徳川家康の年表を簡単に解説!主な戦い・政策・名言・晩年はどう過ごした?

徳川家康の年表を簡単に解説!主な戦い・政策・名言・晩年はどう過ごした?

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徳川家康(1542~1616)といえば、戦国三英傑のうちの1人で江戸幕府を開いたことで有名ですよね。この記事では、家康の主な戦い・政策を年表を見ながら解説していきます。約260年間も続くことになる江戸幕府を開き、天下統一をした家康とはどのような人物なのでしょうか?家康にまつわる名言や晩年はどう過ごしたかなども合わせてご紹介します。

徳川家康の歴史を年表でわかりやすく解説!

徳川家康とはどのようなことをしたのでしょうか?関ヶ原の戦いで勝利を収めたり、江戸幕府を開いたりとすごい功績を残してきた人物ですが、実は幼少期には人質となっていたこともあるのです。まずは年表を通して家康の歴史をおさえていきましょう。

徳川家康とくがわいえやす
幼名:竹千代たけちよ
出年:1542年〜1616年(享年75歳)
生誕地:三河国(現在の愛知県の東側)
父:松平広忠まつだいらひろただ|母:於大の方おだいのかた
正室:築山殿つきやまどの朝日姫あさひひめ
側室:長勝院ちょうしょういん西郷局さいごうのつぼねお梶の方おかじのかた雲光院うんこういん茶阿局ちゃあのつぼねなど、20人以上

徳川家康の年表

【徳川家康の年表】

1542年(天文11年)
松平広忠の嫡男として、三河国の岡崎城にて誕生

1547年(天文16年)
今川家に人質として送られる途中、織田家に奪われ尾張で人質となる

1549年(天文18年)
織田家と今川家の人質交換が成立したため、駿府へ移り、今川義元の人質となる
父・松平広忠が死去し、松平家当主になる

1555年(弘治元年)
今川氏の下で元服する
今川義元から偏諱を賜って、松平元信と称す
後に松平元康と名乗るようになる

1557年(弘治3年)
今川家の重臣・関口義広の娘で今川義元の姪である、築山殿と婚礼を行う

1560年(永禄3年)
桶狭間の戦い|今川勢の先鋒として出陣
→今川義元の死後、今川家から独立

1562年(永禄5年)
織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)

1566年(永禄9年)
三河国を統一して、松平姓を改め、徳川家康と名乗るようになる

1570年(元亀元年)
姉川の戦いに織田信長の援軍として参戦し、朝倉・浅井連合軍を破る
本拠地を遠江(現在の静岡県西部)に移し、浜松城を築城

1572年(元亀3年)
三方ヶ原の戦いにて、遠江の支配権をめぐり武田信玄と対決
→武田軍に大敗して逃げ帰る

1575年(天正3年)
長篠の戦いにて、織田信長とともに武田信玄の子、武田勝頼を破る
→功績として、信長から駿河を与えられる

1579年(天正7年)
織田信長の命令で正室・築山殿を殺害、嫡男・松平信康を切腹させる

1584年(天正12年)
小牧・長久手の戦いにて、織田信雄と組んで羽柴秀吉と対決
→戦には勝利するも、調略により秀吉が優位に立つことになる

1586年(天正14年)
上洛して豊臣秀吉に臣従
居城を駿府城へと移す

1590年(天正18年)
豊臣秀吉の、小田原征伐に参戦し勝利
→豊臣秀吉に関東への移封を命じられ、江戸に本拠地を移し、江戸城城主になる

1598年(慶長3年)
豊臣政権における五大老筆頭に任命され、実権を握るようになる
豊臣秀吉が亡くなり、その子である豊臣秀頼の後見を任される

1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いにて、石田三成率いる西軍に勝利し、事実上の天下人になる

1603年(慶長8年)
征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く

1605年(慶長10年)
三男・徳川秀忠に将軍の座を譲る

1607年(慶長12年)
駿府城へと移り、大御所として政治の主導権を握る

1614年(慶長19年)
大阪冬の陣にて、豊臣家を潰しにかかる
→和平を結び終結

1615年(元和元年)
大阪夏の陣にて、豊臣家を滅ぼす
武家諸法度や禁中並公家諸法度などを公布する

1616年(元和2年)
駿府城にて死去(享年75歳)

徳川家康の生い立ち|幼少期は人質として過ごした

家康の生い立ちはかなり苦労の多かったものでした。
徳川家康が3歳の頃に母親と生き別れになってしまいます。家康の母親は於大の方といって、水野忠政の娘でした。その水野氏が尾張の織田氏と同盟を組んだため、織田氏と敵対する今川氏に庇護されている家康の父・広忠は於大の方を離縁してしまったのです。

そして家康が6歳の時、家康は今川氏への人質として駿府に送られることになりました。
その駿府までの道中に立ち寄った田原城で裏切りにあい、今川氏の元ではなく、尾張の織田信秀おだのぶひで(織田信長の父)の下に送られてしまいます。
しかしそんな状況でも、広忠は今川氏への従属を貫き、家康はそのまま人質として2年間尾張国に留め置かれるのです。

広忠が死去後、今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広おだのぶひろとの人質交換によって家康を取り戻します。
ここからは今川義元の人質として駿府に移るのです。その後は、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討れるまで、今川家の配下におかれました。
織田信長の名声を世に轟かせた桶狭間の戦いは、家康が今川家から独立することができた戦いでもあったのです。

徳川家康は何をした人?

