法然と親鸞の違いは?浄土宗と浄土真宗は違うもの?2人の関係性を簡単に解説!
法然(1133(長承2)〜1212(建暦2))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧です。
「専修念仏」の教えを説き、浄土宗の開祖と仰がれました。
また、『選択本願念仏集』を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の元祖とも称されます。
そんな法然の弟子の1人に、親鸞という人物がいます。
親鸞は法然の教えを受けて、浄土真宗を開宗した人物です。
法然と親鸞の関係性はどうだったのでしょうか?
また、浄土宗と浄土真宗にはどのような違いがあるのでしょうか?
この記事では、法然と親鸞の関係性や違いについて簡単に解説していきます。
目次
法然と親鸞は師弟関係だった
法然と親鸞の関係性は、師弟関係となります。
2人の出会いは、親鸞が29歳のときのことでした。
親鸞はその時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もっていました。
そして、95日目の暁に、聖徳太子の夢告に導かれて、法然のもとを訪ねたのでした。
親鸞はそこで初めて法然の教えを聞き、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとし、法然を生涯の師とすることを決意したのです。
その後、親鸞は法然のもとで約6年間の月日を過ごしました。
その間に、法然から主著『選択本願念仏宗』の書写と真影(法然の肖像画)の制作を許されます。
法然のたくさんいる弟子の中でも、この行為を許されたのは、ほんのわずか一握りの弟子だけだったと言われています。
それほどまでに、親鸞は法然に認められていた存在だったと言えるでしょう。
法然と親鸞(浄土宗と浄土真宗)の違い
法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗をそれぞれ開宗します。
それぞれの特徴を簡単に見ていきましょう。
念仏はその身に救われたお礼である。
一見すると、2つの教えというものは違うものではないかと考えてしまいます。
しかし、親鸞は法然のことを心から崇敬しており、法然の教えを世の中に広めることが自分の使命と考えていたようですから、決して新しい宗派を立てようだとか、新たな教団を作ろうという気持ちはありませんでした。
むしろ、法然亡き後、浄土宗が解釈の違いにより鎮西派・一念義・長楽寺派(多念義)・西山派・九品寺流と5つの派に分かれてしまい、法然の教えが正確に伝わらなくなったことを親鸞は嘆いていました。
そこで、親鸞は法然の本当の御心の開顕に努め、その親鸞の教えを聞く人々が、後代大きな集まりとなり、浄土真宗となったのです。
つまり、親鸞の「浄土真宗」とは、「選択本願(阿弥陀の本願)」の別名であり、教え方こそ異なるのですが、阿弥陀如来の本願の正しい御心を教えようとしていたという点では、法然の「浄土宗」と大きな違いはないと言えます。
また、親鸞は60歳を過ぎたあたりから、『教行信証』をはじめとする著作を次々と書いていきました。
これらは、法然が明らかにした本願念仏の仏道を、世に掲げようとする願いに支えられたものでした。
このように、親鸞は生涯法然のことを崇敬し、その教えを広めていこうと努めていたのです。
【5つの派】
・鎮西派:
聖光房弁長によって始められ、九州で広められた。念仏往生の他、念仏以外の善行による諸行往生をも認める。現在の浄土宗の主流。
・一念義:
成覚房幸西によって主張された。極楽に往生するには信心だけでよく、念仏は必要ないとした。
・長楽寺派(多念義):
長楽房隆寛によって主張された。終生念仏を唱え続けることによって極楽往生できるとした。
・西山派:
善恵房証空によって始められた。教えとしては、天文学を援用して、法然の浄土教の再組織化を目指したもので、極めて哲学的であり、独特の解釈を展開していた。古くは四流(西谷流、深草流、東山流、嵯峨流)に分かれたが、さらにのちに細かく分かれていった。現在は西谷・深草両派の法系を継ぐ西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の三派がある。
・九品寺流:
覚明房長西によって始められた。長西は、法然の死後、出雲路住心や栄西などに師事し、諸行本願と臨終発定の説を唱えた。現在は絶えていない。
法然と親鸞のエピソード3選
ここでは、法然と親鸞に関するエピソードを3つご紹介していきます。
- 法然だけが親鸞の考えを否定しなかった
- 親鸞は法然のことを生涯崇敬していた
- 法然の死に目に親鸞は立ち会えなかった
法然だけが親鸞の考えを否定しなかった
ある日、親鸞が10人ほどの法然の弟子がいる場所で、
「法然上人のご信心も、この私(親鸞)の信心も全く異なるところはありません」
と言いました。
この時の親鸞は若く、この場にいる多くの弟子が兄弟子でした。
兄弟子たちは、この親鸞の発言をけしからんと非難して、法然に意見を求めました。
すると、法然は、兄弟子たち一人一人に親鸞の考えをどう思うかと聞いていきます。
そして、大半の兄弟子は反対意見でした。
しかし、法然は、
「親鸞の言う通り、私(法然)の信心も親鸞の信心も、如来より賜りたる信心だから全く異なるところはない。私と違う信心の人は、同じ浄土に行かれませんよ」
と答えます。
阿弥陀如来の本願の正しい御心を教えようとする気持ちに、違いはないということを法然は伝えたかったのでしょう。
