源頼家の死因は暗殺!?どんな人だった?その生涯と最期の姿を簡単に解説!
源頼家(みなもとのよりいえ)は、鎌倉幕府の二代目将軍として活躍した人物です。
父である源頼朝や、母の北条政子の存在感と比べると、影が薄いイメージもあるかもしれません。
源頼家はどのような人物だったのでしょうか?
源頼家は、鎌倉幕府の実権を握ろうとしていた北条氏との争いのなかで、壮絶な方法で暗殺されています。
今回は、鎌倉幕府2代目の将軍 源頼家の死因や最後の姿、またその生涯や功績もあわせて簡単に解説していきます。
目次
源頼家の死因は暗殺!?
源頼家は、わずか23歳の若さで生涯を終えています。
源頼家の死因は、入浴中に北条氏の手兵に襲撃され、暗殺されたとされています。
源頼家は、北条政子の子なのに、なぜ北条氏の手兵に暗殺をされてしまったのでしょうか?
源頼家が北条氏に暗殺された背景には、源頼家と北条氏との対立がありました。
源頼家はなぜ暗殺されたのか?
源頼家は、北条氏と対立したため、暗殺されたといわれています。
源頼家は1199年(建久10年)に家督を継ぎ、鎌倉殿となります。
しかし、そのわずか3か月後には北条氏ら御家人によって「十三人の合議制」が敷かれています。
十三人の合議制とは、「政策などは有力な御家人が話し合って決定する」と決めた集団指導体制のことです。
これによって、源頼家が直に訴訟を裁断することは停止され、権力が大幅に低下することになりました。
当然ながら源頼家はこれに反発し、信頼できる比企氏を重用する命令をだしました。
それに対して北条時政らは、源頼家が信頼を寄せる有力御家人を次々に失脚させていきます。
失脚させただけでなく、襲撃させて一族もろとも滅亡させている念の入れようです。
そんな中、源頼家は病気で療養中に家督を奪われ、伊豆国の修禅寺に護送されています。
すでに源頼家を支持する御家人が排除されていたからこそ、北条時政らは存命中の源頼家から家督を奪うというパワープレイを決行できたのかもしれません。
こうして伊豆国の修禅寺に押し込められた源頼家は、最後は北条氏によって暗殺されています。
なぜ、北条時政らは鎌倉から源頼家を追い出しただけでなく、命まで奪ったのでしょうか?
源頼家を失脚させた後に殺害する一連の流れは、源頼家が信頼していた有力御家人たちが失脚させられた後に襲撃されて滅亡した流れと共通性を感じ、北条時政らの周到さを感じられるように思えます。
源頼家の最期の姿を簡単に解説!
源頼家は、「日本で一番悲惨な殺され方をした将軍」と称される最後だったといわれています。
源頼家の死因は、
「首を絞められながら、睾丸を切り落とされての失血死」といわれています。
想像もよらない程の悲惨な殺害のされ方ですよね。
源頼家は、非常に武芸に優れた人物でした。
暗殺しにやって来た北条氏の手兵は、入浴中で隙の多いチャンスを狙って襲撃をしましたが、源頼家も強く抵抗したそうです。
北条氏の刺客は散々手こずった末に、源頼家の首を絞めながら睾丸を切り落として、やっと無力化させたのちに刺殺したといわれています。
ルールなどない命の取り合いの場では、どんな攻撃もアリなのだなぁと、改めて現代と鎌倉時代のちがいを感じるエピソードですね。
源頼家は、北条家と政治面で対立していた
源頼家は、北条時政を筆頭とする北条家と政治面で対立をしていました。
北条時政の娘である北条政子は、源頼家の実母ですので、孫と祖父が対立をしていたというわけです。
北条家によって家督を奪われ、鎌倉を追い出された源頼家は、伊豆国の修禅寺で軟禁生活を過ごすことを余儀なくされています。
源頼家は、修善寺に軟禁され暗殺されそうになっていた
源頼家は北条氏から徹底的に敵対視されていました。
北条氏は、源頼家病気で療養中にまだ存命しているにも関わらず、
「源頼家が死亡したため弟の源実朝が家督を継いだ」
との報告を京の都に届けてしまうほど、源頼家の排除を望んでいたようです。
家督を奪われた源頼家は、そのまま伊豆国の修禅寺に護送され、軟禁生活を余儀なくされるのでした。
源頼家を鎌倉から追いやることに成功した北条氏ですが、その後も源頼家の命を狙い続けます。
源頼家は北条氏側の付き人の策略で、漆の風呂に入れられてたことがあるとの逸話が残っています。
漆風呂に入れられた結果、源頼家は全身が漆でかぶれて膨れ上がってしまったといわれています。
その様子を想像するとどんなに壮絶な苦しみがあったことかと思わずにはいられません。
修善寺に伝わる謎の仮面は頼家のもの?
