アフィリエイト広告を利用しています

豊臣秀吉の家系図を簡単に解説!信長や家康とも親戚だった?父母兄弟、子供は?

豊臣秀吉の家系図を簡単に解説!信長や家康とも親戚だった?父母兄弟、子供は?

農民から関白まで世紀の大出世を果たし、天下を統一した豊臣秀吉(1537~1598)。
その天下人の父母兄弟や、妻・子供は何人いたのかなど気になりますよね。
今回は、豊臣秀吉の家系図を簡単に解説していきます。
実は、豊臣秀吉は織田信長(1534~1582)や徳川家康(1543~1616)とも親戚であったといわれています。
どのような繋がりがあるのでしょうか?そこにも注目して見ていきましょう。

豊臣秀吉の家系図から見る、父母兄弟

豊臣秀吉は、貧しい農民の出と言われていますが、一体どんな出身だったのでしょうか?
豊臣秀吉の家系図と、その父母兄弟を見ていきましょう。

豊臣秀吉の家系図

豊臣秀吉の家系図1

豊臣秀吉の家系図2

豊臣秀吉の父母兄弟

豊臣秀吉は、低い身分の出と言われています。その秀吉の父母兄弟を見ていきましょう。

・豊臣秀吉の父:
木下弥右衛門きのしたやえもん(生年不詳~1543)
身分は足軽とされていて、下層階級の出身と考えられています。
なお、豊臣秀吉の実父について言及した文書は存在しておらず、竹阿弥ちくあみ(生没年不詳)という説もあります。

・豊臣秀吉の母:
大政所おおまんどころ(1516~1592) 別名:なか、天瑞院春岩
尾張国出身。竹阿弥に先立たれた後は、長男である秀吉が引き取ります。
豊臣秀吉が長浜城主になった後は、北政所らと一緒に暮らし、終生秀吉に大切にされました。
ちなみに、嫁姑の関係は、実の親子のように仲がよかったとされています。

・姉:
とも(1534~1625) 別名:日秀尼(にっしゅうに)、智子
尾張国の農民である三好吉房みよしよしふさに嫁いで、秀次、秀勝、秀保の3人を産みました。
このうち、秀次と秀勝は秀吉の養子に入ります。そして、秀保は豊臣秀長の養子に入りました。

・豊臣秀吉の弟:
豊臣秀長とよとみひでなが(1540~1591)
豊臣政権において内外の政務及び軍事面で活躍しました。外様大名との調整役も担っていたようです。
豊臣秀吉は秀長を隣に配して重用しており、豊臣政権の安定には欠かせない人物でした。
また、秀長も秀吉に異を唱えて制御できる人物であったとされています。

・妹:
旭姫/朝日姫(1543~1590) 別名:駿河御膳、南明院
豊臣秀吉によって強制的に夫と離縁させられ、その後徳川家康に嫁がされました。
徳川家康に嫁いだ後は、駿河府中に居を構えたため駿河御膳と呼ばれるようになります。晩年は病気がちで、臨済宗に帰依していました。

豊臣秀吉が信頼していた秀次と秀長

豊臣秀吉にはなかなか実子ができませんでしたが、代わりに養子をたくさん迎え入れていました。
その中でも特に豊臣秀吉が信頼していたといわれているのが、豊臣秀次(1568~1595)と豊臣秀長(1540~1591)です。
この2人について詳しく見ていきましょう。

豊臣秀吉から関白を譲り受けた義弟「豊臣秀次」

豊臣秀次は、秀吉の姉であるともの長男になります。
豊臣秀吉の子供である鶴松が幼くして亡くなり、世継ぎがいなくなってしまったことから、豊臣秀吉に養嗣子として迎え入れられました。その際に、秀吉から関白の職を譲られ家督を相続しています。
このことから、本当に秀吉から信頼されていたことが伺えます。

しかし、その後秀吉に嫡子・秀頼が誕生してしまい、秀次の存在は秀吉にとっては邪魔なものになってしまいます。そのため、秀次は強制的に出家させられてしまい、最終的には蟄居となった後に切腹をすることになってしまいました。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑されました。

豊臣秀吉を支え続けた異父兄弟「秀長」

もう一人秀吉が天下を統治するのに必要不可欠であった人物がいます。それが豊臣秀長です。
豊臣秀長は豊臣秀吉とは異父兄弟となります。豊臣政権において、内外の政務及び軍事面を担当しました。

豊臣政権は、徳川家康や伊達政宗など力の持った外様大名を多く抱えていましたが、秀長がその調整役に入っていたといいます。寛仁大度な人物であったことから、諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの人物がその地位を守ることができました。

また、寺社の多い大和を治めていましたが、特に大きな諍いもなかったことから実務能力も高かったことが伺えます。秀吉に異を唱えることのできる貴重な人物であり、この秀長がいたからこそ豊臣政権が安定していたと言っても過言ではないでしょう。

豊臣秀長は病死し、子供に男子がいなかったため、養嗣子の秀保(姉・ともの息子)に家督を継がせました。

豊臣秀吉は、織田信長・徳川家康と親戚だった?

