江藤新平の首はさらされた?さらし首の写真は本物?大久保利通が江藤に冷酷な訳は?
江藤新平(1834年(天保5年)〜1874年(明治7年))は、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した政治家です。「三権分立」を推進し、日本の近代司法体制生みの親として「近代日本司法制度の父」と称されています。
そんな江藤新平は、さらし首にされてしまいました。
それはなぜなのでしょうか?
この記事では、江藤新平の首がさらされた理由や、大久保利通の江藤新平に対する態度などを簡単に解説していきます。
目次
江藤新平の首はなぜさらされた?
江藤新平は、さらし首の刑になり、その首はさらされることとなりました。
何故そのようなことになってしまったのでしょうか?
ここでは、江藤新平のさらし首について簡単に解説していきます。
江藤新平は佐賀の乱の首謀者としてさらし首の刑になった?
江藤新平は晩年、征韓論争に敗れて参議を辞職し、明治政府から去ります。
そして、故郷である佐賀に帰るのですが、そこで反政府勢力に推されて挙兵することとなりました。これが佐賀の乱です。
しかし佐賀の乱は、大久保利通率いる政府軍によって鎮圧されてしまい、江藤新平は佐賀の乱の首謀者として捕らえられ、裁判にかけられることになってしまうのです。
このときの裁判長は、河野敏鎌という人物で、実は司法省時代の江藤新平の部下でした。つまり、江藤新平はかつての部下に刑を言い渡されたのです。
江藤新平は、「斬首・梟首」の刑になりました。
この「斬首・梟首」の刑は、首を落とし、見せしめのために吊るすという当時の刑法では最高刑でした。
また、江藤新平の裁判は、一切の弁明も釈明も許されない暗黒裁判でした。
なぜかと言うと、江藤新平の死刑は内務卿であった大久保利通の判断であり、裁判が結審する前にすでに判決が決まっていたからです。
このことから、大久保利通は冷血漢だという評判が立ちました。
江藤新平の首の生写真を大久保利通がばら撒いた?
江藤新平の生首は、一週間も獄門台に晒され、鳥などに突かれていたと言います。
その様子を大久保利通は、カメラマンを派遣して写真に収めました。そして、その生写真をどうしたかと言うと、なんと日本全国に大量にばら撒いたのです。
大久保利通が、この江藤新平の首の生写真をばら撒いたのには、
「政府に逆らうとこのようになるぞ」
という見せしめの狙いがありました。
しかし、この大久保利通の行動が、全国の不平士族の不満をさらに高めることになってしまうのでした。ちなみに、大久保利通は、この生写真を執務室に飾って毎日眺めてニヤニヤしていたという話もありますが、真偽ははっきりとはわかっていません。
江藤新平が首謀者となった佐賀の乱とは?
江藤新平は、佐賀の乱の首謀者としてさらし首の刑になってしまいました。
それでは、その佐賀の乱とはどのような戦いだったのでしょうか?
ここでは、佐賀の乱について簡単に解説していきます。
佐賀の乱とは? いつどこで起きた?
佐賀の乱とは、1874年(明治7年)2月に起こった士族反乱です。
この反乱には、征韓党と憂国党の士族・約1万千人が佐賀県に結集します。
また、征韓党は江藤新平が党首となり、憂国党は島義勇が党首となっていました。
反乱の目的は、「高級官僚の専制体制の打破」でした。
江藤新平らは、民権が実現されるためには国権が全うされないといけないのに、岩倉具視や大久保利通といった高級官僚がいると国権が損なわれると考えたのです。
しかし、この内乱は、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し、早急に鎮圧のための兵を進めたので、反乱軍は予定していた援軍(高知、熊本、中津など)が得られませんでした。その結果、たったの2週間で鎮定されてしまいます。
党首であった江藤新平と島義勇の2人は、さらし首の刑を受け、ほかにも約400人が処罰されました。
江藤新平は西郷隆盛に助けを求めたが断られた?