徳川家康がしたことといえば、江戸幕府を開いたと思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
でも実は家康は、それ以外にも様々なことを行っています。ここでは家康が何を行っていたのかをご紹介していきます。

徳川家康の主な政策

徳川家康の政策というのは、徹底した権力統制をするためのものと言えます。家康の行った主な政策は、

  • 諸大名の配置換え
  • 大御所政治(二元政治)
  • 一国一城令
  • 武家諸法度
  • 禁中並公家諸法度
  • 寺院法度

です。それぞれ詳しくみていきましょう。

【諸大名の配置換え】
関ヶ原の戦いに勝利し、実質的な天下人になってからまず行ったのは、諸大名の配置換えです。
大都市(江戸、大坂)の周辺や交通の要地には、親藩(徳川一族)や譜代大名(昔からの徳川家の家臣)を配置し、それ以外の外様大名(主に関ヶ原の戦い以降に味方になった大名)は遠国へ転封しました。
この配置換えによって、裏切る可能性の高い外様大名が反乱を起こしたとしても、すぐに大都市に攻めてこれないようにしたのです。

【大御所政治(二元政治)】
徳川家康は、将軍職に就いてわずか2年でその座を息子の秀忠に譲ります。
これは、徳川氏が将軍を世襲していくのだと天下に示すためでした。ただし、将軍の座を譲った家康でしたが、この後も居城を駿府城へと移して政治の実権を握り続けています。
このことを大御所政治といい、江戸と駿府に政権があったことから二元政治とも言います。

【一国一城令】
豊臣家が滅亡した後に、一国一城令を発令します。
一国一城令とは、西国大名に対して「居城以外の城を持ってはいけないよ」というもので、居城以外の城を破壊させることによってその軍事力を一気に弱めました。

【武家諸法度】
武家諸法度とは、幕府が諸大名の統制のために制定した基本法です。これにより、大名同士が勝手に婚姻を結んだり、新しい城を作ったりすることを禁じました。

【禁中並公家諸法度】
統制したのは大名だけではありません。政権を揺るがす可能性があるものは徹底的に統制するということで、朝廷にも統制を行っていきます。禁中並公家諸法度を定め、朝廷を運営する在り方を明らかにし、天皇や公家の生活、公家の席次や昇進にまで規制を加えました。

【寺院法度】
比叡山や高野山の僧兵、一向門徒といった仏教勢力も、当時は大名を脅かす存在でした。
そのため家康は寺院法度を定めて、寺社・仏教勢力についても統制をしました。宗教関係では、後にキリスト教の信仰も禁じています。

このように、徳川家康が行った政策は徹底した権力統制をするためのもので、このおかげで江戸幕府の政治基盤がしっかりとできたと言っても過言ではないでしょう。

徳川家康の主な戦い

徳川家康が天下取りに動き始めてからの主な戦いは5つあります。

  • 姉川の戦い
  • 三方ヶ原の戦い
  • 長篠の戦い
  • 小牧・長久手の戦い
  • 関ヶ原の戦い

それぞれ詳しく見ていきましょう。

【姉川の戦い】
姉川の戦いは、徳川家康が初めて経験する大会戦でした。
織田信長と連合を組み、浅井・朝倉連合軍を破りました。この戦によって、織田家の同盟者として有力な与力大名であること知らしめることができ、以後の躍進の足掛かりともなった価値のある出兵となりました。

【三方ヶ原の戦い】
武田信玄との戦になります。結果的に、徳川・織田連合軍は大敗してしまい、家康は命からがら浜松城へと帰還します。家康はそのときの自分自身の情けない姿を絵師に描かせ(しかみ像)、生涯自分の慢心の戒めとして持っていたようです。大敗北を喫した家康でしたが、武田軍も認める家康軍(三河武士)の奮闘ぶりが世の中に知れ渡るきっかけとなりました。

【長篠の戦い】
武田信玄の息子である武田勝頼と戦った、長篠の戦い。
この戦では、徳川・織田連合軍は馬防柵と足軽鉄砲隊を駆使して、武田の騎馬軍団を打ち破ります。
この長篠の戦いでの敗北で、武田家の衰退が決定づけられ、家康は三河から武田の脅威を排除することができました。一方、織田信長は上方の反織田勢力への攻撃を開始することができ、天下取りへの道が開けた戦いとなったのです。

