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徳川家康の家紋「葵の御紋」の意味や由来は?徳川御三家や水戸黄門も使っていた?

徳川家康の家紋「葵の御紋」の意味や由来は?徳川御三家や水戸黄門も使っていた?

徳川家康は1543年(天文11年)1月31日〜1616年(元和2年)江戸幕府初代将軍。260年間続いた、江戸幕府を開いた人物です。織田信長、豊臣秀吉に仕えながらチャンスを伺い天下統一を果たした苦労人とも言えます。

そんな徳川家康の家紋といえば「葵の御紋」です。徳川家康から続く徳川御三家や、あの水戸黄門も使っていたことで知られています。
今回は徳川家康の家紋「葵の御紋」の意味や由来を解説していきます。また、同時代に天下統一を目指した、織田信長や豊臣秀吉と、徳川家康の家紋に対する想いの違いも見ていきましょう。

徳川家康の家紋は「三つ葉葵」。他の家紋も使っていた?

複数の家紋を用途に応じて使い分けていた武将が多い中、徳川家康は替え紋をもたず、ずっと「三つ葉葵」を使用していたと言われています。
なぜ、徳川家康は葵の御紋のみを使用したのか?そこには徳川家康の家紋に対する想いがありました。

当時の戦国武将は、戦の時、めでたい時、平時とその時々に応じて家紋を使い分けていました。しかし、徳川家康は葵の御紋のみを使用し続けました。
徳川家康が葵の御紋のみを使用し続けた理由は

  • 松平家の先祖の想いを受け継いで使用していた
  • 葵の御紋を徳川だけが使用できる特別な紋にした
  • 朝廷の権力にも屈しないという強い意志の現れだった

と言われています。
それぞれ、詳しく見ていきましょう。

「三つ葉葵」の由来や意味を解説

徳川家康の家紋(葵の御紋・三つ葉葵紋)

「葵の御紋(三つ葉葵)」は、徳川家だけが独占して使用を許された権威ある家紋です。印籠や刀に記された紋を見ただけで徳川家と分かるほど、印象付けられています。
徳川家康が家紋として使用した「葵の御紋(三つ葉葵)」の由来や意味を見ていきましょう。

「三つ葉葵」の由来は?

「葵の御紋(三つ葉葵)」葵という植物の葉っぱが元になっています。
京都の上賀茂神社の神紋には、葵の葉2枚が寄り添う二葉葵が描かれています。
元来、葵は賀茂祭で用いられていたことから、神聖な植物として扱われてきました。
葵紋は賀茂氏の象徴であり、賀茂氏とつながりの深かった三河国の武士達も、家紋として使用しており、徳川家の前身の松平家もこの葵紋を使用していたので、徳川家康が用いた「葵の御紋(三つ葉葵)」は、上賀茂神社の二葉葵紋に由来しているといわれています。

「三つ葉葵」にはどんな意味が込められている?

葵紋は、3枚の葵の葉先が中心で出あうように組み合わせています。
通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指します。

数多くある「葵紋」の中でも、徳川家が使用した「葵の御紋(三つ葉葵)」は、徳川家康が江戸幕府を開いてからは、徳川家が使用していた「三つ葉葵」は(徳川御三家と徳川御三卿)、それ以外は許可されたごく一部の大名だけが使用を許された特別な紋となりました。朝廷の「菊紋」や「桐紋」をしのぎ、絶大なる権威の象徴として怖れらるものでした。

徳川家康は「葵紋」を独占することで、将軍家の権威を表すことが目的だったようです。
無断使用どころか、粗末に扱うことすら戒められ、数々の禁令が発せられ、理由なく葵の紋を使用した者が、厳罰に処せられた事例もあったようです。

なぜ徳川家康は先祖の家紋を受け継がなかったのか?

徳川氏の先祖とされているのが新田氏です。その新田氏の家紋は「大中黒」と「一引両」であると言われています。

徳川家康も本来は、先祖の家紋を引き継ぎ、「大中黒」や「一引両」を使用するはずですが、「三つ葉葵」を使用したのはなぜなのでしょうか?