これを聞いた兄弟子たちは、たいそう悔しがったそうです。
親鸞が法然のことを絶対的に信頼していたのは、このような経験があったからだと言われています。
親鸞は法然のことを生涯崇敬していた
親鸞は法然のことを生涯心から尊敬し、誰よりも慕っていました。
その証拠に、親鸞は次のような言葉を残しています。
「昿劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
意訳:法然上人のご教導によって親鸞、果てしない過去から知ることのできなかった阿弥陀如来の誓願あることを知らされた。もし法然上人に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。親鸞、危ないところを法然上人に救われた
つまり、法然に出会うことができなかったら、この世も救われなかったし、未来永劫苦しみ迷い続けたであろうと言っているわけです。
さらに、『歎異抄』で親鸞は
「法然上人にならば騙されて地獄に堕ちたとしても後悔はない」
とまで言い切っています。
それほどまでに、親鸞の法然への崇敬の念は強く、揺るぎない師弟関係が結ばれていたことがわかりますね。
法然の死に目に親鸞は立ち会えなかった
法然の浄土宗は、身分関係なく様々な人に広まっていきました。
しかし、旧仏教の人たちからしてみたらそれは面白くありません。
その強い反発を受けた結果、法然やその弟子たちは死罪や流罪といった刑を受けることとなってしまいます。
法然は土佐(現在の高知県)へ、親鸞は越後(現在の新潟県)へ流罪となりました。
この時、法然は75歳、親鸞は35歳でした。
5年後には許され、法然は京都に戻りますが、疲労で寝たきりになり、80歳で亡くなってしまいます。
親鸞も5年で許され、京都に戻ろうとするのですが、その道中で法然が亡くなったことを知るのです。
親鸞はあまりのことに茫然自失となり、膝から崩れ落ち、人目もはばからずに悲痛な叫び声を挙げたと言われています。
そして、落ち着いたところで、
「都行きはやめる。お師匠様のおられない京都には、親鸞、何の未練もない。東国へ行く。関東で、阿弥陀如来の本願を、力一杯お伝えしようではないか」
と決心するのです。
このように、親鸞は崇敬する師の死に目に立ち会うことはできませんでした。
しかし、法然の教えをより多くの人に広めるべく、関東へと旅立ったのです。
法然に関するQ&A
法然に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 法然の弟子は誰がいる?
- 浄土宗と浄土真宗の総本山は?
法然の弟子は誰がいる?
法然の弟子は数え切れないくらいいるとされていますが、ここでは代表的な弟子たちをご紹介していきます。
- 聖光房弁長:
比叡山で天台宗を学んだ後、法然の弟子となった。浄土宗鎮西派の祖。九州に念仏を広めた。 - 成覚房幸西:
比叡山西塔で天台を修め、後に法然の弟子となった。一念義を唱えた。 - 長楽房隆寛:
比叡山で慈円に師事していたが、後に法然の弟子となった。多念義を主張した。 - 善恵房証空:
14歳で出家し、後に法然の弟子となった。念仏や天台教義に通じていた。西山の善峰寺に住み、浄土教を宣揚した。 - 覚明房長西:
法然に師事し、四国配流にも従った。念仏以外の諸行も本願の行とする諸行本願義を唱える。九品寺流の祖。 - 法蓮房信空:
比叡山黒谷の叡空のもとで出家し、後に法然の高弟となった。『七箇条制誡』の執筆役となり、天台宗からの専修念仏圧迫に対処した。法然の流罪後は、長老として教団を守った。 - 勢観房源智:
父は平師盛。平家没落後、源氏の探索から逃れ、法然の弟子となる。その後、慈円のもとで出家。法然から厚い信頼を受け、本尊、大谷の坊舎、円頓戒の道具などを譲り受ける。 - 親鸞:
比叡山で天台宗などを学び、後に法然の弟子となった。浄土真宗の開祖。
この中でも特に、聖光房弁長、成覚房幸西、長楽房隆寛、善恵房証空、覚明房長西は、各々が教義を立て、五流で門流を競い合っていたとされています。
浄土宗と浄土真宗の総本山は?
・浄土宗
総本山:知恩院
住所:京都府京都市東山区林下町400
・浄土真宗
浄土真宗の総本山は、元々石山本願寺でしたが、16世紀末の織田信長との争いのせいで、2つの派閥に分かれてしまいました。
そのため、今日の浄土真宗では、派閥によって本山が異なります。
浄土真宗本願寺派
本山:龍谷山本願寺(通称:西本願寺)
住所:京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町
真宗大谷派
本山:真宗本廟(通称:東本願寺)
住所:京都府京都市下京区烏丸通七条上る
まとめ:法然と親鸞は師弟関係で、2人の宗派の根本の考えに違いはない
法然と親鸞は師弟関係にありました。法然は親鸞のことを認めており、親鸞も法然のことを崇敬していました。そして、親鸞はその生涯をもって、法然の教えをより多くの人々に広めていきました。そのため、2人の宗派の根本の考えに違いはないのです。
今回の内容をまとめると、
- 法然と親鸞は師弟関係
- 法然は親鸞のことを認めており、親鸞は法然のことを崇敬していた
- 法然が開いたのは浄土宗で、親鸞が開いたのが浄土真宗
- 法然と親鸞は、教えこそ異なるものの2つの宗派の根本の考えに違いはない
自身が崇敬していた人物の死に目に会えなかった親鸞の気持ちは計り知れません。しかし、そこですぐに切り替え、関東に向かい、師の教えを広めようとした親鸞は、法然にとってもやはり自慢の弟子であったと言えるでしょう。