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木戸孝允の年表を簡単に解説!何をした人?死因は?功績や性格、名言をご紹介!

木戸孝允の年表を簡単に解説!何をした人?死因は?功績や性格、名言をご紹介!

木戸孝允きどたかよしは、明治維新の指導者として、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家です。大久保利通、西郷隆盛とともに「維新の三傑」の一人に称されています。明治維新前は、長州藩志士の桂小五郎かつらこごろうの名前で活躍していました。

今回は木戸孝允の年表を簡単に解説していきます。功績や死因、性格と現代に残した名言も、併せて解説していきます。

木戸孝允はどんな人?

木戸孝允

  • 生年月日:1833年8月11日(天保4年6月26日)〜1877年(明治10年)5月26日(享年45歳)
  • 父の名前:
    実父・・・和田 昌景わだまさかげ / 養父・・・桂 孝古かつらたかふる
  • 母の名前:
    実母・・・清子
  • 妻の名前:
    木戸松子きどまつこ(幾松)
  • 子供:
    桂勝三郎(養子)、木戸正二郎(養子)、木戸忠太郎(養子・松子の甥)、
    木戸孝正(養子・木戸家を継承)、木戸好子、河瀬英子(養女)
  • 性格:
    真面目で几帳面。また明治天皇にも信頼が厚く、誠実な人物だったといわれています。

木戸孝允の年表を簡単に解説

木戸孝允の生涯を年表で簡単に解説していきます。なお、年齢は「かぞえ」の年で記しています。

  • ・1833年(天保四年)(1歳)
    長門国萩城下(現在の山口県萩市)に長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれる
  • 1840年(天保十一年)(8歳)
    桂九郎兵衛の養子となり、武士の身分を得る。この時から「桂小五郎」と名乗る
  • 1849年(嘉永二年)(17歳)
  • 萩にある藩校 明倫館で吉田松陰に師事、山鹿流兵法を学ぶ
  • 1852年(嘉永五年)(20歳)
    江戸に剣術修行に赴き、神道無念流斎藤道場に入門
  • 1858年(安政五年)(26歳)
    萩に帰国し、長州藩士として本格的に活動を開始
  • 1862年(文久二年)(30歳)
    他藩渉外役となり、長州藩の中心的人物となる
  • 1863年(文久三年)(31歳)
    八月十八日の政変がおこり、長州藩の立場は一変。木戸孝允も命を狙われる存在となる
  • ・1864年(元治元年)(32歳)
    池田屋事件、禁門の変が起こる。
  • 1866年(慶応二年)(34歳)
    坂本龍馬らの仲介で、薩長同盟を締結する。
  • 1870年(明治三年)(38歳)
    明治新政府の参議に任命され、新政府の中心人物となる
  • 1871年(明治四年)(39歳)
    岩倉使節団の副使として、欧米各地を歴訪する
  • 1874年(明治七年)(42歳)
    台湾出兵に反対し、参議を辞任する
  • 1875年(明治八年)(43歳)
    参議に復帰し、地方官会議議長に就任。しかし病気が悪化し、療養のため参議を辞任する
  • 1877年(45歳)
    西南戦争で西郷討伐の総大将と名乗りをあげるが、病気の悪化で出陣することなく、亡くなる

木戸孝允の死因は?

木戸孝允は1877年(明治10年)に京都の別邸で亡くなります。享年45歳でした。
木戸孝允の死因は何だったのでしょうか?病死であることは確実なようですが、詳しい病名は、実はまだ明らかになっていません。
現在は、木戸孝允の死因として「大腸がんからの肝臓転移」が、最も有力と考えられています。

木戸孝允の功績を簡単に解説

明治維新のリーダーとして有名な木戸孝允ですが、実際にはどのような功績を残した人物だったのでしょうか?
木戸孝允の数々の功績を簡単に解説していきます。

【木戸孝允の功績一覧】

  • 吉田松陰のもとで学び、尊王攘夷運動を展開した
  • 薩長同盟を長州藩の代表として成立させた
  • 明治政府で要職に就き、近代日本の基礎を築いた

木戸孝允は吉田松陰のもとで学び、尊王攘夷運動を展開した

木戸孝允が17歳の1849年(嘉永二年)、萩の藩校 明倫館で吉田松陰に、山鹿流兵法を学びます。
木戸孝允のもつ高い素質は、吉田松陰からも「事をなすの才あり」と評価されています。木戸孝允は、松下村塾の門下生ではありませんでしたが、松田松陰に対し、生涯門人の礼をとり続けたといわれています。

