平安時代の人物一覧!天皇や貴族、武士や文化人など、エピソードとあわせて解説!
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代では、どのような人物たちが活躍していたのでしょうか?
この記事では、平安時代に活躍していた人物を簡単に解説していきます。
目次
平安時代はどんな人物が活躍していた?
平安時代というと、雅で優雅な貴族たちが活躍していた時代だとイメージする人が多いかもしれませんが、実際はどうだったのでしょうか?
ここでは、平安時代に活躍した人物の特徴を簡単に解説していきます。
平安時代の政治の中心は貴族から武士へと移っていった?
奈良時代から貴族たちは少しずつ権力を強めていましたが、平安時代に入ると、より一層その力を増していきました。その中でも特に強い権力を持っていたのが、藤原氏です。
藤原氏は、自身の子孫を天皇にすることによって、圧倒的な権力を手に入れていきます。(摂関政治)
藤原氏の摂関政治の全盛期を極めた藤原道長は、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
という歌を詠んでいます。
これを現代語訳すると、
「この世は私のためにある世界だと思う。この満月のように欠けたところは何一つなく、すべて自分の意のままに満足すべきものである」
という意味になります。
つまり、この世は自分のためにあると公言しているわけです。
いかに平安時代の藤原氏の力が強かったのかを十分に表している歌ですね。
しかし、その貴族たちも、院政などが行われることにより、次第に政治の中心から遠ざかっていくこととなります。
そんな貴族の代わりに台頭してきたのが武士です。
武士は最初、各地の治安を守るために豪族などから保護を受けた存在でした。
そして、色々な争いを治めているうちに、天皇に認められ、権力を手にしていったのです。
中でも、平清盛は太政大臣に任命されており、強い政治力を持ちました。この平清盛が武家政権の始まりと言われています。
以上のように、平安時代は、政治の中心が貴族から武士へと移り変わっていく時期であったと言えるでしょう。
平安時代は国風文化が栄えたことにより様々な作品が生まれた?
平安時代を代表する文化として、国風文化が挙げられます。
国風文化では、唐文化を消化・吸収した上で、元々の日本的な文化と融合した、日本独自の文化が形成されていきました。
そして、そんな国風文化を最も象徴するといっても過言ではないものが「仮名」の発達でした。
当時、漢字のことを「真名」と呼んでおり、それに対して、漢字の一部を省略したり、形を崩したりして新たに作った文字のことを「仮名」と呼んでいました。
この仮名の普及によって、漢文では表現できなかった細やかな感情を日本の言葉で伝えられるようになったため、様々な文学作品が生まれるようになったのです。
平安時代の人物|天皇・貴族編
平安時代の前半、政治の中心にいたのは、貴族たちでした。
誰がどのような活躍をしていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の天皇や貴族で活躍していた人物を簡単に解説していきます。
藤原道長
藤原道長(966年(康保3年)〜1028年(万寿4年))は、藤原兼家の五男として誕生します。
五男なので、本来であれば家を継ぐようなことはない立ち位置だったのですが、兄たちが次々に亡くなってしまったため、台頭することになりました。
藤原道長は、自身の娘を天皇のきさきにして、その子を天皇にすることにより権力を握りました。(摂関政治)
摂関政治の全盛期を迎えた藤原道長は、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
という歌を詠んでいます。
それほどまでに、当時の藤原道長の権力は強大なものでした。
ちなみに晩年は出家し、法成寺を建立したことでも知られています。
\ 藤原道長に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
菅原道真
菅原道真(845年(承和12年)〜903年(延喜3年))は、菅原是善の三男として誕生します。
幼少期より非常に学問に優れており、成長してからは朝廷にて重要な役職に就くことになります。
菅原道真があまりにも優秀過ぎたため、権力を独占したい勢力が菅原道真を政治から遠ざけるために、遣唐使の大使として唐に送ろうとしました。
しかし、菅原道真は唐の勢力が弱まっていることを理由に、遣唐使の廃止を進言します。これにより、遣唐使は廃止され、菅原道真が唐に行くこともなくなりました。
その後、右大臣まで出世することになるのですが、やはり権力を独占したい勢力からしたら面白くありません。
その勢力の陰謀により、菅原道真は大宰府(現在の福岡県にあった九州を治めていた役所)に左遷され、そのまま大宰府の地で亡くなってしまうのです。
後世にて、天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神様「天神さま」として親しまれています。
\ 菅原道真に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
桓武天皇
桓武天皇(737年(天平9年)〜806年(延暦25年))は、光仁天皇の長男として生まれた、第50代天皇です。
奈良時代の仏教政治の腐敗を取り除くことを目的として、平城京から長岡京を経て、794年に平安京に遷都しました。そして、僧侶の不法を取り締まり、最澄や空海の説く新仏教を厚く保護したのです。
これら全ては、律令政治再建のためでした。
また、坂上田村麻呂を起用して、3回にわたって奥羽の蝦夷平定を行いました。
これにより、東北地方までも中央政府の支配下に置くことに成功したのです。
平安時代の始まりと言っても過言ではない人物ですね。
後白河法皇
後白河法皇(1127年(大治2年)〜1192年(建久3年))は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた、第77代天皇です。
保元の乱によって、崇徳上皇を排除した後、わずか3年という短い天皇在位期間を経て、30余年にわたる長い院政を行いました。
後白河上皇は後に出家して、後白河法皇となり、法皇となった後も院政を続けていましたが、台頭してきた武士勢力に破れ、院政は停止されてしまいました。
院政が終わり、政治の主権が武士へと移行していくきっかけとなった天皇だと言えるでしょう。
\ 後白河法皇に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
平安時代の人物|武士編
平安時代の後半で政治の中心にいたのは、武士でした。
それでは、誰がどのような活躍をしていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の武士で活躍していた人物を簡単に解説していきます。
平清盛
平清盛(1118年(永久6年)〜1181年(治承5年))は、平忠盛の嫡男として生まれます。
平家の武士として、保元の乱(1156)と平治の乱(1160)に参戦し、勝利を治めます。
その結果、武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、政治権力の中枢を握りました。
これが武士政権の祖だと言われています。
祖父・平正盛が築いた権力基盤による武力と、娘の徳子を天皇に嫁がせ、天皇の外祖父となることにより得た朝廷の権威のおかげで、日本全土を収めるほどの権力を手に入れることに成功しました。
\ 平清盛に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
源頼朝
源頼朝(1147年(久安3年)〜1199年(建久10年))は、源義朝の三男として生まれます。
源平争乱において、源氏川の棟梁(リーダー)を務めました。関東地方(鎌倉)から弟の源義経らに指示を送って、平家を打倒することに成功するのです。ちなみに、この際源頼朝自身は、戦には出向いていません。
その後、弟・源義経と対立した結果、奥州藤原氏も共に滅ぼし、全国の武士を支配することに成功します。そして、1192年には征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。
これが本格的な武家政権の最初だと言われています。
源頼朝は、大局を見誤らずに、朝廷との安定した関係を築きながら、配下の者への配慮も忘れない優れた政治手腕を発揮していきました。
\ 源頼朝に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
源義経
源義経(1159年(平治元年)〜1189(文治5年))は、源義朝の九男として生まれます。源頼朝の異母兄弟にあたります。
源平争乱において、兄・源頼朝と共に参戦し、「一ノ谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」にて源氏軍を勝利に導いた稀代の戦術家として知られています。
しかし、その後源頼朝と対立することになってしまい、奥州藤原氏の平泉まで逃走するのですが、藤原泰衡の裏切りにより、30歳という若さで自害に追い詰められてしまいました。
\ 源義経に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
平将門
平将門(903年(延喜3年)〜940年(天慶3年))は、平良将の子として生まれます。
武士ながらも桓武天皇の血筋を引く高貴な人物です。
平将門は、下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込む争いへと進みます。そして、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して、「新皇」を自称しました。
このことから、東国の独立を標榜したとされ、朝敵となったのです。
しかし、即位後わずか2ヶ月足らずで、藤原秀郷や平貞盛らに討伐されてしまいます。
そして、死後は怨霊となり、日本三大怨霊の1人として知られるようになりました。
平安時代の人物|文化人編
平安時代は、国風文化の発展により、非常に数々の名作品が生まれることとなりました。どのような人たちがその作品を生み出したのでしょうか?ここでは、平安時代の文化人で活躍していた人物を簡単に解説していきます。
紫式部
紫式部(生没年不詳)は、藤原為時の娘として生まれます。
幼少期は、歌集や漢詩、歴史書などを読み込み、文学的才能を育むこととなりました。
そして、20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、3年ほどで死別することになってしまいます。その悲しみを紛らわすように『源氏物語』を書き始めました。
その『源氏物語』が宮中で評判となったことにより、その文才に目をつけた藤原道長にスカウトされ、中宮・彰子の家庭教師になります。
生没年については、正確な記録が残っておらず判明していません。
代表作品には、『源氏物語』や『紫式部日記』などがあり、清少納言同様平安文学を代表する作品となっています。
\ 紫式部に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
清少納言
清少納言(966年(康保3年)〜1025年(万寿2年))は、清原元輔の娘として生まれました。
父や祖父が有名な歌人だったので、和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれており、幼少期から文学的才能を育んでいました。
そして、その才を買われて、中宮・定子の家庭教師として宮中仕えすることになります。
定子は清少納言のことを気に入り寵遇しました。そんな定子に、清少納言も惚れ込みました。
その後、60歳近くまで生きたと言われていますが、死因ははっきりとわかっていません。
代表作品には、『枕草子』があります。宮中での生活などを書いた作品であり、平安文学を代表する作品となっています。
\ 清少納言に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
紀貫之
紀貫之(866年(貞観8年)〜945年(天慶8年))は、平安時代前期から中期にかけて活躍した歌人です。和歌や漢詩の教養を身につけており、三十六歌仙の1人にも選ばれています。
中でも、醍醐天皇の命によって作られることになった、日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』の選者に選ばれたり、『土佐日記』を書いたりしたことが有名です。
さらに、紀貫之は『古今和歌集仮名序』という序文を執筆し、その後の日本文学に大きな影響を与えることになりました。
生前は、出世することもなかった紀貫之ですが、なんと明治時代になってから、その歌人としての偉大な功績が認められ、従二位が贈られるということもありました。
小野道風
小野道風(894年(寛平6年)〜967年(康保3年))は、平安時代前期から中期にかけて活躍した能書家です。
小野道風は、それまでの中国的な書風から脱皮して、和様書道の基礎を築き上げました。
そのため、日本書道史上、非常に重要な地位に置かれているのです。
また、小野道風は、藤原佐理や藤原行成とともに、三蹟に選ばれています。
まとめ:平安時代では貴族や武士など様々な人物が活躍していた
平安時代は、政治の中心が貴族・天皇から武士へと移っていったり、国風文化の発展により様々な作品が生まれたりしたことにより、様々な層の人物が活躍していました。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代の人物は、貴族や天皇だけでなく、武士も台頭してきた
- 平安時代は、国風文化の発展により、多くの文化人が様々な文学作品などを生み出した
- 平安時代は様々な層の人物が活躍していた
平安時代というと、優雅で雅な貴族中心のイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、実際は様々な層の人物が活躍していました。時代の過渡期であるからこそ、様々な層の人物が活躍することになったのかもしれませんね。