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豊臣秀吉の年表を徹底解説!主な戦いは?名前は何回変わった?妻は?子供は?

豊臣秀吉の年表を徹底解説!主な戦いは?名前は何回変わった?妻は?子孫は?

貧しい百姓の息子から天下人にまでのぼりつめた豊臣秀吉。
戦国時代でもっとも出世をしたと言われた元祖下克上の男「豊臣秀吉」は一体どんな人生を送ったのでしょうか?
今回は、豊臣秀吉の年表をもとに、主な戦い、なぜ何度も名前が変わったのか?子孫は現代にも続いているのか?と豊臣秀吉の生涯をみていきましょう。

豊臣秀吉とはどんな人?

豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代の武将です。

豊臣秀吉とよとみひでよし
1537年(天文6)〜1598年(慶長3):享年62歳
尾張国(現在の愛知県)で生まれる
貧しい家の生まれから、戦国武将となり織田信長に支え、天下統一を成し遂げました。

豊臣秀吉の年表

1537年(天文6)
尾張国(現在の愛知県)にて貧しい農家の子として生まれる

1554年(天文23年)
織田信長に仕官

1582年(天正10)
本能寺の変で討たれた織田信長の仇を、山崎の戦いで討つ

1582年(天正10)〜1598年(慶長3)
太閤検地
それまで、領主がそれぞれ決めていた年貢や軍役を統一した
(土地面積単位の統一、京桝の使用、土地単位の統一)

1585年(天正13)
関白に任命される

1586年(天正14)
太政大臣に任命される
正親町天皇より「豊臣性」を賜り、豊臣秀吉と改名

1588年(天正16)
刀狩令
農民の刀を没収
寺の仏像を建てる材料に使う名目でしたが、実際は一揆を抑えるのが目的だった

1590年(天正18)
北条氏政、北条氏直を破る
東北地方の大名を家来にし、天下統一を果たす

1592年(天正20/文禄元年)〜1598年(慶長3)
朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)

1598年(慶長3)
病死:享年62歳

豊臣秀吉は織田信長に仕える前は何をしていた?

貧しい農民の子として生まれた秀吉は、武士として生きるため、15歳の時に仕官先を見つける旅に出ます。
そうして、松下之綱まつしたゆきつなに仕官します。
当時より器用で優秀だった秀吉は、次々と仕事をこなし、松下之綱からとても気に入られていたようです。
しかし、貧しい農民出身の秀吉が出世していくのを他の家臣達が妬み始め、嫌がらせをするようになり、不憫に思った之綱は、秀吉にお金を渡して故郷に帰したそうです。

その後、縁あって織田信長に仕えます。
きっかけは諸説ありますが、「太閤素性記」の中では、知人の紹介で信長の草履取りとして召し抱えられたという説が有名です。

豊臣秀吉の年表から見る、主な戦い

小柄で力も弱かった豊臣秀吉が天下人まで上りつめたのは、、持ち前の器用さと頭脳を上手く活かした戦い方にあったといわれています。

豊臣秀吉の戦略は「戦わずして勝つ」です。
内部分裂を促したり、相手の士気を下げる作戦を用い、兵士に犠牲が出ない戦い方をしていたといいます。
【豊臣秀吉の主な戦い】

  • 1582年(天正10)山崎の戦い
  • 1583年(天正11)賤ヶ岳の戦い
  • 1584年(天正12)小牧長久手の戦い
  • 1592年〜1598年 文禄の役・慶長の役(朝鮮出兵)

山崎の戦い

1582年(天正10)、秀吉が仕えていた主君 織田信長が、明智光秀の謀反によって討たれます(本能寺の変)。
その主君の仇を討つために明智光秀軍と戦った戦いです。

本能寺の変が起きた時、秀吉は中国地方で毛利方の清水完治しみずむねはるが守る備中高松城を攻めていました。
織田信長の訃報を知り、秀吉はすぐに毛利家と和睦を結び、山陽地方から京を目指し大移動する中国大返しを行います。
その距離220㎞。約2万の将兵を連れ、10日で辿り着きました。
その後、山崎の戦いで光秀を倒しました。