吉田松陰に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております

>>吉田松陰の生涯を年表で簡単に解説!弟子は?死因は?功績は?>>

>>吉田松陰の松下村塾|四天王や門下生一覧、松下村塾ではどんな教えをしていたのか?>>

>>吉田松陰の名言20選!幕末の天才が残した言葉を分かりやすく解説>>

木戸孝允と西郷隆盛は薩長同盟の立役者

木戸孝允の功績の一つに、薩長同盟成立させた事が挙げられます。

1866年(慶応2年)、当時力を持っていた長州藩と薩摩藩が政治的・軍事的な密約同盟を結びます。
薩長連合密約六箇条(薩長同盟)と呼ばれるこの同盟の成立で、それまで国のあり方について対立していた長州藩と薩摩藩が結び付き、幕府を倒す動きが加速していくのでした。

「木戸孝允(桂小五郎)」は、日本の歴史的ターニングポイントと言えるこの同盟の、長州側の代表者として携わりました。

薩長同盟は、仲介役の坂本龍馬の功績として有名ですが、長州藩の代表が木戸孝允でなければ同盟成立は更に難航していたかもしれず、その後の日本の歴史が大きく変化していたかもしれないとも言われています。
それほど、木戸孝允の交渉は優れたものだったと思われます。

ちなみに、薩摩藩側の代表として、西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち小松帯刀こまつたてわきが参加しています。

木戸孝允は明治政府で要職として活躍した

木戸孝允は明治維新後の新政府でも、要職に就き、数々の功績を残しています。

【明治政府での木戸孝允の功績一覧】

  • 「五箇条の御誓文(明治政府の基本方針)」の作成に参加
  • 版籍奉還や廃藩置県などを推進して中央集権国家の樹立に貢献
  • 岩倉使節団の副使として欧米各地を歴訪
  • 参与、総裁局顧問、参議を歴任

明治政府の基本方針や、版籍奉還や廃藩置県など、現代の日本の基礎となることにも木戸孝允は関わっていたのです。
ちなみに、東京都の桜の名所の一つとなっている「靖国神社」のソメイヨシノも、英霊たちを偲ぶ花として木戸孝允が植えた桜が最初といわれています。

木戸孝允の性格がわかるエピソード

木戸孝允はに関するエピソードをご紹介します。

【木戸孝允に関するエピソード】

  • 木戸孝允はその人生で何度も改名した
  • 木戸孝允は剣術の達人だったが、「逃げの小五郎」と呼ばれていた
  • 木戸孝允は、身分の差を超えた恋愛結婚をした

木戸孝允は何度も名前を変えていた

木戸孝允は、生涯で何度も名前が変っています。

【木戸孝允の名前一覧】

  • 和田小五郎(わだごろう)
  • 桂小五郎(かつらこごろう)
  • 木戸貫治(きどかんじ)
  • 木戸準一郎(きどじゅんいちろう)
  • 木戸孝允(きどたかよし)

和田家に生まれた後、8歳頃に「桂小五郎」となり、幕末の頃「木戸貫治」や「木戸準一郎」、明治維新後から「木戸孝允」と名乗るようになっています。

なぜ木戸孝允は、何度も名前を変えた理由はその時々で様々です。

幼少期の改名理由は「別家の養子になったから」です。
幕末の改名の理由は「違う人物とみなすため」と言われています。
そして、明治維新後の改名理由は「法令に従って、戸籍登録するため」です。

改名理由の背景には、養子に望まれたり、違う人物としてでもリーダーとして活躍してほしいと望まれた、木戸孝允が能力も人望も非常に高かったことを感じることができますね。

木戸孝允の改名に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

>>木戸孝允と桂小五郎は同一人物!何度も改名したその理由は意外なものだった>>

木戸孝允は剣の達人だったが「逃げの小五郎」と呼ばれていた

木戸孝允は、1852年(嘉永五年)に剣術修行で江戸に出ています。
その頃には、充分剣の達人だったようで、江戸で有名な道場だった「練兵館」に入門するのですが、すぐに神道無念流剣術の免許皆伝を得、入門後わずか1年後には塾頭に上り詰めます。

木戸孝允の剣術の高さは、敵対関係にあったとされる新選組の局長 近藤勇も認めており、「木戸孝允とは戦いなくない」と周囲にこぼしていたともいわれています。

そんな剣術の達人だった木戸孝允ですが、むやみに武力に頼ることはありませんでした。
生涯で一度もヒトを切ったことがないとも言われており、池田屋事件でも戦うことなく逃げることに成功していますし、その後も正面から向き合うことなく潜伏生活を続けています。「逃げの小五郎」とのあだ名も有名ですよね。

