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明治維新の年表をわかりやすく解説!いつか?きっかけは?主な出来事や影響は?

明治維新とは、幕末から明治初期にかけて行われた日本を近代化しようとする改革のことです。この改革では、幕藩体制を打倒した上で、天皇を中心とした中央集権国家を形成し、封建社会から資本主義社会へと移行しました。

明治維新では具体的にどのようなことがあったのでしょうか?

この記事では、明治維新の年表を見ながら、出来事や影響などを簡単に解説していきます。

明治維新の年表をわかりやすく解説!

【明治維新の年表】

  • 1867年(慶応3年)
     大政奉還
     王政復古の大号令
  • 1868年(慶応4年)
     戊辰戦争開始
     江戸城無血開城
     五箇条の御誓文布告
     江戸を東京に改称
     元号を明治に改元
  • 1869年(明治2年)
     戊辰戦争終結
     新政府が日本全土統一
     版籍奉還
  • 1871年(明治4年)
     新貨条例
     廃藩置県
     岩倉使節団出発
  • 1873年(明治6年)
     徴兵令
     岩倉使節団帰国
     地租改正条例
     明治六年の政変
  • 1876年(明治9年)
     廃刀令
     秩禄処分→士族の乱が相次ぐ
  • 1877年(明治10年)
     西南戦争
  • 1881年(明治14年)
     国会開設の勅諭
  • 1885年(明治18年)
     内閣制度ができる
  • 1889年(明治22年)
     大日本帝国憲法発布

明治維新はなぜ起こった?きっかけは?

明治維新が起こったきっかけは、大きく分けると2つあります。

・ペリー率いる黒船の来航

・徳川慶喜による大政奉還

それぞれを詳しく解説していきます。

・ペリー率いる黒船の来航

1853年に、アメリカのペリーが黒船と呼ばれた軍艦を率いて来航します。

それまで幕府は鎖国(管理貿易)しており、外国との交渉を断り続けていました。しかし、ペリーは武力をちらつかせて、無理やり開国を迫ったのです。

軍艦の威容を目の当たりにした幕府は、仕方なく開国することにします。

そして、天皇の許可を待たずに日米和親条約や日米修好通商条約に調印し、他の国とも同様の条約を締結しました。

しかし、この結んだ条約は不平等条約であったため、国民の生活が一気に苦しくなります。当時の孝明天皇が攘夷思想を持っていたこともあり、勝手に開国した幕府への不満が高まっていきました。

・徳川慶喜による大政奉還

世間では幕府への不満を持った人が非常に多くなっていました。そして、外国人を排除したい「攘夷派」と、開国して欧米諸国に学んで、近代化を進めるべきとする「開国派」とで対立していくことになるのです。

このうち攘夷派は、外国と直接戦ったことで、外国との技術力の差を思い知り、次第に急速な近代化を必要とする思想に変わっていきます。

この流れで、敵対関係にあった長州藩と薩摩藩が同盟を結び、倒幕思想が一気に強まります。

倒幕運動が盛んになると、徳川慶喜は内戦を避けるため、自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行うのです。

これにより江戸幕府は消滅しましたが、討幕して徳川家を滅ぼそうとする動きは阻止することができました。

徳川慶喜は、平和的に解決した上で、新たな政府にまた参加しようと目論んでいたのです。

このままだと、また徳川家が実権を握る政治が続いてしまうと焦った新政府軍は、王政復古の大号令を起こし、さらには、幕府軍(徳川勢力)を徹底的に排除するために戊辰戦争で決着をつけました。

このように、時代を大きく変える出来事が起こり、日本の急速な近代化が求められたため、明治維新が起こりました。

明治維新はいつからいつまで?

明治維新の時期というのは、実は諸説存在しています。

一般的に明治維新の開始時期は、1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古の大号令を指すことが多いです。

他には、天保年間に開始時期を置く説や、黒船来航、不平等条約の締結を開始とする説、孝明天皇の践祚を開始とする説などがあります。

また、終わりの時期も諸説あり、廃藩置県を終わりとする説、西南戦争を終わりとする説、内閣制度の発足や大日本帝国憲法発布を終わりとする説などがあります。

明治維新の中心人物は?