源頼家が最後を迎えたと言われる伊豆国修禅寺には、謎の木彫り面が寺宝として残されています。
大きく突き出た頬と鼻が印象的なその木彫りの面は、ただならぬ奇妙な雰囲気をまとっているように感じます。
寺伝によるとこの面は「源頼家の顔」といわれています。
源頼家は北条氏の息のかかった付き人の策略で漆の風呂に入れられてしまい、全身が漆でかぶれて膨れ上がってしまい、その時の面相を母親の北条政子に見せるために作られたのがこの面であるというのです。
源頼家はどんな人だった?年表で簡単に解説!
源頼家の生涯を年表で簡単に解説していきます。なお、年齢は「かぞえ」の年で記しています。
源頼家(みなもとのよりいえ)
・生年月日:1182年9月11日(寿永元年8月12日)
・没年月日:1204年8月14日(元久元年7月18日)(享年23歳)
・父:源頼朝(みなもとのよりとも) 母:北条政子(ほうじょうまさこ)
・妻:若狭局(わかさのつぼね)/ 一品房昌寛娘(いっぽんぼうしょうかんのむすめ)/ 足助重長娘(あすけしげながのむすめ)など
・性格:素直な性格で、父の言う事をよく聞き、武芸にも勉学にも勤しんでいたといわれています。
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・1182年(寿永元年)(1歳)
鎌倉の地にて、源頼朝と北条政子の嫡男として誕生する
・1193年(建久4年)(12歳)
狩りで初めて鹿を仕留める
・1195年(建久6年)(14歳)
京の都に父親の源頼朝や母親の北条政子と共に上洛し、源頼朝の後継者としてお披露目をされる
・1199年(建久10年)(18歳)
父親の源頼朝が急死し、源頼家が家督を継いで第2代鎌倉殿となる
相続後3か月後には、北条氏と源頼家の対立が深まるきっかけ「十三人の合議制」が敷かれる
・1202年(建仁2年)(21歳):
征夷大将軍となる
・1203年(建仁3年)(22歳)
源頼家が体調不良で療養中に、まだ源頼家が存命しているにも関わらず、
「源頼家が死亡したため弟の源実朝が家督を継いだ」との報告が京の都に届けられる
源頼家は、鎌倉殿の地位を追われ、伊豆国の修善寺に護送される
・1204年(元久元年)(23歳)
伊豆国の修禅寺で入浴中に、北条氏の手兵に襲撃され、死去
源頼家の功績は?
源頼家が鎌倉殿として家督に就いていた期間はわずか4年間でした。
その間の源頼家の功績を簡単にご紹介していきます。
【源頼家の功績】
・御家人所領の再計算
御家人所領を再計算して再分配しようという試みです。
貰いすぎでいる御家人がいないかを確認し、若手や新興の御家人も活躍に応じてきちんと
評価できるようにしようとしたのです。
しかし古来からの有力御家人の猛反発により、この試みは断念することとなりました。
・建仁寺の建立
源頼家は1202年(建仁2年)、京に寺域を寄進し栄西を開山として建仁寺を建立しました。
現代は境内が半分近く縮小されてはいますが、同じ場所に建仁寺は存在しています。
建仁寺には、江戸時代につくられた、源頼家の木造が安置されています。
源頼家の墓はどこにある?
源頼家の墓はどこにあるのでしょうか。
軟禁されていた伊豆国修禅寺には、北条政子が源頼家の供養のために建てたとされるお堂「指月殿」があり、伊豆最古の木造建築といわれています。
また、伊豆国修禅寺には、江戸時代に建立された源頼家の供養塔も存在しています。
【源頼家の墓】
所在地:〒410-2416 静岡県伊豆市修善寺(温泉場)
電話番号:0558-72-2501(伊豆市観光協会修善寺支部)
URL:http://www.shuzenji-kankou.com/
アクセス:修善寺駅よりバス10分「修善寺温泉」下車、徒歩10分
イベント『頼家まつり』毎年7月下旬ごろに、頼家公行列と墓前供養が行なわれています
まとめ:源頼家の死因は、北条氏との対立によって暗殺。その最期は悲惨なものだった。
源頼家の死因が、北条時政らとの政治的な対立によって、追放されて暗殺されたことがわかりました。
襲撃を受けた源頼家の壮絶な最後の様子を知る程に、鎌倉時代と現代とでは、日々を生きている感覚が大きくちがうのだろうなと感じることができました。
今回の内容をまとめると、
- 源頼家の死因は、北条氏との政治的な対立による暗殺だった
- 源頼家の顔といわれる謎の仮面がのこされている
- 源頼家は御家人所領の再計算を試みようとしたが、断念した
- 源頼家は建仁寺を建立した
- 源頼家が軟禁された伊豆国修禅寺に墓所にあたるものがある
日本で初めての武士による政権「鎌倉幕府」。その2代目でありながらそこまで目立つことのない源頼家は、母方の北条氏との熾烈な争いの末、若くして命を落としています。
将軍と執権の争いは、鎌倉時代の間続きますから、その最初の争いの犠牲者とも言えますね。