江藤新平は、大久保利通ら政府軍に負けると、党を解散し、鹿児島へと向かいした。
西郷隆盛に助けを求めに行ったのです。
西郷隆盛に協力してもらうことで、再起を図ろうとしたわけですね。
しかし、温泉で湯治中の西郷隆盛は、江藤新平の求めに応じることはせず、
「君を助けない」
と言い放ちます。
西郷隆盛は、
「部下を見捨てて自分のところに来るなど、武士の風上にも置けない」
と考えたようです。
西郷隆盛に断られた江藤新平は、それでもまだ協力者を探して、今度は高知県へ向かい、林有造・片岡健吉らに武装蜂起を説きますが、いずれも容れられませんでした。
そして、誰からも支援を得られなかった江藤新平は、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みます。
しかし、それは叶わず、高知でそのまま捕縛されてしまうのです。
なぜ高知で捕まってしまったのかと言うと、それは手配写真が高知まですでに出回っていたためでした。
この写真手配制度は、江藤新平自身が1872年(明治5年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤自身が被適用者第1号となってしまいました。
江藤新平に対して大久保利通は冷酷だった?
江藤新平はかつては大久保利通とともに政府を動かしていました。
しかし、その同志であった江藤新平のことを、大久保利通はとても冷酷に対応したのです。
なぜ大久保利通はそのような態度をとっていたのでしょうか?
ここでは、江藤新平に対する大久保利通の態度について簡単に解説していきます。
江藤新平のことを大久保利通は「笑止」であるとした?
江藤新平の死刑を決定したのは、大久保利通だったと言われています。
また、江藤新平の裁判での様子を見て、
「江藤の醜態は笑止である」
「江藤の陳述は曖昧で笑止千万である」
などと日記に記していたようです。
大久保利通は、江藤新平が戦場から逃亡したことに呆れていたのです。
「実に一人の男子もいないではないか!」
と喝破し、残された兵士たちに対しては
「扇動された愚かな民衆には憐憫せざるをえない」
と同情したと言われています。
また、
「江藤は申すまでもなく、島義勇ら主だった者は逃げ去った」
として、江藤新平とともに、島義勇もこき下ろしています。
江藤新平に冷酷だったのは西郷隆盛への牽制だった?
大久保利通が江藤新平に対して冷酷だったのは、もちろん部下を見捨てて逃亡したということもあるでしょう。
しかし、それ以外にも、大久保利通には懸念していたことがありました。
それは、西郷隆盛の存在です。
明治政府から下野した西郷隆盛に反乱への動きがないことは、大久保利通は常に情報をキャッチし把握していました。しかしながら、西郷隆盛は全国的に人気があり、いつ反乱のリーダーとして担ぎ上げられるかわかりません。
そのため、政府に歯向かった江藤新平を徹底的に潰すことによって、西郷隆盛への牽制を行ったのです。
まとめ:江藤新平は佐賀の乱の首謀者としてさらし首の刑となった
江藤新平は、佐賀の乱の首謀者として反乱を起こしましたが、「斬首・梟首」という当時の刑法の最高刑になってしまいました。そして、その晒された首の生写真は、大久保利通によって全国へとばらまかれました。
今回の内容をまとめると、
- 江藤新平は首謀者として佐賀の乱を起こした
- 佐賀の乱は大久保利通の素早い対応により約2週間で終結した
- 江藤新平は、西郷隆盛らに助けを求めたが、誰からも相手にされなかった
- 江藤新平は、高知で捕縛され、佐賀にて裁判にかけられ「斬首・梟首」となった
- 江藤新平のさらし首の生写真は、大久保利通によって全国にばらまかれた
江藤新平は、本当は佐賀の乱の首謀者になる気はなかったという話もあります。
それなのに、西郷隆盛への見せしめに使われてしまったとなっては、少しかわいそうな気もしますね。