明智光秀の敗因は、なんといっても圧倒的な戦力差の差です。
中国大返しを行った秀吉率いる約4万の兵に対し、明智光秀軍は約1万6000。
十分な兵力を集められなかったことが大きな敗因となったようです。
この山崎の戦いで、織田信長の敵討ちを果たした秀吉は、更なる高みへと登っていきます。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い(Wikipediaより)

1583年(天正11)、織田信長の後継者を巡っておこった、柴田勝家との戦いです。 二人とも、織田信長の家臣であった二人が争そうことになったきっかけはなんだったのでしょうか?

本能寺の変がおこった時、柴田勝家は北陸方面で越中の上杉景勝軍と争っていました。そのため、織田信長の訃報を聞いてもすぐに戻ることができませんでした。
一方、備中高松城を攻めていた秀吉は、主君の訃報を知り、毛利家と和睦を結び、山陽地方から京を大移動(中国大返し)して信長の仇討ちを決行しました。

その後、信長亡き後の織田家の後継を巡り、山崎の戦いから2週間後に”清須会議”が行われました。
織田家を継ぐのは、信長の次男の信雄か?それとも三男の信孝か?で意見が分かれいました。
しかし、
「信長は本能寺の変の前に、長男の信忠に家督を譲っていたので、信忠の息子「三法師」が正当な後継者である」
という秀吉の意見が通り、後継者が決まりました。

このことを不服に思った柴田勝家が、
「清洲会議での誓約に、秀吉が違反している」
と主張したことがきっかけで、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが始まりました。
前田利家の裏切りなどもあり、柴田勝家は敗れ、妻お市の方と共に自害。

この賤ヶ岳の戦いでの勝利は、秀吉の権力をより拡大するきっかけとなりました。
この賤ヶ岳の戦いで、活躍した7人の武将

  • 加藤清正
  • 福島正則
  • 加藤嘉明
  • 平野長泰
  • 脇坂安治
  • 片桐且元
  • 糟屋武則

賤ヶ岳の七本槍しずがたけのしちほんやりと呼ばれています。

賤ヶ岳の七本槍の一人「加藤清正」については、こちらの記事でも詳しく解説しています。

>>加藤清正は槍の名手だった?賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた理由と使っていた武器

小牧長久手の戦い

1584年(天正12)、大阪城を築くなど天下人として振る舞っていた秀吉のことを良く思わなかった、織田信長の次男 信雄が、徳川家康を頼り起こした戦いです。
秀吉軍は約10万、織田・徳川連合軍は1万6000〜3万。
しばらくこう着状態が続きましたが、秀吉の家臣であった池田常興いけだつねおきが奇襲攻撃を提案します。
小牧山城にいる徳川家康を引きつけ、2万の大軍で、家康の領内にある岡崎城を攻めるというものでした。
しかし、その作戦は家康軍にバレてしまい、家康は逆に奇襲を決行します。
家臣の榊原康政さかきばらやすまさ井伊直政いいなおまさに9千の軍を与え攻撃を開始するのです。
これを長久手の戦いといいます。

突然の奇襲に秀吉軍は混乱し、池田恒興と森長可は討死し、2万の大軍は壊滅するという秀吉にとって最大の敗北となりました。

まさかの敗北を喫してしまった秀吉は、家康と戦うのをやめ、信雄の領土である伊勢を攻めました。攻められた信雄は、攻撃に耐えられず、秀吉と和睦。
秀吉と信雄が和睦したことにより、家康は秀吉と戦う必要がなくなったため和睦し小牧長久手の戦いは終わりを迎えました。

文禄の役・慶長の役(朝鮮出兵)