徳川氏の祖は、源氏の嫡流である新田氏。源義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。
やがて、新田義重の四男 義季は開拓した地を譲り受け、上野国新田郡世良田荘徳川郷に住み徳川義季と名乗るようになりました。これが徳川家の始まりです。
その後、徳川義季の子孫である親氏が、松平氏の発祥地 松平郷の基礎を築いた松平重信の次女 水女の婿養子となり、松平姓を名乗るようになります。
徳川家康の先祖は、松平氏に婿入りしたため、新田の家紋を使わなかったのであろうと思われます。

徳川家に引き継がれた「三つ葉葵」

徳川家康の父 松平広忠は、松平親氏から数えて8代目となります。

徳川家康は、14歳で元服した際は松平元信と名乗っていた、松平家最後の当主です。

松平家は、もともと賀茂氏とつながりから、戦国時代から「葵紋」を使用していたので、その流れで、徳川家康も「三つ葉葵の紋」を使用するようになりました。

とk具粟家康は、江戸幕府を開いた後、将軍家としての徳川家の権威を高めるため、「葵紋」を特別な家紋と位置付け、徳川家以外の家には、葵を使用した家紋の使用を禁止しました。

それは松平家も例外ではなく、家康は松平家に対しても「葵紋」の使用を禁止しました。
葵紋の使用を許されたのは、基本的に徳川家の一族、徳川御三家・徳川御三卿、その他には家臣の本多家や鳥取池田家など、ほんの一部限られた武将のみです。
葵紋の使用が正式に使用制限されたのは、1723年(享保8年)と言われています。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康では家紋の使い方が異なっていた。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、家紋の使い方やその想いが違いました。

  • 織田信長・・・7つの家紋をその時々で使い分けていた(戦や下賜など)
  • 豊臣秀吉・・・複数の家紋を持ち、出世の度に家紋を替えていた
  • 徳川家康・・・替紋を持たず、「三つ葉葵」を使い続けた

織田信長は、一生の間に7つの家紋を使用していたと言われています。豊臣秀吉の太閤紋や、徳川家康の葵の御紋(三つ葉葵)のように、家紋に対する権威付けはなく、戦や下賜など、その時々の状況に合わせて自由に変えていたようです。

【織田信長の使用していたと言われる家紋】

  • 織田木瓜紋(織田家を代表する家紋)
  • 揚羽蝶紋(天下統一の後から使用)
  • 五三桐紋(足利義昭より下賜され使用)
  • 二つ引両紋(足利義昭より下賜され使用)
  • 永楽銭紋(戦の際に使用)
  • 十六葉菊紋(朝廷から下賜され使用)
  • 無の字紋(禅の教えから使用)

織田信長の家紋については、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>織田信長の家紋は木瓜だけではなかった!種類と意味を簡単解説>>

豊臣秀吉は、出世の度に家紋を替えて使用していました。天皇からの下賜にこだわり、自身の権威を確実なものにし、最後は自身のみが使用できる家紋を作成しました。

  • 立ち沢瀉紋(木下藤吉郎時代に使用)
  • 瓢箪紋(織田信長から下賜され使用)
  • 五三桐紋(織田信長から下賜され使用)
  • 五七桐紋(後陽成天皇から下賜され使用)
  • 太閤桐紋(自身のみが使用)

豊臣秀吉の家紋については、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>豊臣秀吉の家紋は桐紋?日本政府も使ってる?秀吉の家紋とその意味徹底解説!>>

徳川家康は、替紋を持たず「三つ葉葵の紋」にこだわり続けました。そして、将軍家としての権威を高めるため、徳川家以外の家に、全ての「葵の紋」の使用を禁じました。

  • 三つ葉葵紋(徳川家と一部の限られた者のみが使用可能)

徳川家康は朝廷から家紋の下賜を断った 

天下統一を果たした徳川家康に対し、朝廷は「桐紋」を使用するように要請します。
「桐紋」は天皇家の家紋であり、足利幕府や織田信長、豊臣秀吉らに与えられていた特別な家紋です。
元来、「桐紋」を与えられることはとても名誉なことなので、朝廷は「桐紋」を徳川家に与えることで、その権威を誇示しようとしました。

