鎌倉幕府はどんな仕組みだった?政治の体制や特徴、滅亡した理由を簡単に解説!
鎌倉幕府とは、源頼朝(1147~1199)が創始した武家政権です。
鎌倉幕府が存在した約150年間を鎌倉時代と呼ぶのですが、その一時代を築いた鎌倉幕府とはどのような仕組みだったのでしょうか?
今回は鎌倉幕府の仕組み(政治の体制や特徴)、なぜ滅亡したのかその理由を簡単に解説していきます。
また、後世に出てくる武家政権である室町幕府や江戸幕府にも影響を与えたのでしょうか?
そこにも注目しながらみていきましょう。
目次
鎌倉幕府とはどんな幕府?その特徴は?
鎌倉幕府とは源頼朝がひらいた日本初の武家政権だと言われています。
そもそも武家政権とはどのような政権のことを言うのでしょうか?
まずは、その特徴を抑えつつ、源頼朝が鎌倉幕府をひらいた経緯もみていきましょう。
鎌倉幕府は、源頼朝がひらいた日本初の武家政権
鎌倉幕府は、源頼朝がひらいた日本初の武家政権だと言われています。
武家政権とは、簡単に言うと武家の棟梁(武家の統率者のこと)を長として、地方社会を実効支配する武士層をまとめあげた中央政権のことを指します。
これは、平安時代末期の平清盛(1118~1181)からはじまり、江戸時代最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)が大政奉還を行うまでの約700年間続きます。
鎌倉幕府が日本初の武家政権のはずなのに、何故平清盛から始まるのかと疑問に思った人もいるかもしれません。
平清盛は、政治システムの中に武家出身者を加えることに成功しましたが、あくまで既存の貴族社会に依存する形でしか成立させることができませんでした。
独自の武士階級としての権力や組織を持たなかったことから武家政権とは言わないとする人もいるのです。
しかし、確かにここが武家政権が始まるきっかけであったとは言えるでしょう。
その点、鎌倉幕府は武家独自の統治機構や政権の枠組みが成立していて、守護(国ごとの武士の責任者)や地頭(荘園ごとに租税徴収と軍役を行う武士の責任者)を用いて全国規模の統治を行っていました。
そのため、実質日本初の全国統一した武家政権であると言えます。
源頼朝が鎌倉幕府をひらいた経緯を簡単に解説
近年は鎌倉幕府の成立年を覚える語呂合わせは、「1185(イイハコ)作ろう 鎌倉幕府」となっています。
しかし、以前は「1192(イイクニ)作ろう 鎌倉幕府」と覚えていました。
何故そのような年代の違いが出てきてしまったのでしょうか?
それは源頼朝によって、鎌倉幕府が開かれた経緯に理由があります。
源頼朝は1183年に寿永二年十月宣旨によって、東国における荘園・公領からの供物や年貢納入を保証され、さらに東国支配を朝廷から公認されます。
そして1185年に文治の勅許により、源頼朝は与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可されました。
これにより、源頼朝は全国的に支配を拡大することができたのです。
近年の学説では、ここを鎌倉幕府の成立とするものが有力になっています。
また1192年には、源頼朝に征夷大将軍の宣下がなされました。
以前は征夷大将軍に任命される=幕府をひらくというイメージが強かったので、征夷大将軍に任命されたこの年を「1192作ろう鎌倉幕府」として、鎌倉幕府の成立年となっていました。
しかし、征夷大将軍はあくまで役職の1つでしかなく、征夷大将軍の役職に就いても幕府をひらかなかった人は数多くいます。そのため、役職という形を成立年として見るのではなく、実質的な幕府の機能をスタートし始めた年を成立年としようと考えるようになったと言われています。
源頼朝に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
>>源頼朝の年表を中学生にもわかるように簡単に解説!一体どんな人物だったのか?>>
>>源頼朝が征夷大将軍にこだわった理由は?いつ、どのような経緯で任命されたのか?>>
鎌倉幕府の仕組み
武家政権であった鎌倉幕府ですが、その仕組とはどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、鎌倉幕府がどのように全国各地を統治していたのかを解説していきます。
鎌倉幕府の仕組み|征夷大将軍はお飾りで執権が政治を行った
鎌倉幕府は約150年間続きましたが、その途中で政治の仕組みが大きく変化しました。
前半は将軍の独裁政治。後半は、執権(将軍の補佐役)政治となります。
鎌倉幕府の設立当初は、鎌倉幕府の創設者 初代将軍の源頼朝による独裁政治が行われていました。
しかし、頼朝の死後は、二代目将軍 源頼家(1182~1204)のもと、有力御家人(将軍と主従関係を結び従者となった武士たち)による話し合いで決める合議制へと変化していきます。
その中で頼家の外祖父である北条時政(1138~1215)が実権を握るようになります。
そこから、北条氏が代々執権の職について幕府を支配する執権政治が始まりました。
そして、三代目将軍 源実朝(1192~1219)で源頼朝の直系が断絶すると、貴族や皇族から名ばかりの将軍を迎え北条氏が完全な実力者となります。
つまり、執権政治の期間は、征夷大将軍はお飾りで執権が政治を行っていました。
鎌倉時代後期になると、得宗と呼ばれる北条氏の家督を継いだ嫡流の人たちが独断で物事を決める専制体制になりました。(得宗専制政治)
このように鎌倉幕府では、最初は力を持っていた征夷大将軍でしたが、後半になるにつれて、ただのお飾りでしかなくなっていってしまったのです。
鎌倉幕府の仕組み|中央の政治を行っていた機関
それでは、鎌倉幕府にはどのような機関が存在していたのでしょうか?
