大久保利通と西郷隆盛の関係は?仲は悪かった?なぜ二人は対立したのか?
大久保利通:1830(文政13)~1878(明治11)と西郷隆盛:1827(文政10)~1877(明治10)は、共に明治維新で活躍した「維新の三傑」と呼ばれる薩摩出身の武士であり政治家です。同じ薩摩藩出身、同郷の2人はどのような関係だったのでしょうか?対立してしまったのはなぜなのでしょうか?
今回はは、大久保利通と西郷隆盛は、どんな関係だったのか?仲が悪かったのか?なぜ西南戦争で対立してしまったのか?について、簡単に解説していきます。
目次
大久保利通と西郷隆盛の関係はどうだった?
大久保利通と西郷隆盛は、同じ薩摩藩出身、年齢も近くご近所に住んでいたという関係です。つまり、幼い頃からの知り合い、幼なじみのような存在だったわけです。年は西郷隆盛の方が3つほど上ですが、幼い頃に似たような環境で育ったことに違いはありません。
大久保利通と西郷隆盛の関係はどのようなものだったのでしょうか?
大久保利通と西郷隆盛は同じ藩のご近所出身
大久保利通と西郷隆盛は、同じ薩摩藩の下加治屋町で生まれました。家は、通りを隔てて隣同士であり、幼馴染でした。年齢的には西郷隆盛のほうが3歳年上でしたが、2人はお互いを認め合い、やがて親友・同志となりました。
大久保利通が西郷隆盛に懐いたエピソードにはこういうものがあります。
2人の家は下級武士の家柄でとても貧しかったのですが、大久保利通の家は西郷隆盛の家よりさらに貧乏でした。
そのため、大久保利通はお腹が空きすぎて困ったときには西郷隆盛の家に行き、黙って西郷隆盛の兄弟の端っこに座ったそうです。それを見た西郷隆盛は、何も言わずに兄弟の茶碗から少しずつご飯を分けて、大久保利通のの前に差し出し、食事をさせていたようです。
幼い頃から苦楽を共にし、2人の結びつきはどんどん強くなっていったのでしょう。
大久保利通が西郷隆盛を島から呼び戻した
やがて成長した大久保利通と西郷隆盛は、幕末の名君と呼ばれた薩摩藩藩主の島津斉彬に仕えることになります。
西郷隆盛は斉彬斉彬のことを心の底から尊敬しおり、島津斉彬が病死した際には後を追おうとするほどでした。
島津斉彬の後を継いで実権を握ったのは、弟の島津久光です。この島津久光と西郷隆盛は仲があまりよくありませんでした。
それは、西郷隆盛は島津斉彬を尊敬するあまり、島津久光のことを見下しがちだったからです。
島津久光が島津斉彬の意志を継ぎ、上京すると言えば、西郷隆盛が「斉彬よりも人望がない」「田舎者」などと罵り、島津久光には無理だと言ってしまうほどです。
当然こんな事を言われた島津久光は激怒し、西郷隆盛を沖永良部島へと島流しました。
一方、大久保利通は、島津久光の好きだった囲碁を通じて接近し、側近に取り立てられ藩の政治に関わるようになっていました。
そんな大久保利通は、倒幕をするためには西郷隆盛の力が欠かせないと考え、島津久光に直訴し西郷隆盛を呼び戻すことができました。
その時、大久保利通の説得がなければ、西郷隆盛は島に流されたまま、明治維新や明治政府に関わることもなかったかもしれません。
大久保利通が西郷隆盛を政府に呼び戻した
大政奉還、王政復古の大号令と江戸幕府が終焉を迎え、明治政府では大久保利通と西郷隆盛は参与という職につきました。しかし西郷隆盛は、新政府の高官たちの贅沢三昧に嫌気が差し、故郷の鹿児島へと帰ってしまいました。
一方で大久保利通は、いつ倒れるかもわからない新政府を強い政権にするために尽力していました。
対照的な2人ですが、国を思う気持ちは同じでした。
改革を進めていく中で、大久保利通は中央集権化のために廃藩置県を断行する必要があると考え始めます。
しかし、廃藩置県を実行すると、士族たちからの反発は避けられません。
そこで、人望があり最悪武力解決も行える西郷隆盛の力を借りようと考え、自ら鹿児島へ向かい西郷隆盛を説得。
大久保利通の呼びかけに応じて西郷隆盛は明治政府へと戻り、廃藩置県はスムーズに行われ、中央集権化へと一歩また近づきました。
大久保利通は、西郷隆盛の人望と能力を非常に買っていたことがわかりますね。
大久保利通と西郷隆盛はなぜ対立したのか?
同じ薩摩藩の出身で、互いに信頼していた大久保利通と西郷隆盛。しかし、ある時を境に対立していくことになります。いつ、なぜ対立することになってしまったのでしょうか?
