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長州藩はどこ?藩主は?何をした?なぜ討幕の中心人物は長州藩出身者が多い?

長州藩は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした、外様大名・毛利家を藩主とする藩です。幕末には、薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力ともなりました。

そんな長州藩とは、現在のどこにあたるのでしょうか?
また、なぜ討幕運動の中心となっていったのでしょうか?
この記事では、長州藩について簡単に解説していきます。

長州藩をわかりやすく解説!

長州藩は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした藩でした。

それは、現在のどこにあたる場所なのでしょうか?

また、藩主は誰なのでしょうか?

ここでは、長州藩について簡単に解説していきます。

長州藩はどこ?

長州藩があった場所は、現在の山口県です。
ちなみに、周防国は現在の山口県東南で、長門国は現在の山口県西半分にあたります。

そして、長州藩の中心であった藩庁は、現在の山口県北部にある日本海に面した地である萩市にあった萩城に置かれていました。このため、長州藩のことを萩藩と呼ぶこともあります。

また、幕末になると藩庁を現在の山口市にあたる山口城に移し、今度は周防山口藩とも呼ばれるようになったのです。

長州藩の藩主は?

長州藩の藩主は、毛利氏です。

毛利氏は、元々安芸国吉田(現在の広島県)を本拠とする戦国大名であり、中国地方8カ国を領有する120万石の大名でした。しかし、1600年の関ヶ原の戦いにて敗戦し、周防・長門の2国に減封されたのです。そして、関ヶ原の戦いの責任を取らされた毛利輝元は隠居させられ、嫡男・毛利秀就が初代藩主に就いたのでした。

毛利氏の藩主は、廃藩置県で長州藩が無くなるまで続きました。

【長州藩の歴代藩主】

  • 初代:毛利秀就
  • 2代:毛利綱広
  • 3代:毛利吉就
  • 4代:毛利吉広
  • 5代:毛利吉元
  • 6代:毛利宗広
  • 7代:毛利重就
  • 8代:毛利治親
  • 9代:毛利斉房
  • 10代:毛利斉熙
  • 11代:毛利斉元
  • 12代:毛利斉広
  • 13代:毛利敬親
  • 14代:毛利元徳

長州藩の支藩は?

長州藩には、支藩と呼ばれる藩主の毛利一族が治めていた藩がありました。それは、「長府藩」「徳山藩」「岩国藩」の全部で3藩あります。

長府藩は、現在の山口県下関市長府にあたる位置にあった藩です。

戦国大名・毛利元就の4男・穂井田元清の系統の人物が藩主を務めていました。毛利輝元の直系が途絶えた後、この家から本家の養子に入り、長州藩主となりました。その系統は、幕末まで断絶しなかったそうです。

徳山藩は、現在の山口県下松市にあたる位置にあった藩です。

こちらは、長州藩の始祖・毛利輝元の次男である毛利就隆の系統が藩主を務めていました。

岩国藩は、現在の山口県岩国市にあたる位置にありました。

こちらは、毛利輝元のいとこである吉川広家の系統が藩主を務めていました。そのため、長府藩や徳山藩とは異なり、本家からは家臣扱いされ、支藩とはあまりみなされなかったようです。

長州藩は幕末に巨万の富を得た?

長州藩は、大減封されていたため、藩財政は当初からとても厳しいものでした。

さらに、1831年には10万人を超える農民に寄る大規模な長州藩天保一揆が起こり、非常に藩財政は厳しくなります。

そこで、なんとかしようと1836年に毛利敬親が藩主になると、村田清風を登用します。この村田清風が行った「天保の改革」では、諸外国との交易や新田開発などに力を入れ、なんと100万石もの収入を得るのです。

こうして、長州藩は富国強兵を推進することができ、武器鋳造にも力を入れていたため、財政と軍事面で強固なものとなりました。これが、討幕に大きく影響してくるのです。

長州藩にはなぜ討幕の中心人物が多い?

長州藩は、幕末に薩摩藩と同盟を結び、討幕運動の中心となっていきました。

なぜ討幕の中心となっていったのでしょうか?

ここでは、長州藩が討幕の中心となっていった理由を簡単に解説していきます。

吉田松陰の影響を受けた?地理的な問題?

長州藩が討幕の中心となっていった理由は、大きく分けて2つあります。

1つは、長州藩の教育が充実していたということ。

もう1つは、長州藩の地理的な問題があります。

長州藩は、非常に人事育成に熱心な藩で、1719年には5代藩主・毛利吉元が全国で12番目の藩校である「明倫館」を創設します。

この明倫館では、受講資格が一定の身分のある藩士の弟子のみでしたが、ここで学んだ者が自ら郷校や私塾を開き、さらにそこで学んだ者が寺子屋を開き庶民に教えるという教育のサイクルが出来上がります。

その流れで、開かれた私塾「松下村塾」は、吉田松陰が長州藩の若者たちに大きな影響を与えていくことになります。

吉田松陰は、世間が開国しようか悩んでいる最中に、真っ先に海外の技術を取り入れねばならないと考えていました。そして、松下村塾で弟子たちと一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行う「生きた学問」を行います。

こうして、松下村塾を通して

「今の日本にとって必要なものは何なのか」

ということを、吉田松陰と一緒に長州藩の若者たちは考えたのです。

ちなみに、この松下村塾の出身には、後に討幕運動などで活躍することになる、高杉晋作や久坂玄瑞などがいます。

また、長州藩は海に面していたため、欧米列強の船が海上を通過していくのがよく見えました。

そして、その技術力をその目でしかと見て、このままでは藩の未来はないと危機感を持つわけです。海は誰にでも見える場所にありましたから、藩全体の意識として危機感はあったのかもしれません。

こうして、長州藩の若者たちは尊皇攘夷であったり、討幕であったりを考える機会が多かったというわけですね。

長州藩出身の討幕の中心人物は?