まず、頂点に将軍がいます。
そして、それを補佐するのが執権。さらにその執権を補佐するのが連署であり、幕府の意志政策決定を合議する評定衆というものもありました。
他にも、御家人を統率する侍所、政務・財政を行う政所、裁判を担当する問注所が設置されていました。
鎌倉幕府の仕組み|京都の六波羅探題は何をする機関?
鎌倉幕府の機関として、六波羅探題というものがあります。
これが設置されたきっかけは、後鳥羽上皇(1180~1239)が倒幕をしようとした1221年(承久3年)の承久の乱です。
承久の乱は幕府の勝利に終わり、敗北した後鳥羽上皇は隠岐島に配流となりました。
鎌倉幕府は二度と同じことが起きないようにと、朝廷の監視をするために六波羅探題を設置したのです。
鎌倉幕府の仕組み|地方はどのようにして治めていた?
鎌倉幕府は文字通り鎌倉(現在の神奈川県)にあります。
朝廷は京都にありますし、全国となるとかなりの広範囲です。地方はどのようにして治めていたのでしょうか?
源頼朝は鎌倉幕府を開いた際、守護・地頭を設置し、地方を治めていました。
守護は国ごとに配置された地方長官で軍事や警察として機能しており、地頭は荘園ごとに配置され年貢の徴収や治安維持などを担当していました。
これにより鎌倉幕府は地方を支配下においていました。
しかし、各土地には朝廷が命じた国司や土地を管理する荘官もいたため、朝廷と幕府の二元支配となってしまい、しばしば争いが起こっていました。
室町幕府にの仕組みに関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。
>>室町幕府とはいったいどんな幕府だったのか?その仕組みや特徴を簡単に解説!>>
>>足利尊氏が室町幕府をひらいた場所はどこ?室町幕府の場所と経緯を徹底解説!>>
鎌倉幕府の特徴を簡単に解説!
鎌倉幕府を知る上で欠かせないポイントがあります。
御恩と奉公、執権政治、御成敗式目がそれに当たります。
この鎌倉幕府の特徴とも言える大切なポイントを解説していきます。
御恩と奉公の封建制度で絆を強くした
鎌倉幕府の特徴として最も代表的と言えるのが、御家人制度です。
この御家人制度は、幕府の頂点に立つ将軍とその家来である御家人との間に取り決められた、ギブアンドテイクのような約束で、この両者の関係は御恩と奉公と呼ばれています。
当時の御家人の主な収入源は、自分の所領から上がってくる税金です。
その肝心の土地は将軍から与えられるもの「新恩給与」であり、そして権利を守られるもの「所領安堵」でした。「土地を与えたり守ったりする代わりに、その分幕府のために働いてね」
というのが御恩と奉公の関係です。
この関係があったおかげで、幕府と御家人たちは強く結ばれていました。
そして、御家人たちは将軍のもとで土地を統治していったのです。これが封建制度と呼ばれていたものでした。
執権が政治を行う北条氏による「執権政治」
次に挙げられる特徴としては、執権政治が挙げられます。
執権とは将軍の補佐をする役職のことを指します。源氏将軍が断絶してしまった後、北条氏が執権として力を持ち始めたことにより執権政治は始まりました。
執権政治の際は、貴族や皇族から名ばかりの将軍を迎え入れていたので、お飾りのような将軍は力を持たなかったのです。その代わりに北条氏が執権として実権を握っていました。
そして、その執権政治を前提として、権力が得宗家(北条氏の家督を継ぐ嫡流のこと)に集中した結果、得宗を中心に政治が運営されるようになります。
これを得宗専制政治といいます。
得宗の家人である御内人(みうちびと)の勢力が強まり、御家人の要求は見捨てられがちになってしまいました。
そうして、御家人の不満は溜まっていきました。
執権政治と得宗専制政治の違いは、
執権政治が「御家人みんなで物事を決めましょう」というものであったのに対し、
得宗専制政治は「北条氏周辺の人たちだけで権力を独占しよう」というものになってしまっていたことでしょう。
御成敗式目で武士のあるべき姿を明確にした
もう一つ鎌倉幕府の特徴として挙げられるのが、「御成敗式目」です。
(別名:貞永式目)
これは、源頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武家社会での習慣や道徳を元に制定された、武家政権のための法令です。つまり簡単に言うと、武士のあるべき姿が書かれている法律のようなものでした。
制定したのは、当時の執権 北条泰時(1183~1242)です。
はじめは35条まで作られていましたが、そのあとに付け加えられ全51箇条となりました。
この御成敗式目は、各国の守護を通して全ての地頭に配布され、全ての御家人がその内容をよく知っていたと言われています。
御成敗式目には、
- 神社・仏閣は大事にしようということ
- 守護・地頭の権限について(特に守護の3つの権限は大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)と呼ばれる)
- 所領に関する裁判の大前提について
- 罪を犯した場合の対処法について
- 遺産相続について
など、基本的な事項が書かれており、この御成敗式目によって定められたものは、この後室町・戦国・江戸と長く武士の法律の手本として参考されることになるのです。
鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか?
