豊臣秀吉の子孫は途絶えた?現代にも続いている?子供、血脈からだどる豊臣の末裔
貧しい農民の出から、天下統一という日本史上最大の出世をした豊臣秀吉。
豊臣秀吉は、正室の寧々との間に子供はできず、多くの側室と関係を持ったわりには子宝に恵まれませんでした。
秀吉の死後、家督を継いだ豊臣秀頼とその一族は徳川家康によって滅ぼされてしまいました。
豊臣秀吉の子孫は完全に途絶えてしまったのでしょうか?
今回は、豊臣秀吉の子孫は完全に途絶えてしまったのか?秀吉の子供や血脈から、豊臣家の末裔は本当に滅亡してしまったのかについて見てきます。
目次
豊臣秀吉の子孫は途絶えている?
豊臣秀吉と正室の寧々との間には子供ができなかったようです。
そのため、秀吉は血筋の良い名家や大名家の娘を側室にし、なんとか跡取りを作ろうとしたようですが、その割には子供の数は少なかったようです。
豊臣秀吉には、子供は何人いたのでしょうか?また、その子供たちはどのような人生を送ったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
家系図で見る、豊臣秀吉の子供たち
数多くの女性と関係を持っていた豊臣秀吉は、20人もの側室がいたといわれています。
その側室との間には2人の子供が生まれています。しかし、時は戦国時代、いつどんな理由で命を落とすかわからない時代です。そこで、豊臣家の存続を願っていた豊臣秀吉は、養子を多く迎え入れています。
豊臣秀吉の実子と養子を見ていきましょう。
【豊臣秀吉の実子】
・鶴松(第一子):母親(側室) 茶々
1589年(天正17年5月27日)〜1591年(天正19年8月5日)
・豊臣秀頼(第二子):母親(側室・茶々)
1593年(文禄2年8月3日)〜1615年(慶長20年5月8日)
【豊臣秀吉の養子】
・豊臣秀次:母親(豊臣秀吉の姉・智)
1568年(永禄11年)〜1595年(文禄4年)
・豊臣秀勝:母親(豊臣秀吉の姉・智)
1569年(永禄12年)〜1592年(天正20年)
・羽柴於次丸秀勝:母親(織田信長の側室・養観院)
1569年(永禄12年)〜1586年(天正13年)
・羽柴秀康:母親(徳川家康の側室・長勝院)
1574年(天正2年)〜1607年(慶長12年)
・羽柴秀俊(小早川秀秋) 母親:雲照院
1582年(天正10年)〜1602年(慶長7年)
※秀吉の正室 寧々の実兄・木下家定の子
・羽柴秀家(宇喜多秀家) :円融院
1572年(元亀3年)〜1655年(明暦元年)
※備前国の戦国大名・宇喜多直家の子
・八条宮智仁親王 母親:勧修寺 晴子
1579年(天正7年)〜1629年(寛永6年)
※誠仁親王の子
豊臣秀吉が亡くなった時に残っていた豊臣秀吉の子供は、豊臣秀頼・ 羽柴秀康・羽柴秀俊(小早川秀秋)羽柴秀家(宇喜多秀家)、八条宮智仁親王の5人でした。
豊臣秀吉家系図に関して、こちらの記事に詳しくまとめてあります。
豊臣秀吉の死因や、最後の姿に関して、こちらの記事に詳しくまとめてあります。
豊臣秀吉の死後、豊臣家はどうなった?
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、豊臣秀頼はわずか6歳で豊臣家の跡を継ぐことになりました。
自身の死期を悟った豊臣秀吉は、五代老や徳川家康に「秀頼が成人するまでの間、政治を徳川家康に託す」とし、豊臣家の存続を託しています。
しかし、徳川家康は征夷大将軍を就任してから僅か2年後、息子の徳川秀忠に第2代・征夷大将軍を譲り、豊臣家への裏切り行為を行います。
これに反発した豊臣陣営は、大阪冬の陣・夏の陣で徳川軍と争いますが、徳川軍の勢いには敵わず、豊臣秀頼は母・淀殿と共に大阪城で自害しました。
豊臣秀頼には、国松と奈阿姫という2人の子供がいました。
大阪冬の陣で敗北を悟った豊臣秀頼は、当時8歳だった国松を大阪城の場外へ逃しますが、徳川軍に捕まり、市中を引き回され、斬首されたと言われています。
奈阿姫は、徳川家康の孫娘にあたります。豊臣秀吉の血脈を存続させることを恐れた徳川家康でしたが、娘である千姫(豊臣秀頼の正室)に懇願され、千姫の幼女となり出家させることを条件として命を助けられています。
出家した奈阿姫は子供をもうけることはなく、ここで豊臣秀吉の血を引くものは途絶えました。
豊臣秀吉の死因や、最後の姿に関して、こちらの記事に詳しくまとめてあります。
豊臣秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼の最後
豊臣秀吉の死後、豊臣秀頼は僅か6歳で家督を継ぎました。
そこで、豊臣秀吉が秀頼が成人するまでの間、政治を託したのが徳川家康です。
1600年(慶長5年)、東軍・徳川家康派と西軍・石田三成派の”関ヶ原の戦い”が起こり、勝利した徳川家康は、豊臣政権が持っていた領地220万石を東軍の諸大名に分布し、豊臣秀頼の領地はわずか65万石となってしまいました。
この戦いで、徳川家康は400万石の大名となりました。
そして、1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に就任します。その後、1605年(慶長10年)には、実子である徳川秀忠に将軍職を譲り、徳川家による将軍職の世襲を公にしました。
徳川家康による裏切りにより、豊臣家と徳川家の立場は逆転します。
しかし、豊臣家には秀吉から受け継いだ莫大な資産が大阪城にあり、豊臣秀頼が兵を雇い、幕府に反旗を翻す可能性があることを、家康は気にしていました。
そこで家康は、豊臣家を五摂家と同様に公家扱いにし、寺社の再建などを勧めて、資金を使わせようと画策します。
再建した方広寺の鐘銘の中に、不適切な言葉があると言い掛かりをつけ、大仏殿の開眼供養祭を差し止め、秀頼に大阪城からの退城を求めました。
さらには豊臣側が不当に浪人を雇い大阪城に入れていると宣戦布告し、20万の軍勢で大阪城を包囲します。
大阪冬の陣の始まりです。
一旦、茶々が和睦を承諾しますが、豊臣側が再び反撃したため、徳川側が大阪城を攻め、大阪夏の陣が勃発しました。
豊臣側は籠城が難しくなり、果敢に出撃しましたが、徳川側の勢いには勝てず徳川軍の勝利。
豊臣秀頼は、1615年(慶長20年)に、母・茶々と共に大阪城で自害しました。
徳川家康は豊臣家を滅亡させたのか?