・吉田松陰

吉田松陰(1830(文政13)〜1859(安政6))は、若いときから兵法を学んでいました。

しかし、ペリー来航時に海外の兵力に圧倒され、今後は西洋の兵学を学ばなくてはならないと考えます。そして、世間が開国しようか悩んでいる最中に、真っ先に海外の技術を取り入れねばならないと考えたのです。

その後、密航しようとして失敗し投獄されるなどしたのですが、自宅に戻った吉田松陰は「松下村塾」を開塾。長州藩の若者たちに大きな影響を与えました。

しかし、最後は安政の大獄に連座して斬首されてしまいました。

\吉田松陰に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/

・木戸孝允

木戸孝允(1833(天保4)〜1877(明治10))は、長州藩出身の維新の十傑の1人で、西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑にも数えられています。

幕末期には、桂小五郎の名で活躍しており、長州藩の中心的人物と言っても過言ではありませんでした。

同じ長州藩の高杉晋作らと共に尊王攘夷運動を行っていき、坂本龍馬の仲介を経て「薩長同盟」の締結も成功させます。

また、同盟締結後は、大久保利通らと協力して、王政復古の大号令にも関わりました。

明治政府誕生後は、右大臣の岩倉具視に認められ、政治における実質的な最終決定責任者となり、「五箇条の御誓文」「版籍奉還」「廃藩置県」「四民平等」など日本の近代化の上で重要な政策を数々実行していきました。また、大久保利通同様、岩倉使節団にも参加し、副使として活躍しています。

そんな明治維新に貢献していた木戸孝允ですが、最後は重症化した病気により病死してしまいました。

\木戸孝允に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/

・高杉晋作

高杉晋作(1839(天保10)〜1867(慶応3))は、幕末に尊王攘夷志士として活躍しました。

過激な発想や行動が多く、藩主・毛利敬親から何度も謹慎処分を受けましたが、奇兵隊の創設や第二次長州征伐での軍事的活躍などの多くの功績を残します。

最後は、肺結核により、わずか27年の生涯を閉じました。

\高杉晋作に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/

・久坂玄瑞

久坂玄瑞(1840(天保11)〜1864(元治元年))は、幕末における長州藩の尊王攘夷派の中心人物として活躍しました。

高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれ、長州藩を尊皇攘夷一色に染め上げました。そして、関門海峡を通行する外国船に向け砲撃し、日本で初めて攘夷を決行したことでも知られています。

禁門の変で最後まで奮戦しましたが、鷹司邸宅で自刃しました。享年25歳と、高杉晋作同様短い人生でした。

・大村益次郎

大村益次郎(1825(文政8)〜1869(明治2))は、長州藩士で維新の十傑の1人です。

19歳から蘭学を学び始めた大村益次郎は、様々な場所でその知識を吸収し一端の蘭学者となりました。

そして、1853年に四国の宇和島藩へと向かいます。

ペリー来航によって騒然とする世情を受け、伊達宗城が蘭学に達者な人材を求めたところ、かつての師であった緒方洪庵が大村益次郎を紹介したのです。

そこで兵学や蘭学を教えることになるのですが、さらに藩主直々の命令で軍艦建造にも着手します。このとき大村益次郎が完成させた「宇和島丸」は、日本人のみの力で建造した日本初の西洋式軍艦でした。

また、1858年には木戸孝允と出会い、奇兵隊の軍制改革を任され、長州藩の兵士の育成や最新武器の購入などを担当し、長州藩の軍を近代的な軍隊へと成長させるのです。

この後も長州征伐や戊辰戦争などで活躍し、明治維新への道を切り開き、明治政府誕生後は、兵部大輔に任命されました。

そこで様々な軍制改革を行うのですが、「武士=職業軍人」というあり方を否定する建言を行ったことで、不平士族に襲撃されてしまいます。

なんとか一命をとりとめたものの、傷は悪化してしまいそのまま亡くなってしまいました。

数々の軍制改革を実現したことから、大村益次郎は「日本陸軍の父」と称されるようになりました。

長州藩は江戸時代末期に朝敵になった?

長州藩は、実は江戸時代末期に朝敵とみなされていた時期があります。

それはなぜでしょうか?

ここでは、長州藩が朝敵となった理由を簡単に解説していきます。

長州藩は何をした?

