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戊辰戦争をわかりやすく解説!いつどこで?きっかけは?その後の影響は?

戊申戦争とは、1868年(明治元年)から1869年(明治2年)まで行われた日本近代史最大の内戦です。
旧幕府軍と新政府軍による内戦だったのですが、なぜこの内戦は起こってしまったのでしょうか?
この記事では、戊申戦争のきっかけやその後の影響などについて簡単に解説していきます。

戊辰戦争を簡単に解説!

戊申戦争とは、旧幕府軍と新政府軍による日本近代史最大の内戦です。
それでは、戊申戦争はいつどこで行われたのでしょうか?
また、内戦が始まるきっかけはなんだったのでしょうか?

ここでは、戊申戦争について簡単に解説していきます。

戊辰戦争とは? いつ?場所は?

戊申戦争とは、1868年(明治元年)から1869年(明治2年)にかけて行われた、旧幕府軍と新政府軍による日本近代史最大の内戦です。

「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、日本各地を転々としながら1年以上内戦は続き、「箱館戦争」にて終結しました。

旧幕府軍は、旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟(東北・北陸地方の31藩)で、新政府軍は、薩摩・長州・土佐藩が中心となって構成されています。

また、戊申戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が「戊辰」の年だったことに由来しています。

戦いが行われた場所は、日本各地を転々としていたことからとても多いです。

京都、江戸、長岡、会津若松、箱館など様々な場所で行われました。

戊辰戦争のきっかけは?

戊辰戦争が開戦するきっかけは3つありました。

  1. 大政奉還
  2. 王政復古の大号令
  3. 薩摩藩邸の焼き討ち事件

1.大政奉還

大政奉還とは、1867年11月に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が、政権を朝廷に返上した出来事です。

大政奉還が行われる少し前、世間では倒幕の風潮が高まり、薩長も公家の岩倉具視らと手を組み倒幕の勅命をもらうなどしていました。

徳川家を倒すことで新しい時代を手に入れようとしていたわけです。

しかし、この勅命のことをいち早く知った徳川慶喜は、大政奉還を行います。

こうすることで、幕府を無くし、倒幕するという大義名分を無くしたのです。

幕府は無くなり政権は朝廷に返されましたが、朝廷はいかんせん長年政治を動かしてこなかったので、そのためのノウハウがありません。

そのため、引き続き徳川家が政治の実権を握ることが徳川家の目的だったとも考えられます。

\大政奉還については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

2.王政復古の大号令

せっかく徳川家を倒して新しい政府を始めようとしていたのに、大政奉還をされてしまったことによって、倒幕することができなくなってしまいました。

このままでは、また徳川家が中心の政治が始まってしまいます。

そこで、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視らが、天皇中心の新しい政治体制を確立するためにクーデターを起こし、明治天皇に「王政復古の大号令」を発してもらいます。

この王政復古の大号令によって、今までの政治体制を廃止し、天皇のもとに三職(総裁・議定・参与)を置き、有力な藩が共同で政治を行うということになりました。

この際、三職のどこにも徳川慶喜をいれず、徳川家の影響を受けない新政府を作り上げたのです。

また、この日の夜に行われた「小御所会議」にて、徳川慶喜内大臣の辞職と領地の一部返上が決定されています。

\王政復古の大号令については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

3.薩摩藩邸の焼き討ち事件

王政復古の大号令で徳川慶喜は政治の中心から追放されましたが、未だに支持する勢力は多くいました。その支持勢力は、長年政治を引っ張ってきた徳川家、ならびに徳川慶喜に対する新政府の対応に不満を持っていました。

新政府は、この未だに残る大きな対抗勢力をなんとかして潰しておきたいと考え、薩摩藩は無理やり戦いに持ち込むことにするのです。

何をしたかと言うと、薩摩藩の浪士に江戸市中取締の庄内藩新徴組の屯所を襲わせ、使用人1人を殺しました。

これを受け、旧幕府勢力は我慢の限界を迎え、討伐として江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、112人の浪士を捕縛します。

この騒乱の影響が拡大し、旧幕府軍と新政府軍が衝突する戊辰戦争へと繋がっていくのです。

戊辰戦争の中心人物は西郷隆盛?

