土方歳三の年表を簡単に解説!何した人?性格は?子孫はいるの?最期の姿は?
土方歳三は、幕末に活躍した新撰組において、鬼の副長と呼ばれた人物です。幕末の混乱の中を戦い抜いた戦士として、現在でも非常に高い人気があります。
2004年に放送された大河ドラマ「新選組!」では、土方歳三を俳優の山本耕史さんが演じて好評を得ました。
その人気は「新選組!!土方歳三最期の一日」として続編が放送されるほどです。
2021年には司馬遼太郎原作の、土方歳三が主人公である歴史小説「燃えよ剣」が、岡田准一さん主演で映画公開されます。今回は、現代でも根強いファンがいる新選組鬼の副長と呼ばれた土方歳三について、年表形式をもとに、簡単に解説していきます。土方歳三は何をした人なのか?性格はどうだったのか?子孫はいるのか?最期の姿はどうだったのか?見ていきましょう。
目次
土方歳三の年表を簡単に解説!
【土方歳三の年表】
- 1835年(天保6年)0歳
多摩群石田村に生まれる - 1851年(嘉永4年)16歳
後の新撰組局長・近藤勇と出会う - 1859年(安政6年)24歳
天然理真流に入門 - 1863年(文久3年)28歳
浪士組に応募し、京都へ赴く
同年、新撰組が結成される - 1864年(文久4年)29歳
池田屋事件が起こる
新選組の活躍が評価され、恩賞が与えられる - 1868年(明治元年)33歳
鳥羽伏見の戦いに敗れ、近藤勇が処刑される
土方歳三は江戸へ撤退 - 1869年(明治2年)34歳
箱館戦争にて戦死
土方歳三は新撰組のメンバーの中でも、「鬼の副長」と呼ばれ、非常に人気のある人物です。
幕末という激動の時代を生き、最後まで戦い抜いた末に35歳という若さで亡くなっています。
新撰組については、こちらの記事でも詳しく解説しています。
>>新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!>>
>>新撰組の主要人物を簡単に解説!メンバーの性格や刀、最後まで生き残ったのは?>>
土方歳三はどんな人?性格がわかるエピソードをご紹介!
土方歳三
- 出身地:多摩群石田村(現在の東京都日野市)
- 生年月日:1835年(天保6年)~1869年(明治2年)
- 父:土方義諄(?~1835年(天保6年))
- 母:恵津(?~1840年(天保11年))
- 妻:無し
- 子供:無し
土方歳三はイケメンで、大変女性にもてましたが、直系の子孫はいませんが、土方家は現在も続いています。
土方歳三の兄・喜六(?~?)から数えて6代目の子孫の、土方愛さん( 1971年(昭和46年)~)が「土方歳三資料館」館長として資料の保存や資料館の運営を行っています。
土方歳三はやんちゃで「バラガキ」と呼ばれていた
土方歳三は多摩郡石田村(現在の東京都日野市)にある豪農の家庭に生まれました。
幼いころは非常にやんちゃで、風呂上がりに裸のまま家の大黒柱で相撲のけいこをしていたそうです。
そのやんちゃぶりから、イバラの様に所構わず引っ掻く「バラガキ」というあだ名がついたほど。
10代では二軒の呉服屋に奉公に出ますが、どちらも問題を起こして長く続かなかったようで、なかなかのやんちゃ具合だったことが伺えます。
このバラガキという言葉は、司馬遼太郎原作の歴史小説「燃えよ剣」でも使われています。
この「燃えよ剣」は土方歳三の生涯を描いており、2021年10月に、岡田准一さん主演で映画公開される予定です。
土方歳三はイケメンだった
土方歳三で検索すると出てくるのは、マフラーを首にまき、軍服に佩刀している写真です。
この写真を見て分かるように、非常に整った顔立ちで、女性にもとてももてていました。
実際、京都では多くのラブレターを貰っていたそうです。
しかも、そのラブレターを「婦人恋文」という冊子にまとめ、親戚に送って自慢していたとか。
硬派なイメージの土方歳三ですが、貰ったラブレターを自慢するとは、中学生男子のようで意外な一面ですね。
土方歳三は新撰組の「鬼の副長」と呼ばれるほど強かった
土方歳三は、「鬼の副長」の異名を持っています。
実際、『武術英名録』という剣術家を収録した書物に『土方歳三』の名が掲載されており、実力を持った人物だったことが伺えます。
新撰組は血気盛んな猛者たちが集う集団でした。
新撰組内には、様々な決め事があり、戦闘になったときに突入する順番まで決められた「死番制度」というものまであったそうです。
土方歳三は、新撰組内のルールを犯した人物には、容赦なく粛清を行うことで恐れられていました。
猛者たちが集う新撰組をまとめるためには、あえて嫌われ役になる「鬼」になる役をかって出たのかもしれませんね。
新撰組については、こちらの記事でも詳しく解説しています。
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>>新撰組の主要人物を簡単に解説!メンバーの性格や刀、最後まで生き残ったのは?>>
土方歳三は何をした人?業績を簡単に解説!
土方歳三が新撰組のメンバーであることは多くの人が知っていますが、具体的にどのような活動をしていたのでしょうか?