家系図を見てもらうとわかるように、豊臣秀吉の親戚には織田信長と徳川家康が存在するのです。
ここでは、それがどのような関係なのかを詳しく解説していきます。

豊臣秀吉と織田信長の親類関係

豊臣秀吉と織田信長を繋げたのは、側室である茶々です。
茶々は、浅井長政とお市の方の長女となります。このお市の方は、織田信長の妹なのです。
戦国一の美女と賞され、豊臣秀吉が尊敬していた織田信長の妹。そんなお市の方に秀吉は強く憧れていました。
そのため、そのお市の方の子供であり、一番母親の面影をよく受け継いでいた茶々を側室とし、深く寵愛したとされています。

豊臣秀吉と徳川家康の親類関係

豊臣秀吉と徳川家康を繋げたのは、妹の旭姫と息子の豊臣秀頼です。

旭姫は豊臣秀吉の異父妹です。その旭姫は元々別の人のところに嫁いでいましたが、秀吉によって強制的に離縁させられ、徳川家康に嫁がされました。
これには、豊臣秀吉が徳川家康を懐柔しようという目論見がありました。
このとき、家康45歳、旭姫44歳であったとされています。
家康が上洛して秀吉と和議を成立させたのも、旭姫がいたからと言っても過言ではないでしょう。

また、豊臣秀頼は正室として千姫を迎えています。
この千姫は、徳川秀忠と江(浅井三姉妹の三女・秀吉の側室、茶々の妹)の娘で、徳川秀忠は徳川家康の三男です。
つまり、豊臣秀頼と千姫は従兄弟同士だったということになります。
千姫は7歳で秀頼に嫁ぐことになりますが、その仲は非常に仲睦まじいものであったとされています。

千姫は大阪夏の陣では、祖父である徳川家康の命によって落城する大阪城から救出されます。
その後、豊臣秀頼と側室の間の子供である天秀尼(てんしゅうに)が処刑されそうになると、彼女を千姫自らの養女にして助けてあげました。
その際、豊臣秀頼と淀殿に対する助命嘆願もしましたが、それは聞き届けられませんでした。
このことから、とても温和な性格であったことが伺えます。

豊臣秀吉に子供は何人いた?

上記の家系図には載っていませんが、豊臣秀吉には妻がたくさんいました。
その数、正室、側室合わせて14人と言われています。
しかし、なかなか子宝に恵まれることはありませんでした。

そこで豊臣秀吉は代わりにたくさんの養子を迎え入れています。ここでは、豊臣秀吉の実子と養子について詳しく見ていきましょう。

豊臣秀吉の実子

豊臣秀吉の実子は全部で4人です。正室である寧々との間に子供はできず、いずれも側室の子になります。

長男:
羽柴秀勝はしばひでかつ(生年不詳~1576)
側室である南殿との間に生まれた子で、幼少期は石松丸という名前でした。
秀吉がまだ織田信長の家臣で、長浜城主であった頃に生まれました。しかし、幼くして亡くなってしまいます。

長女:
女(名前不詳)
南殿との間にはもう1人女の子が生まれていました。しかし、こちらも石松丸同様に夭折してしまっています。

次男:
豊臣鶴松(1589~1591)
鶴松は、側室である茶々との間に生まれた子です。
このとき、秀吉は53歳と、当時にしては高齢で、待望の我が子の出生にたいそう喜んだとされています。
しかし、この鶴松も生来病弱であり、日本中の名医やポルトガルなどから南蛮の医者を呼ぶなど秀吉も最善を尽くしましたが、残念ながら数え年で3つのときに亡くなってしまいました。

三男:
豊臣秀頼(1593~1615)
豊臣秀吉と茶々との間に生まれた子と言われています。
秀頼が生まれたときには、従兄弟の秀次がすでに秀吉の養嗣子として関白を譲られ秀吉の後継者となっていました。しかし、秀頼を自分の後継者として育てたかった秀吉は、秀次から関白職を奪い自害させるまでしました。
しかし秀吉は、秀頼が5歳のときに他界してしまいます。
その後、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣を経て、豊臣家の権力は失墜していき、ついには大阪夏の陣で秀頼は自害してしまいました。秀頼23歳のことでした。

豊臣秀頼に関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

豊臣秀吉の養子

豊臣秀吉の養子は数多く存在しましたが、確実なものとしては男子7人、女子5人だと言われています。

男子7人のうち、3人は身内からの養子になります。
姉・ともの子である豊臣秀次豊臣秀勝、そして、妻・寧々の甥である小早川秀秋です。
この3人は身内から迎え入れた養子なので、秀吉の後継者として養子に迎え入れた可能性がとても高いでしょう。

残りの4人は、織田信長の4男・羽柴秀勝(幼名:於次丸おつぎまる)、宇喜多直家の嫡男・宇喜多秀家、徳川家康の次男・結城秀康、誠仁親王第六皇子・八条宮智仁親王はちじょうのみやとしひとしんのうです。
ここでも、織田信長や徳川家康との繋がりをより強くしようとしていたことがわかりますね。

また、女子5人は、前田利家の娘・豪姫、織田信雄の娘・小姫、浅井長政の娘・、近衛前久の娘・近衛前子、豊臣秀長の娘・大善院が挙げられます。
この他にもたくさん女子の養子はいたようですが、それは人質であったり、親戚関係を結ぶためであったりと、様々な思惑があったのでしょう。

まとめ:豊臣秀吉の家系図は、織田信長や徳川家康とも繋がりがあった

豊臣秀吉には、家系図が複雑になってしまうくらい色々な繋がりがあることがわかりましたね。そのどれがかけても、秀吉の天下統一はなかったかもしれません。
今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀吉は、木下弥右衛門と大政所の息子であり、兄弟が3人存在した
  • 豊臣秀吉は、実子に恵まれなかったため、養子をたくさん迎え入れた
  • 豊臣秀吉は、身内である豊臣秀次や豊臣秀長を信頼し、政治を行っていた
  • 豊臣秀吉は、織田信長や徳川家康とも親戚関係だった

織田信長や徳川家康といった有力武将との強い繋がりを作ったからこそ、豊臣秀吉は天下統一まで駆け上がれたのかもしれませんね。

豊臣秀吉の子供、豊臣秀頼に関してはこちらの記事にも詳しくまとめてあります。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください