嘉永5年)~1912年(明治45年)より「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が誕生しました。これにより、京都守護職も廃止され、松平容保は徳川慶喜らと大阪城へ向かいます。
しかし、1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が不利になった事がわかると、徳川慶喜は松平容保を連れて江戸へ逃亡しました。
このとき松平容保は家臣を連れて行くことができず、遅れて江戸へ家臣が到着した際に謝ったとされています。
その後、容保は大阪を脱出したことの責任を取り、会津藩主を辞任し、家督を養子の松平喜徳に譲っています。大阪脱出後、会津は朝廷の敵とされたため、松平容保は徳川慶喜から江戸追放を言い渡されました。
松平容保は新政府に対して、何度も降伏の書面を出しましたが、受け入れられず、最終的に会津若松城に籠城することになります。このとき、会津軍は数千の兵だったのに対し、新政府軍は3~4万の兵で会津若松城を攻撃し、略奪行為もひどかったそうです。
「義に死すとも不義に生きず」
(正しい道を行うために死ぬことがあっても、間違ったことをしながら生きるつもりはない)
という言葉を胸に戦った容保でしたが、1ヶ月の籠城の末、1868年(明治元年)降伏し、鳥取藩に永預けの処分が下りました。
その後、松平容保は和歌山藩や斗南藩へ預け替えとなり、東京へ移住。しかし、暮らしは貧しく、昔の家臣から援助をもらっていたそうです。1880年(明治13年)には日光東照宮の宮司や上野東照宮祠官にも任じられ、晩年は文化財保護に尽力しました。
1893年(明治26年)、59歳のときに、東京の自宅で肺炎のためなくなりました。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。
>>新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!>>
>>新撰組の主要人物を簡単に解説!メンバーの性格や刀、最後まで生き残ったのは?>>
まとめ:新撰組と松平容保の関係は上司と部下。松平容保は明治維新の一部始終を見届けた人物だった
松平容保は徳川家に忠誠を誓い、壮絶な人生を送っていたんですね。
今回の記事の内容をまとめると
- 松平容保は新撰組の上司だった
- 松平容保は徳川慶喜らの要請で京都守護職に就いた
- 松平容保は徳川家康の末裔である
- 新撰組メンバーは斬首や戦死など悲壮の死を遂げた者が多い
- 松平容保は故郷である会津で激しい攻撃に合い、降伏。晩年は文化財保護に尽力した
約700年もの長い間続いた武家政権が終わり、日本という国が大きく様変わりした時です。
旧幕府軍、新政府軍もそれぞれの理想を胸に戦っていたわけですが、理想を実現するために多くの犠牲を払わなければなりませんでした。これらの出来事の結果で、今の我々の生活がある事はわかりますが、戦わずして解決できなかったのだろうかと思ってしまいます。そして、徳川に仕え、孝明天皇にも忠義を尽くした松平容保は、激動の歴史を目の当たりにしどう感じていたのでしょうか。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。