1592年〜1598年、秀吉の命により朝鮮出兵に出兵します。(文禄の役/慶長の役)
天下統一を果たした秀吉は、朝鮮征服を目指しました。
秀吉は、明の支配下にあった朝鮮を服属させようとし、明までの道を貸し出すよう要求しましたが拒否をされたため、文禄の役を起こし、日本が快進撃を繰り広げました。
しかし、明が朝鮮側味方し戦況は一変、こう着状態となりました。
その後、日本と明の間で和議を結ぶ予定が決裂し、再び侵攻を開始します。
しかし、慶長の役の最中、秀吉が病死。
日本軍は撤退して戦は終わりを迎えました。

豊臣秀吉は、なぜ何回も名前が変わったのか?

秀吉は、幼名は日吉丸、そして木下藤吉郎、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉へと変えていきます。
当時は、名前でその人の地位を表わしていたため、秀吉も地位に相応しい名前を、出世の度に変えていったのです。
秀吉は、どのような経緯で名前を変えていったのかみていきましょう。

木下藤吉郎から羽柴秀吉へ

松下之綱に仕えていた時期、秀吉は木下藤吉郎と名乗っていました。

秀吉の父は織田家に仕えていた足軽 木下弥右衞門きのしたやえもんだと言われています。
普段は農民をし、合戦になる際には駆り出されていたようです。
本来、貧しい農民は”姓”を持たないのですが、「木下」と称しているのは、農民の中では豪農クラス(名主)だった可能性があるからだと言われており、秀吉は父の姓を名乗っていたそうです。
松下之綱のもとを離れ、織田信長に仕官するようになり、羽柴秀吉へと変えています。
織田家で格を上げていた秀吉は、木下では格が低いと思い改姓したのではないかといわれています。

羽柴の由来は、織田信長の重臣だった柴田勝家丹羽長秀の苗字から1文字ずつもらい羽柴としたとされています。

天皇から賜った「豊臣」の性

秀吉は他の武将と違い、貧しい農家出身であることに大きなコンプレックスを持っていました。数々の功績を残し、出世をしていった秀吉は、地位の高さにふさわしい名前に改名することで、自身の格を上げていきました。

1586年(天正14)に秀吉はついに太政大臣となり、正親町天皇より「豊臣」性を賜って豊臣秀吉と名乗るようになりました。

豊臣秀吉のあだ名はサル?

秀吉は信長から「サル」と呼ばれていたのは有名な話ですが、理由は何だったのでしょうか?
その理由は諸説ありますが、単純に見た目がサルっぽかったからだと言われています。
また、信長が秀吉の妻ねねに宛てた書状の中で、秀吉のことを「禿げネズミ」と記しています。
サルにしても禿げネズミにしても、なかなかひどいネーミングですよね。。

また、生まれが天文5年の申年生まれだったというのも有力です。
秀吉に仕えていた、前田利家は”戌年”生まれで「犬」、加藤清正は”寅年”生まれで「虎」と呼ばれていました。
当時は、男の子を干支で呼ぶ習慣があり、秀吉は申年生まれで「サル」と呼ばれていたのかもしれませんね。

豊臣秀吉の年表から見る、妻と子孫たち

秀吉と正室の「ねね」との間には子供はおらず、側室との間に生まれた子が4人いました。

豊臣秀吉の妻「ねね」との関係

秀吉と妻の「ねね」を結んだのは織田信長だったようです。
信長が趣味の鷹狩りをした帰り道、立ち寄った浅野長勝あさのながかつの屋敷でお茶を出してくれたのが浅野長勝の養女 ねねでした。
ねねはとても美しく、信長はとても気に入り秀吉にねねを妻にするように言ったそうです。
秀吉の結婚相手を決めたのが織田信長なんて、意外ですね。