木戸孝允は戦いを避け、生き残る事を最重要とし、情報を集め続けた隠遁生活を耐え抜きます。その結果が長州藩の代表として薩長同盟を結ぶという功績に繋がったと言えるでしょう。

木戸孝允は、剣術の達人でありながら、無用の戦いを避け、弱腰と言われても利のある方を冷静に選び続けられる人物だったのです。

木戸孝允は、身分の差を超えた恋愛結婚をした

木戸孝允には、ロマンチックなエピソードも存在しています。生涯を共にした愛妻の木戸松子(磯松)とのエピソードです。

池田屋事件や禁門の変で幕府の敵となった長州藩。長州藩の藩士である木戸孝允(桂小五郎)も幕府に追われる身となり、潜伏生活を余儀なくされます。

その際、命をかけて木戸孝允(桂小五郎)を支えたのが、当時京都の芸妓さんだった恋人の「磯松」です。磯松は、乞食に変装した木戸孝允(桂小五郎)に食べ物を持っていったり、危ないところを匿ったりしました。

新選組の局長 近藤勇から尋問をされた際も、幾松は近藤勇も感心するほどの凛とした態度で尋問を切り抜けたとされています。

人気の芸妓だったといわれる磯松は、容姿も非常に美人な方だったようです。木戸孝允も長身のイケメンと言われていますので、二人が並んだ姿は、美男美女のお似合いの夫婦だったことでしょう。

木戸孝允は、身分に関係なく、本当に自分を愛し支えてくれる女性と恋愛結婚をしたのですね。

木戸孝允の名言を解説

木戸孝允はいくつもの名言を残しています。木戸孝允の名言を簡単に解説していきます。

木戸孝允の名言1|才才を恃み愚は愚を守る

才子恃才愚守愚(さいしはさいをたのみ ぐはぐをまもる)
少年才子不如愚(しょうねんのさいしは ぐになるにしかず)
請看他日業成後(こうみよ たじつぎょうなるのち)
才子不才愚不愚(さいしはさいしならず ぐはぐならず)

現代訳:
才子は自分の才能をたよりに努力を怠るが、愚者は自分の愚かさを自覚して努力する。
若いころは才子であるより愚者の方がよいのだ。
見たまえ。将来、何かを成し遂げた後は
才子は才子ではなく、愚者は愚者ではなくなっていることを。

漢字だらけの名言ですが、これは木戸孝允が作った漢詩の最初の文なのです。
才能のあるものよりも、自らの愚かさを自覚して努力をすることの方が大事だ。と努力の尊さを説いた、現代にも必要なことを伝えてくれていますね。

木戸孝允の名言2|人の巧を取って我が拙を捨て、人の長をとって我が短を補う

人の巧を取って我が拙を捨て、人の長をとって我が短を補う

現代訳:
人として成長するためには、他者に学びを求め、周りの人の優れたところ取り入れ、柔軟な心で自分の至らないところを補うことが大切です。

 これは、木戸孝允が「心の在り方について説いたもの」といわれいます。
転じて、「人はだれしも長所も短所もあるのだから、それぞれが集まって、協力し、補い合うことが大切である」との意味と捉えられることもある名言です。

まとめ:木戸孝允は幕末から明治にかけて日本の近代化に大きく貢献した偉大な人物だった

木戸孝允は、幕末から明治にかけての、日本が大きく変わる時代に活躍した人物でした。近代日本となるためには、木戸孝允の存在は欠かせなかったといえるでしょう。木戸孝允は、45歳の若さで亡くなりますが、その数年前から体調不良に悩まされています。体調不良に伴い精神状態も不安定になっていたといわれています。
今回の内容をまとめると、

  • 木戸孝允は、吉田松陰のもとで学び、尊王攘夷運動を展開した
  • 木戸孝允は、薩長同盟の立役者として活躍した
  • 木戸孝允は、明治政府で要職として活躍した
  • 木戸孝允は、生涯で多くの名前を使っていた
  • 木戸孝允は、剣の達人だったが、無用の争いを避けた
  • 木戸孝允は、献身的に支えてくれる最愛の妻がいた
  • 木戸孝允は、現代に生きる私達の心にも染みる名言を残していた

もしも晩年の木戸孝允が健康で、明治政府で充分に才覚を発揮できていたならば、初代総理大臣が木戸孝允だったかもしれません。無用な争いを決して選ばなかったといわれている木戸孝允が率いる日本の明治時代は、どのようになっていたのでしょうか。その後の日本の歴史も大きく異なっていたかもしれませんね。

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