戊辰戦争には多くの人物が参戦しましたが、特に知っておきたい3人をここでは紹介していきます。

・西郷隆盛

戊辰戦争において新政府軍の大将を務めたのが西郷隆盛です。
薩摩藩出身の西郷隆盛は、同郷の大久保利通と共に明治維新の立役者となり、新政府でも要職について活躍しました。

西郷隆盛は、戊辰戦争にて新政府軍の指揮を執り活躍しましたが、政争に敗れて辞職し、故郷の鹿児島へと戻ります。その後、明治政府に不満を持った人々と共に「西南戦争」を起こしますが、大久保利通率いる政府軍に破れ、自決しました。

\西郷隆盛については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

・徳川慶喜

徳川慶喜は、江戸幕府第15代将軍で、つまり江戸幕府最後の将軍です。

戊辰戦争では旧幕府軍の総大将を務めますが、初戦の鳥羽・伏見の戦いの後、戦いを放棄し大坂から江戸へ逃れます。

このことから、徳川慶喜は「卑怯者」「臆病者」「意気地なし」などといったようなマイナスの評価をされるようになってしまいました。

徳川慶喜が江戸へと逃亡した理由は、崇敬する天皇家に歯向かって朝敵となることを恐れたからだと言われています。

尊王思想や父・徳川斉昭からの
「幕府を敵に回すことがあったとしても、朝廷を敵にしてはならない」
という教えを守ろうとしていたのかもしれません。

しかし、どんな理由があったとしても、総大将が逃亡したことにより旧幕府軍の士気は下がり、大敗するきっかけとなったと言っても過言ではないでしょう。

\徳川慶喜については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

・勝海舟

戊辰戦争の最中、西郷隆盛は江戸へと総攻撃を仕掛ける予定でした。
しかし、そこで待ったをかけたのが勝海舟です。

勝海舟は、軍事総裁として旧幕府軍を代表して西郷隆盛と交渉し、総攻撃をやめさせることに成功しました。(江戸城無血開城)

この江戸城無血開城により、江戸城下が戦火を免れたことで、戦争による犠牲者は大きく減り、また、明治政府発足も予定より早く進んだと言われています。

\勝海舟については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

戊申戦争の結果は?

戊辰戦争は日本各地で戦いが行われ、1年以上続きました。

開戦当初、新政府軍が約5000人くらいだったのに対し、旧幕府軍は約15000人と圧倒的な戦力差があり、旧幕府軍が有利だと思われていました。

しかし、新政府軍は外国製の武器や技術を積極的に取り入れており、その結果、次第に戦局を巻き返したのです。そのまま新政府軍の勢いは留まることなく、最期の地「箱館戦争」で一進一退の攻防の末、戦いは新政府軍の勝利に終わりました。

戊辰戦争中の主な戦いは?

戊申戦争は1年以上続く長い戦いでした。その期間の中で、大きな戦いが5つありました。
それぞれどのような戦いだったのでしょうか?
ここでは、戊申戦争中の主な戦い5つを簡単に解説していきます。

鳥羽・伏見の戦い

戊辰戦争の最初の戦いが鳥羽・伏見の戦いです。

鳥羽・伏見の戦いは、会津藩や桑名藩などを含んだ旧幕府方が京都へとなだれこもうとしたことで始まりました。

開戦当初、先程もお伝えしたように、新政府軍が約5000人くらいだったのに対し、旧幕府軍は約15000人と圧倒的な戦力差があり、旧幕府軍が有利だと思われていました。

しかし、ここで朝廷が徳川慶喜を朝敵とみなしたり、新政府軍が「錦の御旗」を掲げた上で自分たちを官軍とし、「大義は我らにあり」と示したりしたことで、旧幕府軍の士気はガタ落ちしてしまいます。

さらに、旧幕府軍の総大将であった徳川慶喜もこっそりと大坂から脱出し江戸へと逃亡してしまうのです。

そのため、圧倒的な戦力差があり有利だったはずの旧幕府軍は、大敗を喫してしまいます。

江戸城無血開城

鳥羽・伏見の戦いで破れた旧幕府軍は江戸へと逃亡します。

それを追って新政府軍も江戸へ向かい、総攻撃を仕掛けようとしました。

しかし、ここで旧幕臣の勝海舟が新政府軍総大将・西郷隆盛へと交渉を持ちかけます。

この交渉により、江戸城は戦いではなく話し合いによって、新政府へと引き渡されることになりました。(江戸城無血開城)

こうして、江戸城下は戦火を免れたのです。

東北戦争

新政府は、江戸幕府でも要職についていた会津藩と庄内藩を朝敵とみなしていました。

徳川家を支持する大きな勢力を潰しておきたいと考えていたわけです。

そんな中、東北諸藩は、会津藩と庄内藩の朝敵扱いを許してもらえるように新政府へと嘆願を行っていました。しかし、それが拒絶されてしまったため、「奥羽越列藩同盟」として新政府に対抗する軍事同盟を結成します。

こうして、新政府軍と奥羽越列藩同盟による戦いが始まりました。

最初こそ勢いのあった奥羽越列藩同盟でしたが、新政府軍の近代的な武器の前に圧倒され、次々と降伏していきます。降伏する藩が多くなり、同盟崩壊とみた庄内藩が新政府の軍門に下ったところで東北戦争は終結しました。

