足利尊氏が室町幕府をひらいた場所はどこ?室町幕府の場所と経緯を徹底解説!

足利尊氏が室町幕府をひらいた場所はどこ?

スポンサーリンク

室町幕府をひらいたのは足利尊氏あしかがたかうじ。歴史の授業で習ったので覚えてる方は多いと思います。しかし、どこに幕府をひらいたのか?どんな経緯でひらいたのか?をなかなか思い出せない方は多いと思います。
今回は、足利尊氏は室町幕府をどこにひらいたのか?どのような経緯で開いたのかを解説していきます。

足利尊氏は室町幕府をどこにひらいたのか?

室町幕府はどこ?と言われても、パッと思いつくのは「室町。。。」っという方も多いのではないでしょうか?
実は、足利尊氏がはじめに幕府をひらいた場所は室町ではありません。
足利尊氏が幕府をひらいた時、尊氏は室町に住んでいませんでした。
尊氏が住んでいたのは京都、二条高倉小路の付近に住んでいたんです。
えっ室町幕府なのに?
そうです、もちろん「室町幕府」という名前でもありませんでした
足利尊氏が「これからは室町幕府の時代じゃー」なんてことも言っていません。足利尊氏が鎌倉ではなく、京都に幕府をひらいた理由はいくつか考えられます。

  1. 南朝をひらき対立していた後醍醐天皇の活動を監視し、抑止力を与えるため
  2. 幕府(北朝)を正統なものとするには、天皇のいる京都にいた方が都合よかった
  3. 京都に幕府ひらいたので、そのまま定着した

足利尊氏が幕府をひらいたとされる1336年、後醍醐天皇が率いる南朝と、足利尊氏が率いる北朝は、南北朝の争いの真っ只中です。
鎌倉幕府を倒そうと倒幕計画を立て、それがバレて島流しにあい、それでも負けじと復活して鎌倉幕府の倒幕を行った、いわば不屈の後醍醐天皇です。

そんな勢いのある後醍醐天皇を監視し、活動を抑止する意味合いもあったのでしょう。

また、尊氏が立てた光明天皇は京都にいますから、近くにいて天皇を擁護するという意味でも京都に幕府をひらいたとも言えます。
実際、鎌倉に幕府を置くか?京都にするか?と意見は別れたという記録もありますから、どこに幕府をひらくかは悩んだのではないでしょうか?
結果、京都に幕府をひらき、鎌倉府という形で関東を管理するかたちをとることで落ち着きました。

室町幕府と呼ばれるようになったのはいつから?

足利尊氏は、京都に幕府をひらきましたが、
「今日からこの幕府は室町幕府じゃー」なんて言っていたわけではありません。
室町幕府という呼び名は、3代将軍 足利義満の代から呼ばれるようになったと推測されます。
3代将軍 足利義満あしかがよしみつは、室町通に面する場所に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を建てました。その花の御所を中心に、政治を行うようになったことから「室町殿」「室町第」と呼ばれるようになり、室町幕府と呼ばれるようになりました。
足利義満は、日明貿易金閣寺の建立で有名ですが、実は室町幕府という名前の由来にも深く関わっていたんです。

足利尊氏が室町幕府をひらいた経緯

足利尊氏が1336年に光明天皇をたて北朝を設立し、建武式目を制定したことが室町幕府の始まりと言われています。
当然のことながら、その前の幕府(鎌倉幕府)は突然滅びたわけではありません。
ここでは、鎌倉幕府の滅亡から足利尊氏が室町幕府をひらくまでの経緯を解説します。

鎌倉幕府の衰退は、元寇からはじまった

・1274年・1281年元寇
1274年と1281年にモンゴル帝国が日本に攻めてきました。
当時最強と呼ばれ東はヨーロッパ付近まで支配していたモンゴル定刻です。
鎌倉武士は徹底抗戦しますが、てつはうという(手榴弾みたいな武器)など新しい武器で攻撃してきましたので、非常に苦戦を強いられたといいます。
しかし、鎌倉武士の奮闘と神風(台風)のおかげで侵略を防ぐことができました。
ご存知の通り日本は島国で、隣接している国はありません。
そのため、海を越えて侵略してきた敵に対して非常に戸惑ったことでしょう。
今までは、日本の中で領地を拡大したいといういわば内戦。敵を倒せばその領地を支配し、領地が増えるともちろん収入も増える、といった構造でした。
しかし、元寇は外敵から侵略を防ぐといういわば防衛戦です。
防衛には成功しましたが、領地は増えません。なので褒美をもらうことはできなかったのです。
てつはうをくらい、命がけで戦ったのに褒美がない。。。
そうして鎌倉武士たちの士気は下り、次第に幕府に対する信頼も下がっていきました。