長州藩は幕末に討幕運動の中心となっていました。討幕運動に向かっていった経緯は以下のとおりです。

  • 八月十八日の政変
  • 禁門の変
  • 第一次長州征伐
  • 薩長同盟

一つ一つ詳しく見ていきましょう。

・八月十八日の政変

下関事件などを起こし、過激な攘夷活動を行う長州藩に激怒した朝廷(孝明天皇)が、薩摩藩と会津藩に長州藩を京都から追放するように密命します。

これにより、長州藩や尊王攘夷派の公卿などは京都から追放され、尊王攘夷派は失権、そして、薩摩藩や会津藩などの公武合体派が中心となっていきました。これが八月十八日の政変です。

・禁門の変

八月十八日の政変により京都を追放された長州藩は、さらに行動が過激になっていきました。これを取り締まるために、幕府は「新撰組」を設置します。

これによって、幕府と尊王攘夷派の衝突はさらに激化していくのです。

その最たるものが、「池田屋事件」です。

池田屋事件では、京都の旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩や土佐藩の尊皇攘夷志士を新撰組が襲撃するということが起きました。

これに長州藩は激怒し、再び尊王攘夷派の復権を朝廷に求め、250人を超える遊撃隊を連れて入京。さらにそれを追って、長州藩兵3000人が伏見、嵯峨、山崎に布陣しますが、これを朝廷が拒否したため、御所の「蛤御門」の付近で武力衝突が起こりました。

これが禁門の変、もしくは蛤御門の変です。

長州藩は、会津藩兵に対して優勢でしたが、薩摩藩が加勢に駆けつけたことにより敗北してしまいます。

このときに長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾してしまったことや、長州藩主父子の軍令状が見つかったことにより、長州藩は朝敵とみなされるようになってしまったのです。

・第一次長州征伐

長州藩は、当時の攘夷運動と討幕運動の中心的存在でした。

その長州藩を倒すことにより、世間に力量を示そうとした幕府は、長州藩に対し「長州討伐令」を出します。これを「第一次長州征伐」と言います。

この戦いでは、勝海舟に説得された西郷隆盛が、条件付きの平和的解決を提案してきました。

条件は、三家老の処分、毛利藩主父子の詫び状提出、長州にいる5人の公卿を太宰府に移居するなどありました。

長州藩は、下関事件の報復として4カ国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)から攻撃を受けて窮地に立たされており、この条件を受け入れるしか無く、そのまま第一次長州征伐は戦わずして長州藩の敗北となったのです。

・薩長同盟

八月十八日の政変や禁門の変にて、対立を深めていた長州藩と薩摩藩でしたが、坂本龍馬の仲介により、倒幕するという目的は同じだとして同盟を結びます。これが「薩長同盟」です。

長州藩は、朝敵となってしまってから、自藩名義で国内外における武器購入を禁じられていましたが、この同盟により薩摩藩名義でイギリスの武器を購入することが可能となり、裏で着々と討幕のための武力を蓄えていきました。

そして、これらが功を奏し、第二次長州征伐では、長州藩は幕府に勝利することになるのです。

薩摩藩との関係は?なぜ薩長同盟は結ばれた?

先程もお伝えしたように、長州藩と薩摩藩は、八月十八日の政変や禁門の変があった関係で、険悪な仲でした。

それなのに、なぜ険悪な仲の両藩が同盟を結ぶことになったのでしょうか?

薩長同盟が実現したのには、一重に坂本龍馬の功績が大きいです。

坂本龍馬は、お互いの藩が必要としているものに目をつけました。

長州藩は、朝敵となってしまった関係で朝廷や幕府から監視されており、自藩名義で武器を購入することを禁じられていました。

力をつけたい長州藩は、武器を必要としていたのです。

そして薩摩藩は、薩英戦争をきっかけにイギリスから秘密裏に武器を購入していたので、同盟を結べば、薩摩藩名義で長州藩用の武器を購入することができるとメリットを提示しました。

一方で薩摩藩は、討幕をしなくてはならないと考えたものの、矢面には立ちたくないと考えていました。

そこで、

  • 長州藩と同盟を結ぶことで、長州藩が代わりに矢面に立ってもらえる
  • 長州藩に、兵糧米用意させることができる

というメリットを提示します。

このように、元々お互いの目的が討幕と一致していたところに、利害まで一致したので、坂本龍馬の熱心な説得も相まって、薩長同盟が無事に結ばれたのでした。

まとめ:長州藩は現在の山口県で、討幕に大きく貢献した

長州藩は、現在の山口県にあたる場所に位置していました。その地理的要因や、藩の人事育成により、尊皇攘夷思想や討幕思想が活性化され、後に討幕に大きく貢献した藩になりました。

今回の内容をまとめると、

  • 長州藩は、周防国と長門国を領国とする毛利氏を藩主とした藩
  • 場所は、現在の山口県
  • 地理的要因や松下村塾の影響で、討幕運動の中心となっていった
  • 一時は朝敵となっていたこともあった

記事で挙げた人物以外にも、長州藩は伊藤博文や山県有朋といった、明治維新にて活躍した人物たちも輩出しています。それほどまでに、この藩の教育レベルは高かったということなのかもしれませんね。

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