この東北戦争は、戊辰戦争の中で最も多くの犠牲者を出しました。

会津戦争

関東・北陸での戦いに勝利した新政府軍は会津に向けて進軍していきます。

会津藩といえば、幕末に薩長と激しく対立していた藩でした。新撰組の会津藩の支配下だったこともあり、薩長の恨みを一身に背負っていたとも言えるでしょう。

そんな会津藩は、奥羽越列藩同盟と新撰組と共に、白河口の戦いなどで善戦します。しかし、母成峠の戦いにて破れてしまいます。

この敗戦の報せを受け、会津藩主・松平容保は急遽白虎隊を招集します。

白虎隊は、16歳から17歳の少年たちで編成されていました。松平容保は白虎隊を護衛として、滝沢峠で新政府軍を迎え討とうとしますが、時すでに遅し、新政府軍はすぐそこまで迫ってきていました。

そこで、松平容保は、籠城戦を選択します。

ちなみに、松平容保に同行していた35名ほどの白虎隊は、戸ノ口原で敗走しました。

そして、その後飯盛山にたどり着き、そこで城下を焼く炎と煙を見て若松城落城と思い込み、16名の隊士たちが集団自決を図るのです。

一方若松城の方でも、新政府軍が攻め込んでくると、戦えない婦女子などは足手まといになるのを恐れ、自害する人が多数いました。

籠城は1ヶ月ほど続きましたが、弾薬や食料が底をつき、新政府軍との協議の結果終わりを迎えます。

この戊辰戦争で亡くなった会津藩士は約3000人、さらに自害した婦女子は233人にのぼりました。このように、会津戦争では、若い子供や婦女子が自ら命を落とすという悲劇が起こってしまいました。

箱館戦争

会津戦争を経て、新撰組を含むまだ戦意を失っていなかった人々は、蝦夷地へと向かいました。そして、旧幕臣の榎本武揚らが蝦夷地五稜郭を占領し、松前を攻め落としたのです。

そこで旧幕府軍は、蝦夷共和国の建国を宣言します。

朝廷の下での北海道の支配を求めたのです。

しかし、それは認められず、結局旧幕府軍と新政府軍は再び戦うこととなり、函館湾での海戦や周辺地域を攻め落とした新政府軍は、榎本武揚に降伏を迫ります。

その結果、1868年5月に榎本武揚は敵の本陣に出向き降伏するのです。

こうして、箱館戦争は終わり、戊辰戦争も終結するのでした。

ちなみに、新撰組副長だった土方歳三も、この箱館戦争の最中に、五稜郭の外で流れ弾に当たって戦死しています。

\土方歳三の最後については、こちらの記事でも詳しく解説しております/

戊辰戦争のその後の影響は?

戊申戦争は、新政府軍の勝利に終わりました。

その結果、日本はどのように変わっていったのでしょうか?

ここでは、戊申戦争のその後の影響を簡単に解説していきます。

外国からの干渉を避けることができた?

戊辰戦争が起きる前、旧幕府軍はフランス、新政府軍はイギリスの支援を受けていました。

そのため、戊辰戦争が長引けば、フランス・イギリスが援助を建前に参戦し、場合によっては日本が植民地となってしまう可能性もあったのです。

江戸城無血開城などにより、戦争が短期間で終わったことで、外国が日本に介入することは避けることができました。

封建制度が終焉し、中央集権国家が樹立されていった?

戊辰戦争の結果、新政府軍に対抗していた旧幕府勢力・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国は解体されました。

そうして、日本全国が新政府によって統一されたのです。

新政府に反対する勢力がいなくなったことで、明治維新が行いやすくなりました。

特に、廃藩置県に象徴されるように封建制度が終焉を迎えたことにより、近代的中央集権国家樹立に至る過程が急速に進むことになったのです。

そして、政治的、社会的秩序が回復し、諸列強に対抗しうる体制が確立されていきました。

まとめ:戊申戦争の結果、日本全国が新政府によって統一されていくこととなった

戊辰戦争は、旧幕府軍と新政府軍による1年以上も続く日本近代史最大の内戦でした。戦いは新政府軍の勝利に終わり、その結果日本全国が新政府によって統一されていくこととなりました。

今回の内容をまとめると、

  • 戊辰戦争は、徳川家を排除したい新政府と、新政府の対応に不満があった旧幕府勢力がぶつかった結果勃発した
  • 戊辰戦争の開戦当初は、戦力差があり旧幕府軍が有利だと思われていた
  • 戊辰戦争では、外国製の武器や技術を取り入れていた新政府軍が戦局を巻き返した
  • 戊辰戦争は、日本全国を転々と移動しながら戦っていき、最期は箱館で終わりを迎えた
  • 戊辰戦争の勝利によって反対勢力がいなくなった新政府によって、日本全国が統一されることとなった

白虎隊の悲劇や、土方歳三の奮闘など、戊辰戦争には数々のドラマが存在しています。

時代を大きく変えた日本近代史最大の内戦は、色々な人がそれぞれの信念のために戦った戦いであったと言えるでしょう。

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