【小牧・長久手の戦い】
1582年(天正10年)、本能寺の変にて織田信長が暗殺され、豊臣秀吉が後継者として躍り出ます。
そのことをよく思わなかったのが、織田宗家の生き残りである織田信雄です。
この信雄が豊臣秀吉に反旗を翻し、徳川家康に助力を求めてきたことで小牧・長久手の戦いがおこります。
家康は、情報戦においては秀吉に上回っていました。
しかし秀吉は、途中から信雄への調略に方向転換し、そして、信雄も家康に相談することなく秀吉と和議を結んでしまいます。
織田信雄と豊臣秀吉が和解したことで、戦う理由も無くなり、呆れた家康は兵を退いて三河に引きあげます。
小牧・長久手の戦いは、戦闘は家康の完勝でありながら、政治力で秀吉に負けたとされています。
この後2年以上抵抗しますが、家康はこの戦いで秀吉の政治力の凄さを見せつけられたため、秀吉に臣従して最大の協力者となっていきます。

【関ヶ原の戦い】
徳川家康の天下の体制を決定づける戦いとなったのが、関ヶ原の戦いです。
石田三成率いる西軍と戦うのですが、結果としては家康の率いる東軍の圧倒的勝利に終わります。
何故家康が勝てたのかと言うと、戦が始まる前に西国大名に調略を仕掛けて、大多数を東軍に寝返らせることに成功していたからでした。この戦によって、徳川家に逆らおうとする勢力はほとんどいなくなり、天下人への道を確かなものにすることに成功したのでした。

徳川家康の生涯戦績は、戦歴(51戦31勝13敗7分)です。

徳川家康の性格はどうだった?

天下を統一までした家康ですが、その性格はどのようなものだったのでしょうか?
徳川家康のあだ名には、「狸親父」というのものがあります。このことから家康は、優しい顔をして裏では腹黒いことをするような人物であったと伺えますね。


徳川家康と織田信長、豊臣秀吉を現した言葉

戦国三英傑と呼ばれている、織田信長豊臣秀吉徳川家康の3人の性格を現した言葉があります。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(織田信長)
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」(豊臣秀吉)
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」(徳川家康)

この言葉におけるホトトギスは、天下統一を邪魔するものの喩えです。
織田信長は、裏切り行為は絶対に許さずに残忍に誰でも殺戮していく様子が詠われ、豊臣秀吉は、農民からの下剋上で天下人になった、それまでの知恵と容量の良さが詠われています。
そして、徳川家康は、とにかくチャンスを待ち、あまり戦わずして天下をとった様子が詠われていました。

このことから、徳川家康は辛抱強くチャンスを待つだけの我慢強さがあり、好機を逃さない嗅覚を持っていたことが伺えます。

徳川家康は晩年をどう過ごした?

当時としては、長生きに当たる75歳まで生きた家康ですが、晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?

徳川家康は64歳のときに将軍職を息子の徳川秀忠に譲っています。
そのまま隠居するのかと思いきや、その後は大御所として実権を握ったまま全国をコントロールし続けるです。
家康は隠居したかと見せかけて、大胆な政策を縦横無尽に展開していきました。つまり、この時期は江戸には秀忠政権が、駿府には家康政権が同時に存在していたことになります。(二元政治)

徳川の天下を盤石なものにするために、隠居することなく最後まで政治の世界に居続けた人と言っても過言ではないでしょう。

徳川家康の死因は天ぷら?

徳川家康が長生きしたのは、家康本人が健康オタクだったことが関係している可能性が高いです。
天下統一した後も、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩そうとはしませんでした。
決して過食することのないように留意し、麦飯と魚を好んで食べていたようです。

それだけではなく、薬草の種類についても詳しく、自ら薬を調合して飲んでいたという話もあります。その知識は専門家も驚くほどのものだったそうです。

そんな徳川家康の死因は、長年鯛の天ぷらを食べたときに食中毒になったことだとされてきました。
しかし、近年の研究ではそれは間違いであったと見直されてきています。食中毒に代わって主流の死因となっているのは、胃がんです。

徳川実紀』によると、徳川家康の症状は
「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」
とされており、これは胃がん患者に多く見られる症状なのです。
いくら健康に気を使っていても、病気には勝てなかったということですね。

まとめ:徳川家康は人質から天下を統一した苦労人だった

徳川家康の人生は、人質から始まり、ひたすら耐え忍んで好機を待ち続けた波乱万丈な人生であったことがわかりましたね。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康は、幼少期は今川氏や織田氏の人質であった
  • 織田信長と組んだことによって、着実にその名声を伸ばしていった
  • 豊臣秀吉とは戦をして勝利を収めるも、政治力で負けたため臣従することにした
  • 豊臣秀吉が死去後、関ケ原の戦いや大阪夏の陣・冬の陣を通して、実質的な天下人となった
  • 江戸幕府を開いてわずか2年で将軍の座を譲り、徳川家が世襲していくのだと知らしめた
  • 将軍職を譲った後は駿府へと移り、大御所として実権を握ったまま全国をコントロールしていた

ホトトギスの句にもあるように、家康は天下を取るためにひたすら好機を待ち続けました。その戦況を冷静に見極める分析力、自分が天下を取るためであれば、妻をも殺すことのできる冷徹さ、好機を逃さないために少しでも長生きしたことなど、色々な要素が家康を天下人へと押し上げたのでしょう。

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