しかし、家康はその要請を拒否します。
朝廷からの家紋の下賜を拒否し、葵の御紋のみを使用することにより、徳川家の家紋を天皇家の「桐紋」と同様に、権威あるものにしたのです。

徳川家の「三つ葉葵」が、天皇家の「菊紋」に敗れた戊辰戦争

「戊辰戦争」とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、15代将軍 徳川慶喜を擁する「旧幕府軍」と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」で争われた一連の戦争のことです。

鳥羽・伏見の戦いから始まり、「江戸城無血開城」「上野戦争」「長岡城の戦い」¥「会津戦争」と1年以上続き、1869年(明治2年)の「箱館戦争」にて終結しました。

1867年(慶応3年)11月9日、第15代将軍・徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政治の実権を徳川幕府から天皇に返還する、平和的な政権交代を行いました。新政府側(薩摩・長州藩)が、江戸幕府を倒そうとする動きが大きくなっており、内乱が起こるのを防ぐ目的だったと考えられています。

もし内乱が起これば、新政府側についたイギリスと、徳川幕府側についたフランスとの争いになり、日本が勝者側の植民地にされることを恐れていたためと言われています。

徳川慶喜は、政治の実権を朝廷に返還することで、新政府側が江戸幕府側を倒す理由をなくすのが目的でした。

ところが「大政奉還」をしたとはいえ、朝廷側には政治力がなく、260年間培ってきた徳川幕府が依然として強大な権力を持っていました。

これに対し新政府側が「王政復古の大号令」の発令し、徳川慶喜に対して役職を返上し、領地を差し出すことを要求(辞官納地)しますが、この強引なやり方に慶喜は拒否。

徳川慶喜は、15,000人もの旧幕府軍を結成し、1戊辰戦争の幕が切って落とされたのです。 

旧幕府軍15,000人、新政府5.000人と兵力では圧倒的に旧幕府軍が有利でしたが、外国の技術や武器を積極的に取り入れていた新政府軍の事力は、想像を遥かに超えており、旧幕府軍は惨敗し、徳川慶喜は江戸に逃れることとなりました。

しかし、圧倒的な軍事力を持っていた旧幕府軍ですから、再戦すれば勝利の可能性もあったはずなのに、徳川慶喜は一気に戦意を喪失してしまいます。

それは、徳川慶喜の出身が大きく関係しています。

徳川慶喜の出身の水戸徳川家は尊王思想の強い家柄で、天皇に対して極端に忠誠心が強く、慶喜も幼い頃から天皇を絶対的な護るべき存在であると教えこまれてきました。

戊辰戦争では、新政府軍が天皇の軍の旗である「錦の御旗」を掲げていたことで、旧幕府軍は朝廷の敵になり、尊王思想の強い徳川慶喜にとっては、天皇が襲いかかってくるこれ以上の恐怖はなかったのでしょう。

そして「江戸城を明け渡すことで攻撃をしない」という条件に双方同意し、新政府軍は江戸城無血開城を果たしたのです。
最後の将軍 徳川慶喜は、出身家が朝廷を守るように言い伝えられた家系だったため、朝廷の掲げた錦の御旗の前には屈するしかなかったとも考えられますね。

まとめ:徳川家康の家紋「三つ葉葵」は徳川家としての権威を現していた

徳川家康の家紋「三つ葉葵」は、徳川家を絶対的な権威ある存在として現すために使用されていたと言えます。
今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康の家紋は「葵の御紋(三つ葉葵紋)」
  • 徳川家康は、替紋は持たず「葵の御紋(三つ葉葵紋)」を使い続けた
  • 徳川家康は、朝廷からの家紋の下賜を断った
  • 徳川家康は、徳川家以外に「三つ葉葵紋」の使用を禁止した

徳川家康は「三つ葉葵」を徳川家以外に使わせないことで、将軍家である徳川家の立場を絶対的なものにしていきました。朝廷も恐れる圧倒的な政治力。徳川家康が守り抜いた権威ある「三つ葉葵」によって、200年以上に渡り徳川政権が続いてきたとも見て取れますね。

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