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豊臣秀吉ゆかりの城11選!大阪城や長浜城など、築いた城・攻めた城を解説!

豊臣秀吉ゆかりの城11選!大阪城や長浜城など、築いた城・攻めた城を解説!

戦国時代の三英傑の一人である豊臣秀吉。庶民から関白・太閤に出世を遂げた日本の歴史上 最も出世した人物でもあります。そんな豊臣秀吉は多くの城を築城したと同時に、攻め落とした城も数多くあります。
今回は、豊臣秀吉にゆかりのある11城の城、築いた城・攻め落とした城を紹介します。

豊臣秀吉が築いた城

現代でも城のような大掛かりな建物を築くことは大変な労力です。戦国時代においては、今以上の労力と資金が必要でした。そのため、城を築くということは武将にとって自らの力を示す役割も持っていたのです。

今回は天下人に上り詰めた豊臣秀吉が、出世とともに築いた城を紹介します。

大阪城|豊臣秀吉の本拠地

豊臣秀吉のシンボルともいえる城であり、本拠地です。
豊臣秀吉の富と権力をいかんなく発揮して作られた、非常にスケールの大きな城です。
しかしその大阪城は、秀吉の死後に起こった大阪冬の陣と夏の陣によって落城し、豊臣氏は滅びました。
その後、徳川家によって大幅な再建築が行われ、大規模な盛土が行われており、豊臣家の城郭は地下に埋もれて、豊臣色が払拭されることになります。
1868年(慶應4年)の鳥羽・伏見の戦いでほとんどが消失しており、現在我々が見る天守は1931年(昭和6年)に建てられた鉄筋コンクリートの模擬天守です。

この大阪城は、古墳の跡地に築城されたという説もあります。
空から形を見てみると大仙陵古墳(仁徳天皇陵)とそっくりだったことからくる説のようです。

大阪城
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城1−1
築城年:1583年(大正11年)
築城者:豊臣秀吉、江戸幕府

墨俣一夜城|豊臣秀吉が出世するきっかけになった伝説の城

織田信長が美濃(岐阜県)を攻めるにあたって、木下藤吉郎時代の秀吉が短期間で築城したと言われています。
美濃勢に攻撃され、激戦になったところ織田信長が墨俣城に入ることができ、秀吉は恩賞を受けることになったのです。この墨俣一夜城が信長の美濃侵略に大きく貢献し、秀吉の出世のきっかけになりました。
現在では願掛けとして、秀吉の馬印であるひょうたんが沢山奉納されています

墨俣一夜城すのまたいちやじょう
所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
築城年:1561年(永禄4年)~1566年(永禄9年)(詳細不明)
築城者:木下藤吉郎(豊臣秀吉)

長浜城|豊臣秀吉の天下取りの土台となった城

羽柴秀吉の時代に初めて城持ちとなった秀吉が築いた城です。
秀吉は、1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が倒れるまで、長浜城を本拠地として活動していました。
秀吉の時代は琵琶湖の波打ち際に築城されましたが、城の一部が琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっています。
現在の天守閣は復元されたものです。

長浜城
所在地:滋賀県長浜市公園町10-10
築城年:1575年(天正3年)
築城者:羽柴秀吉(豊臣秀吉)

山崎城|豊臣秀吉が大阪城ができるまで本拠地とした城

過去の文献で山崎城について初めて名前が出てくるのは林直弘という人物ですが、築城に関わっていたのか詳細が分かっていません。
桂川の戦い1527年(大永7年)で細川晴元(1514年(永正11年)~1563年(永禄6年):山城国(京都)・摂津国(大阪)・丹波国(京都、大阪、兵庫)守護)が山崎城を落城させました。
本能寺の変の後、豊臣秀吉の侵略に備えるため明智光秀(?~1582年(天正10年)が山崎城に陣取りますが、豊臣軍の激しい攻撃により、最終的に逃亡してしまいます。
その後、大阪城ができるまで秀吉はこの山崎城を本拠地としていました。
山崎城は現存しておらず、跡地が残っているだけです。

山崎城
所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎46
築城年:1338年(延元3年/暦応元年)以前(詳細不明)
築城者:豊臣秀吉、細川晴元、林直弘(詳細不明)