豊臣秀吉の実子である豊臣秀頼の自害、秀頼の息子の国松は斬首となり、豊臣秀吉直系の血筋は完全に途絶えてしまいました。
しかし、斬首されたと言われている国松は実は生き延びたという説があります。詳しく見ていきましょう。
豊臣秀頼の子供 国松は生き延びたのか?
豊臣秀頼の息子 国松は、備中島につながる抜け道を使い大阪城から抜け出したという説があります。
備中島には、豊後(大分)の日出藩の藩主だった木下延俊が陣地を構えており、真田信繁の子の真田幸昌とともに逃げて薩摩に落ち延びたと言われているのです。
木下家は秀吉の正室・ねねの実家です。
国松はその後、九州・薩摩で島津氏にかくまわれた後、木下延俊の4男・木下延由として生きてきたのではないかと言われています。
根拠としては、延由は四男にも関わらず日出藩領3万石のうち5千石を分け与えられています。
4男がこのような待遇を受けるのは異例のことです。
また、幕府から江戸幕府における旗本の家格の一つ”交代寄合”という参勤交代を義務付けられた上級旗本になっており、立石領の木下家は幕末まで続きました。
そして、4男・延由の子孫は明治維新後、名字を豊臣に戻し、秀吉の子孫を名乗ったといわれています。
しかしあくまでも説なので、本当のところはわかっていません。
大阪城に抜け道があり、そこから脱出して生き延びたというのは、都市伝説としては面白そうですが、大阪城はのちに徳川家康によって大幅改修されており、その証拠を見つけるのは難しいかもしれませんね。
豊臣家の子孫は現代にも続いている?
豊臣秀吉の実子、豊臣秀頼とその息子の国松は亡くなり、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えました。
しかし、豊臣秀吉の姉の息子で、秀吉の養子となっていた豊臣秀勝には娘がおり、豊臣家の子孫を残しているのです。詳しく見ていきましょう。
豊臣の血脈は現代の天皇家にも続いている
豊臣秀吉の実姉・智(とも)の息子である豊臣秀勝は、豊臣秀吉の養子になっています。
その豊臣秀勝の娘、完子は九条幸家の正室となり完子は4男3女をもうけました。
【豊臣秀勝の娘 完子の子供】
・長男:二条康道(二条家第16代当主)
1607年(慶長12年)〜1666年(寛文6年)
・次男:九条道房(九条家第19代当主)
1609年(慶長14)〜1647年(正保4年)
・長女:序君
生没年不詳
東本願寺宣如光従室。琢如らの母
・次女:通君(西本願寺良如光円室)
1613年(慶長18年)〜1632年(寛永9年)
・三男:松殿道基(松殿家第12代当主)
1615年(慶長20年)〜1646年(正保3年)
・四男:栄厳(東大寺別当、随心院住持、大僧正)
1622年(元和8年)〜1664年(寛文4年)
・三女:日怡(瑞龍寺2世)
1625年(寛永2年)〜1664年(寛文4年)
完子の次男・九条道房の4女の待姫は、九条兼晴の正室になりました。
さらにその子孫にあたる九条節子が大正天皇の皇后になり、昭和天皇、平成、令和へと繋がっていきます。
つまり、ごく僅かですが、現在の天皇家にも豊臣家の血脈が受け継がれていることになります。
まとめ:豊臣秀吉の直系の子孫は途絶えたが、豊臣家の血脈は現代にも続いている
天下を統一し、最後まで豊臣家の存続を望んでいた豊臣秀吉。しかし、徳川家康によってその豊臣秀吉の直系の子孫は滅ぼされてしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 豊臣秀吉の死後、実子の豊臣秀頼が家督を継いだが、大阪夏の陣で自害した
- 豊臣秀頼の子の国松も、大阪夏の陣で斬首され豊臣秀吉直系の子孫は滅びた
- 国松の生存説もあるが、詳細は謎のまま
- 豊臣秀吉の養子、豊臣秀勝(三好秀勝)の娘 豊臣完子の血筋は、現代の天皇家に繋がっている
死の直前まで、豊臣家の存続を願っていた豊臣秀吉の願いは敵いませんでしたが、ごく僅かでも豊臣秀吉と同じ血筋が大正天皇から現代の天皇家へと受け継がれているのです。