明治維新の中心人物には、「維新の三傑」と呼ばれる人たちがいます。

維新の三傑は、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の3人です。それぞれを簡単に紹介していきます。

・大久保利通

大久保利通(1830年(文政13年)〜1878年(明治11年))は、西郷隆盛と同じく薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。また、維新の三傑にも数えられています。

大久保利通は武士でありましたが、非常に政治的手腕に長けていました。

薩摩藩主・島津久光の側近として、「公武合体」を目指して公家や有力大名などとの間で様々な政治工作をしていたのです。

倒幕運動でも活躍しており、特に西郷隆盛とともに王政復古の大号令のクーデターを行うなどして、徳川慶喜を追放するための根回しをしていました。

また、明治政府誕生後も政治で活躍し、「富国強兵」を目指しています。

さらに、岩倉使節団の一員として海外にも渡り、外交にも尽力していました。

西郷隆盛が政府と対立した後に起きた西南戦争では、明治政府側に就いて西郷隆盛と戦います。この戦いに大久保利通は勝利しますが、翌年暗殺されてしまい、壮絶な最後を遂げました。

\大久保利通に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

・西郷隆盛

西郷隆盛(1828年(文政10年)〜1877年(明治10年))は、薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。また、大久保利通、木戸孝允らと並んで維新の三傑にも数えられています。

西郷隆盛は、身分の低い家に生まれましたが、薩摩藩主・島津斉彬に才能を見出され、次第に頭角を現していきました。

倒幕派の中心人物として活躍していくのですが、特に有名なのが「薩長同盟」を結んだことです。

坂本龍馬の仲介で、薩摩藩と対立していた長州藩の木戸孝允と話し合い、薩長同盟を結び、倒幕運動は加速していくのです。

西郷隆盛が活躍したのは、幕末の倒幕運動だけではありません。

戊辰戦争においても、新政府軍の責任者として活躍しました。

この際、特に評価されているのが「江戸城無血開城」です。

西郷隆盛は話し合いの末、両軍とも血を流すことなく幕府に江戸城を明け渡させることに成功しました。

明治政府誕生後は、廃藩置県などの政治政策に尽力しましたが、次第に政府と対立していき、西南戦争を起こし政府と戦うこととなりました。
この戦争に敗れた西郷隆盛は、最後に自害しています。

明治維新に尽力した西郷隆盛でしたが、最後は逆賊として生涯を終えたのでした。

\西郷隆盛に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

・木戸孝允

木戸孝允(1833年(天保4年)〜1877年(明治10年))は、長州藩出身の維新の十傑の1人で、西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑にも数えられています。

幕末期には、桂小五郎の名で活躍しており、長州藩の中心的人物と言っても過言ではありませんでした。

同じ長州藩の高杉晋作らと共に尊王攘夷運動を行っていき、坂本龍馬の仲介を経て「薩長同盟」の締結も成功させます。

また、同盟締結後は、大久保利通らと協力して、王政復古の大号令にも関わりました。

明治政府誕生後は、右大臣の岩倉具視に認められ、政治における実質的な最終決定責任者となり、「五箇条の御誓文」「版籍奉還」「廃藩置県」「四民平等」など日本の近代化の上で重要な政策を数々実行していきました。また、大久保利通同様、岩倉使節団にも参加し、副使として活躍しています。

そんな明治維新に貢献していた木戸孝允ですが、最後は重症化した病気により病死してしまいました。

\木戸孝允に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

明治維新の主な出来事は?

明治維新は、日本を近代化しようとした改革でした。

それでは、どのようなことをしていったのでしょうか?