土方歳三が成し遂げた業績を簡単に解説していきます。
【土方歳三の業績】
- 新撰組の副長として、京都の治安維持に貢献した
- 局長の近藤勇(1834年(天保5年)~1868年(慶応4年))が亡くなった後も、新政府軍と戦い続けた
土方歳三は新撰組の鬼の副長として、京都の平和維持のため活躍した
土方歳三は、新撰組のルールを犯した者には容赦なく粛清を行う「鬼の副長」として恐れられていました。
当時の京都は、 倒幕派の浪士たちが活発に活動し、暗殺が多発するほど治安が悪くなっていました。
そんな中、新撰組の名を有名にしたのが1864年(文久4年)に起こった池田屋事件。
新撰組は討幕派の浪士たちが潜伏していた池田屋を襲撃し、京都を焼き討ちにしようとしていた計画を阻止することに成功しました。
その他、土方歳三は新撰組の副長として、以下の出来事に関わっています。
- 1863年(文久3年)大和屋焼き討ち事件
生糸問屋大和屋の対応に激怒した新撰組・芹沢鴨(?~1863年(文久3年))が大和屋を焼き討ちし、新撰組処分へとつながった。 - 1864年(文久4年)禁門の変
幕府や新撰組への不満が高まり、長州藩が挙兵した。 - 1867年(慶応3年)大政奉還
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返した。 - 1867年(慶応3年)油小路事件
新選組と御陵衛士(孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織)の抗争
池田屋事件の際は、先陣を切って突入していた沖田総司:1842年(天保13年)~1868年( 慶応4年)が病で倒れ、窮地に陥っていたところに土方歳三の隊が現れ、新撰組のピンチを救いました。
新撰組については、こちらの記事でも詳しく解説しています。
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土方歳三は新政府軍と戦いづつけた
1867年(慶応3年)、大政奉還が行われるとともに王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は事実上終焉を迎えました。
薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍は、徳川慶喜:1837年(天保8)~1913年(大正2年)ら旧幕府軍を敵として攻撃し戊辰戦争が勃発します。
旧幕府軍の部下だった新撰組も、新政府軍と戦うことになりました。
しかし、新政府軍の武力に歯が立たず、新撰組局長の近藤勇が処刑されます。
それでも土方歳三は諦めず、会津藩(仙台)に移動し、戊辰戦争:1868年(慶応4年/明治元年)~1869年(明治2年)、会津戦争:1868年(慶応4年/明治元年)、箱館戦争:1868年(慶応4年/明治元年)~1869年(明治2年)と、戦い続けたのです。
土方歳三の最後は戦死
新撰組局長であった近藤勇が処刑された後も、新政府軍と戦い続けた土方歳三ですが、最後は敵の銃弾に倒れてしまいます。
土方歳三がどのような最期を迎えたのか見ていきましょう。
土方歳三の最期の姿。死因は?
会津藩(仙台)に移動し新政府軍と戦っていた土方歳三でしたが、敗戦の色は濃厚になっていきました。
そんな中、土方歳三は蝦夷地(北海道)に渡り、箱館にある五稜郭にて新政府軍と戦いました。
劣勢の中、土方歳三は
「我この柵にありて、退く者を斬る」
と叫んだそうです。
意味は「劣勢の中で逃げてくる味方たちは切り捨てる」。
どんな時でも戦う姿勢を崩さなかったことがわかる言葉です。
しかし、土方歳三の奮闘もむなしく乱戦の最中に馬上で敵の銃弾を受け、亡くなります。享年35歳。
土方歳三の死をもって新政府軍と旧幕府軍の戦い・戊辰戦争(箱館戦争)が集結しました。
土方歳三の都市伝説
幕府のため・仲間のために戦い、北海道の地で敵の銃弾に倒れた土方歳三。
しかし、土方歳三の死については都市伝説となっている話があります。
土方歳三は、箱館戦争では死んでない?
土方歳三は箱館の五稜郭にて敵の銃弾に倒れ、そのまま亡くなったとされています。
土方歳三が亡くなった場所に近い若松緑地公園には、土方歳三最期の地碑が立てられています。
しかし、土方歳三は箱館戦争では亡くなっていないという説があるのです。
- 箱館戦争後も生き延びた
- ロシアまで落ち延びた
箱館戦争を生き延びたと言われるのは、「箱館降伏図」に死んだはずの土方歳三が描かれているためです。
また、土方歳三の遺体は現在も行方不明のままです。
また、ロシアの商人と一緒に、船でロシアに渡ったという説もあります。
激動の幕末を駆け抜けた新撰組鬼の副長、土方歳三の遺体は一体どこへ消えたのか?幕末の謎の一つでもあります。
土方歳三はたくあんが大好物だった
土方歳三はたくあんが大好物だったそうです。
剣道場を開いていた知人宅の隣家のたくあんが大好きで、食事の際には山盛りのたくあんをおいしそうに食べていたとか。あまりにも気に入ったため、たくあんの樽ごと担いで帰ったそうです。
鬼の副長と呼ばれた土方歳三も、もたくあんが好きだったとは、庶民的で親近感が持てますね。
まとめ:土方歳三は最後まで、幕府のため・仲間のために戦い抜いた男だった
新撰組は滅びゆく幕府と運命を共にしました。
その中でも土方歳三は、最後まで、幕府のため・仲間のために戦い抜いた男です。
今回の記事をまとめると
- 土方歳三は幼いころからやんちゃで「バラガキ」と呼ばれるほどだった
- 土方歳三はイケメンで、有名で多くのラブレターを貰っていた
- 土方歳三は、新撰組鬼の副長として恐れられていた
- 土方歳三は、近藤勇ら新撰組の仲間が処刑されても、新政府軍と戦い続けた
- 土方歳三の最後は、箱館で敵の銃弾に倒れたが、箱館戦争を生き延びた説やロシアに渡った説がある
- 土方歳三の遺体は、現在も見つかっていない
幕府が倒れたことを機に、日本は近代化が進みました。しかし、その激動の時代に、最後まで幕府と仲間のために戦った土方歳三や多くの犠牲があったことを忘れてはいけない気がします。
新撰組については、こちらの記事でも詳しく解説しています。