後醍醐天皇の倒幕計画、そして建武の新政。

当たり前ですが天皇は一人です。
しかし、日本では天皇が二人いた時期があります。
1336年から1392年までの57年間、南北朝時代と呼ばれています。
ことの発端は、後醍醐天皇ごだいごてんのうです。
鎌倉時代、当時の朝廷は「持明院統じみょういんとう」と「大覚寺統だいかくじとう」の二つの系統に別れていました。
この系統の争いに、鎌倉幕府が介入し両系統から交互に天皇に即位することを提案(両統迭立りょうとうてつりつ)し、和解を提案。
そして、大覚寺統から後醍醐天皇が即位しますが、両統は和解することができず対立は解消されませんでした。
幕府が朝廷に介入してきたことを快く思わなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すための倒幕計画を立てます。
1324年正中の変しょうちゅうのへん、1331年元弘の変げんこうのへん、と2度の倒幕計画は、どちらも幕府へ密告され失敗に終わります。
元弘の変で、隠岐島おきのしま(現在の島根県)に島流しにあった後醍醐天皇。しかし、1332年に脱出し挙兵、再び倒幕を計画します。

この時、足利尊氏や新田義貞、楠木正成が後醍醐天皇に味方します。

足利尊氏は、京都にある幕府の機関「六波羅探題ろくはらたんだい」を攻め落とします。

そして、新田義貞が鎌倉を攻め落とし鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇は幕府にとって変わり、自ら政治に乗り出します。
1333年建武の新政です。
しかし、この建武の新政は公家を中心とした政権です。倒幕で活躍した武士たちへの褒美も少なく、武士たちの不満は募る一方。

そんな武士たちの不満を受け、挙兵したのが足利尊氏です。
もともと、後醍醐天皇と共に倒幕に一役買った足利尊氏は、後醍醐天皇の反対勢力となり、南北朝の争いが本格化していくのです。

こうして足利尊氏は室町幕府をひらいた

楠木正成像(Wikipediaより)

1335年中先代の乱なかせんだいのらん(北条時行が鎌倉幕府を再興しようと起こした)がおこりました。
足利尊氏はこの乱を鎮めるために鎌倉に向かいます。
この乱を鎮めたあと、尊氏に政権は京都へ戻るよう命令します。
しかし、尊氏はこの政権の命令を拒否しました。
尊氏は政権の命に背いたということで、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞にったよしさだ楠木正成くすのきまさしげらと戦いを繰り広げることとなりました。
一時は劣勢に追い込まれ、九州まで逃げ延びた尊氏ですが、九州の兵士たちと再び挙兵し湊川の戦いみなとがわのたたかいで、新田義貞・楠木正成を敗ると、京都を占拠し持明院等の光明天皇を擁立します。

そうして足利尊氏は1336年に建武式目けんむしきもく制定し、征夷大将軍になり室町幕府を開きました。
足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は京都から脱出し、吉野(現在の奈良県)に逃れます。
しかし、自身の皇位の正統性を主張し南朝を成立させます。
こうして、天皇が二人いる南北朝時代とともに室町幕府の時代は始まったのです。
この天皇が二人いる状態は約60年続くこととなります。

なぜ足利尊氏は室町幕府の場所を京都にしたのか?

足利尊氏は、鎌倉幕府の御家人だった足利貞氏あしかがさだうじの次男として生まれています。足利家は、源頼朝と同じ河内出身で、頼朝の時代からの幕府に仕え、執権だった北条家の血縁者から妻を迎えていました。
足利尊氏は、エリート中のエリートなんです。
そんな鎌倉幕府に縁のある足利尊氏は、なぜ京都に幕府を開いたのでしょうか?
鎌倉に幕府をひらいてもいいのではないかという意見もあったそうです。

しかし、足利尊氏が幕府をひらいた当時は、後醍醐天皇率いる南朝との争いが激化し始めたばかりです。尊氏は光明天皇をたて北朝を成立させて幕府をひらいていますから、後醍醐天皇(南朝)から天皇家を守る必要があったのです。
2度も倒幕に失敗し、島流しにあってもなお復活して倒幕に燃えた後醍醐天皇ですから、近くで監視し、光明天皇を擁護する必要があったんですね。
鎌倉に幕府をひらいたとしたら、後醍醐天皇(南朝)が攻めてきた時にすぐに対応できませんから。実際に、南朝の勢力が一時的に京都を奪還し、北朝の天皇や上皇が拉致されるという事件も起こっていますから。

尊氏はいつ敵が攻めてきても対応できるように、京都に幕府をおき、鎌倉には鎌倉府という幕府の出張所を配置することでバランスをとったのです。

まとめ:足利尊氏は室町幕府を京都にひらいた

今回は、足利尊氏が幕府をひらいた場所と、その経緯を解説しました。
簡単にまとめると、

  • 足利尊氏は京都に幕府をひらいた
  • 幕府が京都に置かれた理由は、後醍醐天皇(南朝)を監視するため
  • 足利尊氏は、はじめは後醍醐天皇を支持していたが対立し、京都から追い出した

足利尊氏は後醍醐天皇を指示していましたが、反旗を翻し対立しました。
いわば主君を裏切ったかたちです。主君を裏切った裏切り者という見方もあり、幕府をひらいた人物なのに人気がないのかもしれませんね。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください