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明治維新の人物まとめ!長州・薩摩藩出身が多い?維新の十傑とは?なにをした?

明治維新とは、幕末から明治初期にかけて行われた日本を近代化しようとする改革のことです。

この改革では、幕藩体制を打倒した上で、天皇を中心とした中央集権国家を形成し、封建社会から資本主義社会へと移行しました。

それでは、この明治維新を行った人物には誰がいたのでしょうか?

この記事では、明治維新の中心人物たちを簡単に解説していきます。

明治維新の中心人物とは?

明治維新は日本の近代化において、非常に重要な出来事でした。

その明治維新を行った人物には誰がいたのでしょうか?

また、「維新の十傑」とは誰のことを指すのでしょうか?
ここでは、明治維新の中心人物を簡単に解説していきます。

「維新の十傑」とは?「維新の三傑」も?

明治維新を語るときに出てくる単語の1つに「維新の十傑」という言葉があります。

この維新の十傑とは、明治維新に尽力した志士のうち、山脇之人『維新元勲十傑論』において挙げられた特に優れた10人のことを指す言葉です。

10人は以下の通りです。

【維新の十傑】

  • 西郷隆盛
  • 大久保利通
  • 木戸孝允
  • 小松帯刀
  • 大村益次郎
  • 前原一誠
  • 広沢真臣
  • 江藤新平
  • 横井小楠
  • 岩倉具視

さらに、この10人の中でも、特に枢要な位置を占めていた3人(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)のことを「維新の三傑」と呼んでいます。

この維新の三傑と面識があり、後に「日本の近代資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一は、維新の三傑のことを次のように評価しています。

「西郷隆盛公は、達識の偉い方で、器ならざる人に相違ない。……すこぶる親切な同情心の深い一見しておなつかしく思われた御人だった。……賢愚を超越した将に将なる君子の趣があった。余は大久保侯の日常を見るごとに、器ならずとは侯のごとき人をいうものであろうと、感嘆の情を禁じえなかったものである。……全く底の知れない人であった。木戸孝允侯は、大久保・西郷両侯よりも文学の趣味深く、かつすべてに考えたり行ったりすることが組織的であった」

以上の渋沢栄一の評価からもわかるように、維新の三傑は「情の西郷隆盛」「意の大久保利通」「知の木戸孝允」とそれぞれの役割が分かれていました。

そして、それがうまく機能し、日本を近代国家へと導いていったのです。

維新の十傑|西郷隆盛

西郷隆盛(1828(文政10)〜1877(明治10))は、薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。また、大久保利通、木戸孝允らと並んで維新の三傑にも数えられています。

西郷隆盛は、身分の低い家に生まれましたが、薩摩藩主・島津斉彬に才能を見出され、次第に頭角を現していきました。

倒幕派の中心人物として活躍していくのですが、特に有名なのが「薩長同盟」を結んだことです。

坂本龍馬の仲介で、薩摩藩と対立していた長州藩の木戸孝允と話し合い、薩長同盟を結び、倒幕運動は加速していくのです。

西郷隆盛が活躍したのは、幕末の倒幕運動だけではありません。

戊辰戦争においても、新政府軍の責任者として活躍しました。

この際、特に評価されているのが「江戸城無血開城」です。

西郷隆盛は話し合いの末、両軍とも血を流すことなく幕府に江戸城を明け渡させることに成功しました。

明治政府誕生後は、廃藩置県などの政治政策に尽力しましたが、次第に政府と対立していき、西南戦争を起こし政府と戦うこととなりました。
この戦争に敗れた西郷隆盛は、最後に自害しています。

明治維新に尽力した西郷隆盛でしたが、最後は逆賊として生涯を終えたのでした。

\西郷隆盛に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

維新の十傑|大久保利通

大久保利通(1830(文政13)〜1878(明治11))は、西郷隆盛と同じく薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。また、維新の三傑にも数えられています。

大久保利通は武士でありましたが、非常に政治的手腕に長けていました。

薩摩藩主・島津久光の側近として、「公武合体」を目指して公家や有力大名などとの間で様々な政治工作をしていたのです。

倒幕運動でも活躍しており、特に西郷隆盛とともに王政復古の大号令のクーデターを行うなどして、徳川慶喜を追放するための根回しをしていました。

また、明治政府誕生後も政治で活躍し、「富国強兵」を目指しています。

さらに、岩倉使節団の一員として海外にも渡り、外交にも尽力していました。

西郷隆盛が政府と対立した後に起きた西南戦争では、明治政府側に就いて西郷隆盛と戦います。この戦いに大久保利通は勝利しますが、翌年暗殺されてしまい、壮絶な最後を遂げました。

\大久保利通に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

維新の十傑|木戸孝允

木戸孝允(1833(天保4)〜1877(明治10))は、長州藩出身の維新の十傑の1人で、西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑にも数えられています。

幕末期には、桂小五郎の名で活躍しており、長州藩の中心的人物と言っても過言ではありませんでした。

同じ長州藩の高杉晋作らと共に尊王攘夷運動を行っていき、坂本龍馬の仲介を経て「薩長同盟」の締結も成功させます。

また、同盟締結後は、大久保利通らと協力して、王政復古の大号令にも関わりました。

明治政府誕生後は、右大臣の岩倉具視に認められ、政治における実質的な最終決定責任者となり、「五箇条の御誓文」「版籍奉還」「廃藩置県」「四民平等」など日本の近代化の上で重要な政策を数々実行していきました。また、大久保利通同様、岩倉使節団にも参加し、副使として活躍しています。

そんな明治維新に貢献していた木戸孝允ですが、最後は重症化した病気により病死してしまいました。

\木戸孝允に関しては、こちらの記事でも解説しております/

維新の十傑|小松帯刀

小松帯刀(1835(天保6)〜1870(明治3))は、薩摩藩出身の維新の十傑の1人です。

あまり教科書などでは見られない人物ですが、立場的には西郷隆盛や大久保利通の上司にあたる人物で、薩摩藩を代表する政治家でした。

西郷隆盛と木戸孝允によって締結された薩長同盟ですが、これが成功したのは「亀山社中」の存在も大きかったでしょう。

この坂本龍馬が結成した亀山社中ですが、実は小松帯刀も関係しており、設立のための援助を行っているのです。つまり、間接的に薩長同盟に貢献していることになります。

また、薩英戦争後の薩摩藩とイギリスの交流においても、小松帯刀が英国公使パークスと島津久光を対面させるなどして、友好関係の構築に尽力しています。

倒幕運動が盛んになっている際には、討幕の密勅に藩の代表として署名したり、二条城において徳川慶喜に大政奉還の受諾や将軍職の辞任を迫る姿勢まで見せたりしていました。

しかし、大政奉還の成立後、病気で亡くなってしまいました。

維新の十傑|大村益次郎

大村益次郎(1825(文政8)〜1869(明治2))は、長州藩士で維新の十傑の1人です。

19歳から蘭学を学び始めた大村益次郎は、様々な場所でその知識を吸収し一端の蘭学者となりました。そして、1853年に四国の宇和島藩へと向かいます。

ペリー来航によって騒然とする世情を受け、伊達宗城が蘭学に達者な人材を求めたところ、かつての師であった緒方洪庵が大村益次郎を紹介したのです。

そこで兵学や蘭学を教えることになるのですが、さらに藩主直々の命令で軍艦建造にも着手します。このとき大村益次郎が完成させた「宇和島丸」は、日本人のみの力で建造した日本初の西洋式軍艦でした。

また、1858年には木戸孝允と出会い、奇兵隊の軍制改革を任され、長州藩の兵士の育成や最新武器の購入などを担当し、長州藩の軍を近代的な軍隊へと成長させるのです。

この後も長州征伐や戊辰戦争などで活躍し、明治維新への道を切り開き、明治政府誕生後は、兵部大輔に任命されました。

そこで様々な軍制改革を行うのですが、「武士=職業軍人」というあり方を否定する建言を行ったことで、不平士族に襲撃されてしまいます。

なんとか一命をとりとめたものの、傷は悪化してしまいそのまま亡くなってしまいました。

数々の軍制改革を実現したことから、大村益次郎は「日本陸軍の父」と称されるようになりました。

維新の十傑|前原一誠

前原一誠(1834(天保5)〜1876(明治9)は、長州藩出身の維新の十傑の1人です。

長州藩は、幕末に過激な攘夷思想が盛んになっており、それが災いして一時は朝敵とみなされるまでの窮地に陥っていました。

そこで、滅亡になるよりはと態度を一変し、それまでの過激な武闘派としての面影を一切なくし、幕府に従う謙虚な姿勢を持つ藩となったのです。

そんな情けない長州藩を再び立ち上がらせようと奮起したのが前原一誠でした。

前原一誠は、高杉晋作が起こした功山寺挙兵にも協力して、元の強い長州藩を取り戻すことに成功します。そして、藩の方針を倒幕へと転換させた後、前原一誠は第二次長州征伐にも参戦し、幕府軍を破ることにも成功したのです。

その後も、戊辰戦争や北越戦争にも参戦します。特に北越戦争では、軍を指揮する立場にもなりました。

しかし、明治維新後は、木戸孝允と対立し帰郷。そして、九州で反乱が起きたのをきっかけに、前原一誠も萩の乱を起こすのです。

萩の乱を起こしたものの、これは失敗に終わり、前原一誠は処刑されることとなってしまいました。

ちなみに、前原一誠の師であった吉田松陰は、前原一誠のことを以下のように評していました。

「八十郎(前原一誠のこと)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」

つまり、前原一誠には、勇気があり、智略があり、誠実さは誰にも負けないと言っていたわけですね。

維新の十傑|広沢真臣

広沢真臣(1834(天保4)〜1871(明治4))は、長州藩出身の維新の十傑の1人です。

尊攘派として、藩の軍制改革に参画するなどの活躍を見せていた広沢真臣でしたが、長州藩が追い詰められていた時期には苦労をしていたこともありました。

一例を挙げると、藩内で起こった政権闘争で投獄されてしまうなどです。

しかし、高杉晋作らがクーデターを起こし藩の実権を掌握すると、広沢真臣は政務役として藩政に参加することになります。

さらに、第二次長州征伐では、講和交渉の際に幕府側の勝海舟と交渉したり、坂本龍馬らと会談し商社示談箇条書も作成したりしています。

そして、討幕の密勅の降下にも尽力しており、大久保利通や岩倉具視とともに、討幕の密勅を受ける任務を担いました。

明治政府誕生後は、参議などの要職に任命されますが、最後は東京の自宅にて襲撃されて亡くなっています。

維新の十傑|江藤新平

江藤新平(1834(天保5)〜1874(明治7))は、肥前藩出身の維新の十傑の1人です。

ちなみに、資料によっては佐賀藩出身と書かれているものもあるかもしれません。

佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩であったことから、実質的に同じ意味ということになります。

尊王攘夷運動に積極的だった江藤新平は、一時は謹慎処分を受けるものの、王政復古の大号令の後に復帰します。そして、戊辰戦争の際に江戸城無血開城が成功すると、江藤新平が江戸に首都を移すことを提案したそうです。また、上野戦争では、彰義隊と戦う活躍も見せました。

明治政府誕生後は、司法卿として司法関係を厳しく整備していきます。しかし、江藤新平は晩年、征韓論争に敗れて参議を辞職し、明治政府から去り、故郷である佐賀に帰るのですが、そこで反政府勢力に推されて挙兵することとなりました。これが佐賀の乱です。