聚楽第|豊臣秀吉が関白として政務を行った城

関白になった豊臣秀吉が、政務と邸宅を兼ねて建てた城です。
後陽成天皇を迎えて、もてなしをしたこともあります。
豊臣秀吉が、豊臣家の家督と関白の職を甥の豊臣秀次とよとみひでつぐ(1568年(永禄11年)~1595年(文禄4年))に譲ったあとは、秀次の邸宅となしました。
しかし、秀次は1595年(文禄4年)に秀吉によって追放されてしまい、秀次を謀反人として印象付けるため聚楽第を破壊してしまいました。
現在は跡地が残るのみです。

聚楽第じゅらくてい
所在地:京都府京都市上京区新桝屋町425
築城年:1586年(天正14年)
築城者:豊臣秀吉

名護屋城|豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした城

豊臣秀吉が晩年力を入れていたのが朝鮮出兵です。
この名護屋城は、朝鮮出兵のために作られた城で、非常に広大な城となっています。
朝鮮半島に近いことからこの地が選ばれ、半年で築城されました。短い期間で築城されたにもかかわらず、5重7階の天守が建てられ、城を中心に城下町が形成されました。全国から20万人を超える人々が集まったともいわれています。
建物は現存しておらず、本丸や天守台の跡が残っているのみです。

名護屋城なごやじょう
所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
築城年:1591年(天正19年)
築城者:豊臣秀吉

伏見城|豊臣秀吉が最後を迎えた城

朝鮮出兵のため兄名護屋城を建てた秀吉ですが、隠居先として伏見に指月城しづきじょうという城を建てます。
しかし、1596年(慶長元年)に大地震が起こり城が大破し、秀吉は木幡山に避難したといわれています。
この木幡山に城を建てさせ、伏見城が完成しました。
しかし、1598年(慶長3年)に秀吉は亡くなってしまい、伏見城が秀吉の最後の城となりました。
その後、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))で伏見城は消失してしまいます。
現在は復元されており派手な外観の城として知られていますが、豊臣秀吉は黄金を多用してさらに派手派手しくしていたと推測されています。

伏見城ふしみじょう
所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵45 
築城年:1592年(文禄元年)
築城者:豊臣秀吉

豊臣秀吉が攻めた城

豊臣秀吉は多くの城を建てたとともに、多くの難攻不落と言われた城を攻め攻略していました。

  • 兵糧攻めにより敵城内を飢えさせる
  • 水攻めにより敵城を水没させる
  • 敵の城を攻め落とすための城を築城する

といった方法で、豊臣秀吉は次々と敵の城を攻略していったのです。
実際に、秀吉の城攻めにあい、攻め落とされた城を見ていきましょう。

三木城|豊臣秀吉が兵糧攻めした城

古くから交通の要所であった湯山街道に築城されました。播磨の三大勢力(三木氏、別所氏、小寺氏)のひとつ、別所氏の城です。
毛利方についていた別所長治べっしょながはる(1558年(永禄元年)~1580年(天正8年))を織田軍が攻撃し、三木合戦(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))が始まりました。
別所長治は三木城に籠城するも、秀吉が兵糧攻めを行い1年10ヶ月におよび粘ったものの敗れました。
この戦いは三木の干殺しとも言われています。現在は本丸周辺だけが上の丸公園として残っています。

三木城みきじょう
所在地:兵庫県三木市上の丸町4-5
築城年:1492年(長享2年)前後
築城者:別所則治

鳥取城|豊臣秀吉が4ヶ月で開城させた城

因幡(鳥取)の守護である山名誠通やまなのぶみち(?~1548年(天文17年))が久松山の山頂から麓にかけて建てたとされていましたが、因幡山名氏と対立する但馬山名氏が建てたとする説もあります。
城郭などは残っておらず、現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残るのみです。
豊臣秀吉は二度にわたり鳥取城を攻め、2度目の攻撃の際『鳥取城の渇え殺し』と言われる厳しい兵糧攻めを行いました。
この秀吉の作戦により、城内では4ヶ月も経つと餓死者が続出したため開城に至ったのです。

鳥取城
所在地:鳥取県鳥取市東町1−220
築城年:1545年(天文14年)
築城者:山名誠通(詳細不明)