鎌倉幕府は約150年間続きました。
何故鎌倉幕府は滅亡したのでしょうか?鎌倉幕府の滅亡の原因は、海外からの攻撃や天皇による倒幕計画が重なったことが挙げられます。
鎌倉幕府滅亡のきっかけは元寇
鎌倉幕府が滅亡に進み始めたきっかけは元寇でした。
元寇とは、1274年と1281年の二度に渡って、モンゴル帝国と中国大陸を支配するフビライ・ハン(1215~1294)率いる元が日本に侵攻してきた出来事です。一度目を文永の役、二度目を弘安の役と呼び、総称して元寇、もしくは蒙古襲来といいます。
これが何故、幕府崩壊のきっかけになったかと言うと、御恩と奉公のシステムが大きく関係しています。
御家人は幕府に尽くす代わりに、新しい領地をもらうことで関係が成り立っていました。
しかし元寇では、海外からの侵略を防ぐ戦いだったため、新しい土地が手に入ったわけではなく、活躍した御家人に御恩を渡すことができなかったのです。
さらに追い打ちをかけるように、貨幣経済の浸透や分割相続もあり、どんどん経済的に御家人たちは苦しくなっていきます。
幕府は1297年(永仁5年)に借金を帳消しにする徳政令を出しますが、あまり効果はありませんでした。
そして、逆に幕府への不満は高まってしまい、倒幕の原動力へとなっていってしまったのです。
後醍醐天皇が武士たちを倒幕へと向かわせた
元寇などによって幕府への不満が高まっている中、後醍醐天皇が倒幕へと動きます。
後醍醐天皇の倒幕計画は多くの御家人が参加しましたが、実行する前に幕府にバレてしまうということが二度も続きます。そのせいで、後醍醐天皇は一度隠岐に流されてしまいました。
しかし、諦めきれない後醍醐天皇は隠岐から脱出し、もう一度倒幕しようと動きます。
すると、幕府側についていたはずの足利尊氏(1305~1358)が幕府を裏切って倒幕側についたのです。
足利尊氏が攻め、京都の六波羅探題が落とされてしまいます。
その後、最終的には倒幕派の新田義貞(1301~1338)が北条氏がいる鎌倉に攻め入ったことにより、鎌倉幕府は滅亡することになるのです。
このように、幕府への不満が各地で蔓延した結果、鎌倉幕府は滅亡してしまったのです。
室町幕府がひらかれた経緯に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。
>>室町幕府とはいったいどんな幕府だったのか?その仕組みや特徴を簡単に解説!>>
>>足利尊氏が室町幕府をひらいた場所はどこ?室町幕府の場所と経緯を徹底解説!>>
まとめ:鎌倉幕府の仕組みは、室町幕府や江戸幕府の政治の基盤となるほど優れた仕組みだったが、元寇がきっかけとなり滅亡した
鎌倉幕府は日本初の武家政権で、仕組みとしてはとても優れていたことがわかりましたね。
しかし、海外からの侵略という予想外の攻撃を防いだ武士たちに、褒美を渡せなかったことが痛手となってしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 鎌倉幕府は源頼朝がひらいた日本初の武家政権であった
- 鎌倉幕府がひらかれた年には諸説あるが、現在では1185年が有力となっている
- 鎌倉幕府は、前半は将軍による政治が行われていたが、後半は執権政治へと移行した
- 御成敗式目を定め、武士のあるべき姿を明確にした
- 鎌倉幕府は、元寇と後醍醐天皇の倒幕計画によって、御家人たちの心が離れていってしまい滅亡した
それまで貴族が行ってきた政治を、武士が行い、そして成功させるということは並大抵のことではないと思います。しかし、それで約150年もの間統治し続けたのですから、本当に鎌倉幕府の制度は優れたものだったのでしょうね。