また、秀吉は女好きで有名でした。
秀吉の浮気に嫉妬したねねは、そのことを信長に相談しています。
その相談に対して信長は書状を送り、書状でねねが前回より美しくなっていることを褒め、秀吉がねねへの不満を漏らすことを「言語道断だ!」と一喝しています。
「そして、どこを捜しても、あなたほどの妻を迎えることは”禿げネズミ”には難しい。だからこれからも朗らかで堂々として、嫉妬を起こすな」
と記し、この書状を秀吉に見せるようとも記しています。

信長は、冷酷なイメージが先行してますが、部下の妻の相談に乗るほどの人物で、実は面倒見がよかったのではないかとも言われています。
しかし、信長からの書状をみた秀吉はどんな思いだったのかが気になりますね。
ねねは、優しいながらも勝気な性格で、秀吉が留守の間は、“ねね”が政務を担当することが多々あったようです。
秀吉の天下統一を陰で支えた良い妻だったようです。

豊臣秀吉の子孫たち

秀吉には、側室との間に3男1女がいましたが、秀頼以外は皆幼くしてなくなってしまいました。

  • 長男:羽柴秀勝(石松丸)・・・夭折
  • 次男:豊臣鶴松・・・夭折 
  • 三男:豊臣秀頼・・・大阪夏の陣で自害
  • 長女:名前不詳‥夭折

豊臣秀吉の死後、子孫たちはどうなった?

秀吉の4人の子供たちは、秀頼以外みな幼くして亡くなっています。
秀吉は、自身の死が近いことを感じ、秀頼を跡継ぎにと考えましたが、当時まだ5歳の秀頼に政権を任せることは難しく、秀頼が自ら政権を動かせるようなるまでの間だけ徳川家康に委ねました。

そしてこの盟約を強固なものにするため、家康の孫 千姫を秀頼を結婚させました。

しかし、政権を託された家康は関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
そして、将軍職を自身の三男 徳川秀忠とくがわひでただへ譲るという裏切りを起こします。
これには豊臣側が猛反発します。
関ヶ原の戦い以降、豊臣家の勢力は大きく削がれていましたが、権威は未だに落ちておらず、豊臣家への忠義を誓う大名や家臣が多いました。
また、朝廷も豊臣家に味方していました。

豊臣家の権威に脅威を持っていた家康は、生きているうちにその脅威を排除しようとしおこったのが、大阪夏の陣です。

しかし、秀吉率いる豊臣軍は、で徳川家康軍に大敗。秀頼は自害しました。

その秀頼には側室との間に、息子 国松くにまつと娘 奈阿姫なあひめがいました。
しかし、大阪夏の陣で豊臣軍が敗北したことにより、国松は徳川家康によって処刑されたと言われています。
国松は当時8歳だったそうです。
こうして秀吉の直系の子孫は滅亡しました。

秀吉の後継者「豊臣秀頼」に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。

>>豊臣秀頼の父親は秀吉ではない?秀頼は一体誰の子供なのか?

まとめ:豊臣秀吉は織田信長亡き後、その意思をついで天下を統一したが、朝鮮出兵の夢半ばでその生涯に幕を下ろした

織田信長の意思をつぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、世界に目を向け、朝鮮出兵を果たしましたが、その夢半ばでその生涯を閉じてしまいました。
今回の内容をまとめると

  • 豊臣秀吉は、貧しい農民から関白にまでのぼりつめた
  • 豊臣秀吉は戦略家で、「戦わずして勝つ」戦で数々の功績をあげた
  • 出世の度に名前を変えていったのは、農民出身というコンプレックスから
  • 関白となり、天下統一を果た
  • 朝鮮出兵をおこない、日本の領土を広げようとするが、夢半ばで病死

 農民という出から、関白となり天下統一を成し遂げた秀吉は、元祖下克上ともいえるほど、凄まじい出世をしています。
出自が貧しいというコンプレックスを、努力でカバーしたその生涯は、現代の私たちにとっても学ぶものが多いですね。

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