ここでは、西郷隆盛と大久保利通が対立することになった理由をご紹介していきます。
大久保利通と西郷隆盛が対立するきっかけは「征韓論」
大久保利通と西郷隆盛が対立するきっかけとなったのは「征韓論」を巡ってのことだと言われています。
征韓論とは、鎖国を続ける隣国・朝鮮に対して、軍隊を送り開国を迫ろうというものです。
西郷隆盛が唱えた征韓論は、正確には「遣韓論」と言われるもので、鎖国している朝鮮に西郷隆盛が乗り込んで、朝鮮国王に近代化の重要性を説き、清・朝鮮・日本が連携し、大アジアを西洋列強から防衛するという目的のものでした。
このとき、朝鮮では「日本人と関わるものは処刑する」という命が出ていて、2,000人もの居留民の命が危ない状況でもありました。
その状況を知っていた西郷隆盛は、朝鮮と国交を結ぶことによってその居留民の命をも救おうともしていたのです。
しかし、これに対して大久保利通は真っ向から反対します。
岩倉使節団として世界を見てきた大久保利通ら外遊組は、今は国外のことよりも国内をまとめるほうが優先事項だと主張し、征韓論を潰してしまうのです。
お大久保利通には、西郷を死なせたくないという気持ちもあったのかもしれません。
これを受けて、西郷隆盛をはじめとする征韓論者は怒って、下野してしまいます。
さらに、1875年(明治8年)に反対していたはずの大久保利通が、江華島事件を起こして朝鮮に武力介入し、日朝修好条規という不平等条約を押し付けます。
このとこがきっかけとなり、西郷隆盛の大久保利通に対する不信と怒りは拡大していってしまったのです。
大久保利通と西郷隆盛の対立「西南戦争」
大久保利通と西郷隆盛が対立してしまった後に、日本最大にして最後の内乱である西南戦争が勃発します。
実は、大久保利通が西南戦争のきっかけを作ったという話もあるのです。
ここでは西南戦争と、大久保利通・西郷隆盛の関わり方についてご紹介していきます。
大久保利通が西南戦争のきっかけを作った?
大久保利通は、征韓論を巡って西郷隆盛と対立したにも関わらず、朝鮮に武力介入しました。
つまり、対外抗争を避けるためだけに対立したわけではないということが伺えます。
なぜ対立を引き起こしたのか?
それには、大久保利通が岩倉使節団の一員として欧米を回っている間に、留守政府で台頭した者たちの存在があります。
留守政府では、西郷隆盛がリーダーを務めていましたが、実際に政府を牽引したのは、板垣退助、江藤新平、副島種臣などでした。
明治政府発足直後は、倒幕で活躍した長州・薩摩の出身者が政治を担っていましが、西郷隆盛がリーダーになった時、出身にとらわれず有能な人材を登用したことで、土佐や肥前出身者も政府首脳として活躍することができるようになったのです。
この中でも特に台頭していたのが、江藤新平です。
江藤新平は、山縣有朋や井上馨など長州出身者の金銭スキャンダルを糾弾して失脚させ、さらに司法改革を実施するなどしていました。
こうした状況が面白くなかったのは大久保利通です。
大久保利通は、いずれ江藤新平が自分の政敵になるのではないかと恐れ、江藤新平を失脚させるために行動を開始しました。
特に決定的だったのは、1874年(明治7年)の佐賀の乱。
大久保利通は色々な罠を張り巡らして、江藤新平を佐賀の乱の首謀者へとまつりあげます。
そして、形ばかりの裁判を行い江藤新平を処刑してしまうのです。
この一連の流れの中で、江藤新平のことを信頼していた西郷隆盛は、大久保への不信を強めることになります。
それに加えて、1875年(明治8年)の江華島事件がより一層不信と怒りを拡大することになってしまったのです。
西郷隆盛は、大久保利通のやり方に憤慨・失望し、故郷の鹿児島へと帰ってしまいました。
西郷隆盛は、西南戦争で大久保利通の敵になることを知っていながらも、逆賊になることを選んだ背景にはこれらのことも関わっていたのかもしれません。
大久保利通が最後に読んだ西郷隆盛からの手紙
大久保利通は、西南戦争から僅か1年後に紀尾井坂で暗殺されてしまいます。(紀尾井坂の変)
その死の間際、大久保利通は西郷隆盛からの2通の手紙を持っていたと言われています。
1通は、戊辰戦争の際に、外国人がその挙動を悪いように本国政府に伝える様子を西郷隆盛が察し、王政復古の趣意をきちんと彼らに伝えるように、大久保利通の周旋を望むという内容のもの。
もう1通は、大久保利通が洋行の際、サンフランシスコで撮影した写真を西郷隆盛に送った手紙の返信でした。
その手紙には、「醜態を極まる、もう今後写真を撮るのはやめなさい」という大久保利通の写真を茶化したような内容が書かれていました。
このことから、大久保利通と西郷隆盛の仲は、遠慮なく何でも言い合える関係だったことが伺えますね。
まとめ:大久保利通と西郷隆盛は互いに信頼しあっていたが、西南戦争で対立した
大久保利通と西郷隆盛は、同郷で育ち、お互いに信頼しあい、助け合って様々なことを成し遂げてきました。しかし、最後は西南戦争で敵となって対立することになってしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 大久保利通と西郷隆盛は、同じ薩摩藩の隣同士の家で育った
- 幼少期から2人は互いに支え合って様々な困難を乗り越えてきた
- 大久保利通と西郷隆盛は、征韓論をめぐっての対立や、その他の様々な要因が重なって、2人は最終的に対立した
- 大久保利通は、暗殺された際に西郷隆盛からの手紙を持っていた
大久保利通は、西郷隆盛が西南戦争で死んだという知らせを受けた際、涙しながら鴨居に何度も頭をぶつけ、狂ったように家の中をあるき回り、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が…」と呟いていたそうです。いくら対立したとはいえ、大久保利通と西郷隆盛の絆は簡単に壊れるようなものではなかったということなのでしょう。