佐賀の乱は、大久保利通率いる政府軍によって鎮圧されてしまい、江藤新平は佐賀の乱の首謀者として捕らえられ、裁判にかけられることになってしまうのです。

裁判の結果は、「斬首・梟首」という、当時の刑法では最高刑でした。

悲惨な最後を迎えた江藤新平でしたが、「三権分立」を推進し、日本の近代司法体制生みの親として「近代日本司法制度の父」と称されています。

\江藤新平の死因に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

維新の十傑|横井小楠

横井小楠(1809(文化6)〜1869(明治2))は、肥後藩出身の維新の十傑の1人です。

1858年に政治顧問に就任した横井小楠は、殖産興業に尽力します。

貿易における情報収集や、越前蔵屋敷の建築を行い、物産総会所を設けるなどしました。

ちなみに、これは藩からは資金の出し入れを行い、運営は商人に一任するスタイルをとっていたそうです。

また、生糸が高値で取引できると読んだ横井小楠は、特に養蚕を奨励していきます。

そして、これが大当たりし、藩の財貨は常に50万両蓄えるまでに至りました。

さらに、横井小楠は幕府への提言書である「国是七条」を提出。

幕府の岡部長常は横井小楠を招いて、これの詳しい説明を求めました。

すると、横井小楠は「各藩の財政難の要因である参勤交代や妻子の江戸居住の緩和・廃止」など、見識の高い意見を述べ、そこにいた者たちを驚かせたと言われています。

明治政府誕生後は、参与として財政担当を任せられますが、後に襲撃を受けて暗殺されてしまいました。

維新の十傑|岩倉具視

岩倉具視(1825(文政8)〜1883(明治16))は、公家出身の維新の十傑の1人です。

最初は公武合体による朝廷と幕府が協力した政治を目指していた岩倉具視でしたが、次第に討幕を目指すようになり、公家の立場から王政復古の大号令や小御所会議などを主導しました。

明治政府誕生後は、参与、議定、大納言、右大臣を務めて政治に尽力します。

版籍奉還や廃藩置県などの政治改革を行いました。

さらに、岩倉使節団の特命全権大使に就任しました。

岩倉使節団では、欧米諸国を訪問し、不平等条約の改正に励みました。

諸外国で受けた衝撃から、日本の近代化の重要性に気付きます。そして岩倉具視は、鉄道会社の設立や富国強兵の政策に力をいれ始めるのです。

最後は病死した岩倉具視でしたが、その葬式は、日本で初めての国葬となりました。

\岩倉具視に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

明治維新の第2世代|伊藤博文

伊藤博文(1841(天保12)〜1909(明治42))は、長州藩出身の日本初の内閣総理大臣になった人物です。

伊藤博文が政府に参画したのは、明治維新後の1868年でした。そこで、外国事務掛、参与、外国事務局判事などを歴任しました。また、岩倉使節団の副使として外遊します。このことがきっかけで大久保利通からの信任を得ます。

1878年に大久保利通が暗殺されると、伊藤博文がその後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となりました。そして、大日本帝国憲法の制定をはじめ、議員法などの法律や皇室制度を定める基本法の制定、近代的な内閣制度や官僚組織の構築、宮中の制度や儀式の改革、さらには政策の立案と政権担当能力のある本格的な近代政党を目指した政友会の創立などを実現しました。

以上の功績から、伊藤博文は「日本の憲法制定の父」「議会政治の父」「政党内閣の父」などと称されるようになりました。

ちなみに、初代内閣総理大臣就任時の年齢は44歳で、首相就任時の最年少記録として未だに破られていません。

これだけ活躍した伊藤博文でしたが、最後は大韓帝国の民族運動家・安重根によって暗殺されてしまいました。

\伊藤博文に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

明治維新の第2世代|山県有朋

山県有朋(1838(天保9)〜1922(大正11))は、長州藩出身の内閣総理大臣などを務めた人物です。

幕末に奇兵隊に入隊し頭角を現すと、明治政府でも軍政家として手腕を奮います。大村益次郎の後継として、西郷隆盛の協力も得ながら軍制改革を行っていくのです。

徴兵制度(徴兵令)を取り入れたり、参謀本部の設置や軍人教育の根幹を定めた軍人勅諭の制定に関わったり、日本の近代軍隊を確立しました。

1890年に陸軍大将に昇進すると、日清戦争では第一軍司令官として出征、日露戦争では参謀総長として指揮を執りました。

また、その間、山県内閣を2回組閣し、伊藤博文と共に内政、外交、軍制の最高指導者として活躍しました。

そんな山県有朋の最後は、肺炎と気管支拡大症による病死でした。

また、山県有朋は日本陸軍の基礎を築いたことから「国軍の父」と称されています。

明治維新の人物には何故薩摩藩・長州藩出身が多い?

明治維新の中心人物には薩摩藩と長州藩の出身者が非常に多いです。
これは何故なのでしょうか?