ここでは、明治維新の主な出来事を簡単に解説していきます。

【明治維新の主な出来事】

  • 明治政府が誕生した
  • 富国強兵を目指した

明治政府が誕生した

まず、1868年(明治元年)に江戸幕府に代わって新しい政府が誕生しました。それが明治政府です。

明治政府は、近代国家に生まれ変わるための改革を数多く行い、その指針を五箇条の御誓文として発表しました。そして、新政府は江戸を東京に改称して首都とし、年号を明治に改めて、新しい時代の幕を開きました。

新政府は、中央集権国家を目指すために、まず版籍奉還をして、藩の土地と民衆を政府に返すようにしました。その後、廃藩置県を行い、各県に県知事を任命して治めるようにしたのです。

これにより、新政府の全国統一が決定づけられました。

富国強兵を目指した

明治政府のスローガンは、「富国強兵」でした。この富国強兵を目指して行われた改革は、大きく分けて「学制」「兵制」「税制」の3つです。

・学制

教育の普及が日本の発展に必要だと考え、1872年に学制を公布します。そして、小学校から大学までの学校制度を定めました。

これにより、小学校が各地で作られ、大学などの高等教育では海外の近代的な学問や技術を積極的に取り入れました。

・兵制

富国強兵には、軍備の充実も不可欠な要素でした。そこで1873年に徴兵令を施行します。これは、「四民平等・国民皆兵」を掲げ、徴兵の対象は20歳以上の男子とし、士族問わずに採用するようにしました。近代的な軍隊にしたかったため、武士の身分を優遇することをやめたのです。

・税制

土地問題と租税問題を同時に解決した政策が「地租改正」です。

まず、1871年に田畑永代売買禁止令を廃止。

そして、土地所有者には地券を発行し、土地の私的所有権を認めました。

さらに、1873年には「地租改正条例」を発表します。

これにより、土地所有者に地価の3%を現金で納めさせるようにしました。

明治維新の影響は?

明治維新では、日本の近代化が目標とされていました。

それでは、その影響にはどんなことがあったのでしょうか?

ここでは、明治維新の影響を簡単に解説していきます。

【明治維新の影響】

  • 民衆の生活様式が変わった
  • 身分制度がなくなった

民衆の生活様式が変わった

明治維新後の生活の変化を象徴する言葉に「文明開化」というものがあります。

これは、明治政府が積極的に欧米の文化を取り入れて国民に推奨したことで、それまでの伝統的な暮らしが一変したことを指す言葉です。

変化した例を挙げていくと、

  • 暦は太陽暦が使われるようになった(1日が24時間、1週間は7日間と定められた)
  • 街ではレンガ造りの建物が増えたり、道路にランプやガス灯がつき、馬車が走ったりするようになった
  • 印刷の普及で、新聞が発行された
  • 肉を食べる習慣が拡散した
  • 初めてのパン屋さんが開業した
  • 服が和服から洋服になった
  • 小物やヘアスタイルも洋装に合うものになった(ざんぎり頭など)
  • 日曜日が休日となった

以上のように、民衆の生活様式ががらりと変わりました。

身分制度がなくなった

身分制度がなくなったことも大きな変化です。

江戸時代には、「士農工商」が存在し、生まれたときから身分が決められていました。

その影響で、農民が武士になれるチャンスが極めて少なかったり、武家の娘が商人と結婚するといったことも難しかったりしたのです。

しかし、明治政府では、国民はすべて平等な立場であるとし、旧来の身分制度を廃止しました。そして、「四民平等」という考えが広まり、誰でも様々な職業に就けるようになったのです。

まとめ:明治維新によって近代化が進み、日本は文明開化していった

開国したことにより日本の急速な近代化が必要となった結果、明治維新が行われました。そして、明治維新が行われた結果、日本の民衆の生活様式が変わり、身分制度もなくなり、文明開化していくこととなりました。

今回の内容をまとめると、

  • ペリー来航以降、日本の急速な近代化が必要だと考える人が多くなった
  • 開国派であった薩摩藩と長州藩が主となって明治維新を進めていくこととなった
  • 富国強兵をスローガンとして政策を進めていった
  • 明治維新の影響で日本は文明開化していった

もし、このときに鎖国を貫いていたら、日本の近代化は無く、今の私達の生活もかなり変わっていたかもしれません。外国と対等な関係でいられる今があるのは、明治維新で尽力してくれた人々のおかげだと言っても過言ではないでしょう。

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