備中高松城|豊臣秀吉が水攻めした城

備中高松城は、石垣を用いておらず、土塁によって築城された珍しいタイプの城です。
城の周り湿湿地帯でこれらが天然の堀の役割を果たしていました。
1582年(天正10年)、織田信長から中国地方の討伐を命じられた豊臣秀吉は、備中高松城を攻めることにします。
備中高松城は天然の堀(沼地)に囲まれていたため難攻不落とされていました。
しかし、秀吉は参謀の黒田官兵衛のアドバイスにより城を水没させるという奇策で戦に臨みます。城の周りを堰堤で囲む土木工事を行い見事水没させました。
その後、援軍として織田信長を呼ぼうとしましたが、1582年(天正10年)本能寺の変で明智光秀に織田信長が討たれてしまいました。
織田信長の悲報をうけた秀吉は、すぐに和睦し中国大返しをおこないました。
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みの一部が残るだけで、城の痕跡はほとんど残っていません。

備中高松城
所在地:岡山県岡山市北区高松558−2
築城年:詳細不明
築城者:石川氏(詳細不明)

小田原城|豊臣秀吉が攻め落とした難攻不落の城

小田原城は大森頼春おおもりよりはる(?~1469年(応仁3年))によって築城され、16世紀初頭に北条氏の本拠地として整備されました。
上杉謙信武田信玄の攻撃にも耐え、「難攻不落の城」や「天下の名城」とも呼ばれています。
1590年(天正8年)、豊臣秀吉はそんな難攻不落の城の城主であった北条氏直ほうじょううじなおを打ち取ることにしました。
北条氏直は、小田原城の城塞を大阪城に次ぐ大きさに改修していいました。
しかし、関東の城を次々と撃破していた秀吉によって小田原城は孤立してしまいます。小田原城を包囲した秀吉は、石垣山という山に石垣山城を築きました。
この石垣山城は小田原城から見えないように築城され、完成後に周りの木が伐採されました。北条氏はあたかも一夜にして城ができたと驚き、戦意喪失しました。
北条氏は3ヶ月籠城したものの最終的に無血で開城することになりました。

小田原城
所在地:神奈川県小田原市城内
築城年:1417年(応永24年)
築城者:大森頼春

その他、豊臣秀吉にゆかりのある城

自ら築城した城や攻め落とした城とは別に、豊臣秀吉は城を贈られることもありました。
ここでは、豊臣秀吉が譲り受けた城を紹介します。

姫路城|豊臣秀吉が黒田官兵衛から譲り受けた城

現在でも白鷺城として有名な城です。
豊臣秀吉は、落城させた三木城を中心として中国地方の討伐を考えていましたが、黒田官兵衛から「交通の要所であり、今後の繁栄も見込める姫路城を拠点にすべきだ」と進言され譲り受けました。

豊臣秀吉が姫路城改築の際に、石集めに苦労していたところ餅売りの老婆が石臼を差し出し、それを石垣に組み込んだところ、話を聞いた民衆が次々と労力や資材を提供したとの逸話もあります。
その石は、姫路城の乾小天守北側に「姥ヶ石」と呼ばれ現在でも保存されています。

姫路城
所在地:姫路市本町68番地 姫路城三の丸広場北側
築城年:1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
築城者:赤松貞範あかまつさだのり(1306年(徳治元年)~1374年(文中3年))

まとめ:豊臣秀吉にゆかりの城には、秀吉のこだわりと、その戦のスタイルが読み取れる

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、多くの城を築いたと同時に、多くの城を攻め落としています。
兵糧攻めや水攻めなど、敵にしてみればジワジワと力をそがれるような方法が取られていました。
兵糧攻めにおいては、敵の城の近くで秀吉軍が食事の準備をすることで心理的なダメージも与えていたと推測されています。
今回の内容をまとめると

  • 長浜城主を皮切りに、出世とともに城を変えている
  • 派手好きだったといわれる性格の通り、華やかで大きな城を築いている
  • 兵糧攻めや水攻めなど多彩な方法で戦に勝ってきた

秀吉は史上稀にみるスピード出世を遂げましたが、彼の城もまた史上まれにみるスケールでした。
また、秀吉が出世するとともに城も変わっていったことがわかります。何度も城を変えるほど権力を持っていたという証拠でしょう。

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