このことには、2人の人物が大きく影響しているのです。
「島津斉彬」「吉田松陰」です。

島津斉彬は、薩摩藩藩主で、身分の低かった西郷隆盛を側近として登用し、活躍の場を与えた人物です。幼少の頃から外国の文化に強い関心を持っていた島津斉彬は、藩主に就任すると、日本を外国に負けない強くて豊かな国にするために、藩の近代化を進めます。

このように、強い信念を持ち日本の近代化を推し進めようとした島津斉彬の意志を、西郷隆盛をはじめとする薩摩藩の若者たちが受け継いだのです。

\島津斉彬に関してはこちらの記事でも詳しく解説しております/

吉田松陰は、若いときから兵法を学んでいたのですが、ペリー来航時に海外の兵力に圧倒され、今後は西洋の兵学を学ばなくてはならないと考えます。

世間が開国しようか悩んでいる最中に、真っ先に海外の技術を取り入れねばならないと考えたわけですね。

その後、密航しようとして失敗し投獄されるなどしたのですが、自宅に戻った吉田松陰は「松下村塾」を開塾。

ここに多くの若者が集まり、吉田松陰が教育していきました。

しかし、ここでの教育とは一方的に教えるというものではなく、吉田松陰が弟子たちと一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行う「生きた学問」であったと言われています。

こうして、松下村塾を通して

「今の日本にとって必要なものは何なのか」

ということを、吉田松陰と一緒に長州藩の若者たちは考えたのです。

これが後に明治維新のリーダーを生み出していくわけですね。

\吉田松陰に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

このように、薩摩藩では島津斉彬、長州藩では吉田松陰が、藩の思想的・精神的な柱となっていたのでした。

このことから、島津斉彬と吉田松陰の2人は「維新の父」と称されることもあります。

「真の攘夷」の意味をいち早く悟り、そのための行動を起こした2人の薫陶を受けた教え子たちが、明治維新のリーダーとなっていったのでした。

明治維新で活躍した人物たちが集合した写真がある?

フルベッキ群像写真

明治維新で活躍した人物たちはそれぞれ異なる藩出身であったりしますが、実はその人物たちが集合した写真が存在するのです。

その写真とは、1865年に撮影されたとされる「フルベッキ群像写真」です。

フルベッキ群像写真は、オランダ人宣教師・フルベッキ博士と勤王の志士たちが、西欧の状況や今後の日本の進む道などについて議論を交わした時に撮られたものだと言われています。

中には、この時点ですでに亡くなっていたのではないかとされる人物も写っているのですが、いずれにせよこれほどまでのそうそうたるメンバーが揃っている写真は他にはなく、この写真を評価している人たちも多くいるようです。

この写真に写っているとされている人物は以下のとおりです。

大村益次郎、桂小五郎、江副廉蔵、岩倉具経、岩倉具慶、広沢真臣、明治天皇、副島種臣、岡本健三郎、坂本龍馬、日下部太郎、横井左太平、横井太平、中岡慎太郎、大隈重信、岩倉具綱、ウィリアム・フルベッキ、フルベッキ博士、岩倉具定、高杉晋作、横井小楠、勝海舟、中野健明、中島永元、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、井上馨、品川弥二郎、伊藤博文、村田新八、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、別府晋介、中村宗見、川路利良、黒田清隆、鮫島誠蔵、五代友厚、寺島宗則、吉井友実、森有礼、正岡隼人、陸奥宗光

まとめ:明治維新の中心人物には薩摩藩・長州藩出身者が多かった

明治維新の中心人物には、島津斉彬と吉田松陰の影響を大きく受けた人物たちが多く参画していたため、薩摩藩・長州藩出身者が多くなりました。

今回の内容をまとめると、

  • 島津斉彬と吉田松陰の影響を受けた若者たちが明治維新のリーダーとなっていった
  • 明治維新の中心人物は、維新の十傑と呼ばれていた
  • 明治維新の十傑の中で、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人は維新の三傑と呼ばれている
  • 明治維新の中心人物には薩摩藩・長州藩出身者が多い

維新の十傑は、木戸孝允、小松帯刀、岩倉具視を除く7人が暗殺や刑死などで命を落としています。

それほどまでに、彼らが行った改革というのは画期的すぎて反発を買いやすかったということなのでしょう。しかし、彼らが命をかけて改革してくれたおかげで、今の社会が存在しています。そう考えると、彼らには感謝せざるを得ません。

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