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徳川家重の死因は何?病気に生涯苦しめられていた?最後の姿は?墓所はどこ?

徳川家重(1712(正徳元年)〜1761(宝暦11))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府第9代将軍です。

生まれつき体が弱く、障碍があったため言葉が不明瞭でありながらも、人材登用に優れていたことから「隠れた名君」とも言われています。

2024年のテレビドラマ『大奥』で、高橋克典さんが演じられることでも話題となっています。

そんな徳川家重はなぜ亡くなってしまったのでしょうか?

この記事では、徳川家重の死因や最後の姿について簡単に解説していきます。

徳川家重の死因は排尿障害

徳川家重の死因は、排尿障害だと言われており、尿毒症や尿路感染症が疑われています。

徳川家重は家臣たちから「小便公方」と揶揄されるくらい頻尿持ちでした。

江戸城から菩提寺の上野寛永寺まで、直線距離で約4kmの道に、なんと23箇所のトイレを設置したほどです。

生涯、排尿障害に苦しめられていた徳川家重は、その排尿障害がそのまま死因へと直結してしまったわけですね。

また、尿毒症や尿路感染症といった病気は、尿道の短い女性がかかりやすい病気だと言われています。

さらに、頻尿も江戸時代において、女性に非常に多い疾患の1つと言われていたこともあり、徳川家重は女性だったのではないかと考える人もいるのです。

徳川家重の最後の姿

徳川家重の治世は比較的安定した時代が続いていました。

しかし、日本各地でトラブルが次々と起こってしまいます。

  • 宝暦の飢饉:東北地方でおきた飢饉。約5〜6万人の餓死犠牲者が出た
  • 郡上一揆:美濃国郡上藩で起きた一揆
  • 宝暦治水事件:薩摩藩が担当した治水工事に伴った事件。過酷な労働を強いた幕府が恨みを買う
  • 宝暦事件:日本史上初の幕府による尊王論者弾圧事件

以上のようなトラブルが起こった結果、幕府や徳川家重に対する不満が溜まっていきました。

そんな中、徳川家重の側用人である大岡忠光が亡くなってしまいます。

自らの意思を周囲に伝えることが苦手な徳川家重にとって、代わりに意思を伝えてくれていた大岡忠光が亡くなったことは、徳川家重にとって、政治を続けていくには致命的な出来事でした。

そのため、徳川家重は長男の徳川家治に将軍職を譲って、大御所となることにしました。

しかし、その翌年には徳川家重自身も亡くなり、大御所として腕を奮うこともなく、徳川家重の時代は終わってしまいました。

川家重の墓は東京都港区の増上寺にある

徳川家重の墓所は、東京都にある増上寺にあります。

この増上寺は、徳川将軍家の菩提寺です。菩提寺といえば基本的には1箇所ですよね。

しかし、徳川将軍家には菩提寺自体が2つ存在しているのです。

元々徳川将軍家の菩提寺は、増上寺のみでした。この増上寺は、浄土宗のお寺です。

しかし、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光は、天台宗に帰依していました。

徳川家としては浄土宗に所属していたのですが、個人的には天台宗に帰依していたという、少し複雑な状況だったわけですね。

そして、天海という天台宗の僧で、徳川家康の側近だった者が、

「江戸に天台宗の寺を建てさせてくれ」
と希望してきたのです。

そこで、徳川秀忠が現在の上野のあたりに土地を与え、徳川家光がそこにお寺を建てました。それが「寛永寺」です。

ここから、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺となるのですが、そこで黙っていないのが元々菩提寺であった増上寺です。

色々と話し合った結果、両方とも徳川将軍家の菩提寺ということになり、その後は交互に将軍を埋葬していくことになりました。

増上寺 徳川将軍家墓所

住所:東京都港区芝公園4丁目7

歴代徳川将軍の死因は?

【歴代徳川将軍の死因】

死因
徳川家康 胃がん
徳川秀忠 消化器がん
徳川家光 脳卒中
徳川家綱 心筋梗塞
徳川綱吉 成人麻疹
徳川家宣 インフルエンザ
徳川家継 急性肺炎
徳川吉宗 脳卒中
徳川家重 排尿障害
徳川家治 急性心不全
徳川家斉 腹膜炎
徳川家慶 暑気あたり
徳川家定 急性心不全
徳川家茂 急性心不全
徳川慶喜 急性肺炎

\ 各、徳川将軍の死因について詳しく知りたい方は、下記記事も参考にしてみてください /

徳川家重に関するQ&A

徳川家重はどんな人だったのか?など、徳川家重に関する簡単なQ&Aをまとめました。

徳川家重は何をした人?

徳川家重は、江戸幕府の第9代将軍です。在任期間は15年で、側用人・大岡忠光と田沼意次の力を借りながら、いくつかの功績を残しています。

  • 勘定吟味役を充実させ、幕府の予算制度を導入した
  • 醸造業の免許制度を整え、酒造の統制を行った
  • 「御三卿」の体制を確立し、将軍家を強化した

以上のような功績の他に、やはり田沼意次という才能の塊を見出したことが、徳川家重にとっての最大の功績だと言えるでしょう。

徳川家重とうなぎの関連性は?

うな重は、徳川家重の名前から取ったなんて話があります。

しかし、うな重の誕生には諸説あり、由来が徳川家重かどうかははっきりとはしていません。

ちなみに、徳川家重は大のうなぎ好きだったようです。

さらに、うなぎの蒲焼が現在のようにタレをつけて焼かれるようになったのも、徳川家重の時代だと言われています。

徳川家重と田沼意次の関係性は?

徳川家重は、「側用人制度」という優秀で信頼できる人材を側につけて政務をする制度を復活させました。

そこで見出されたのが田沼意次です。

田沼意次の父親は、足軽出身でありながら徳川吉宗に仕えることとなった人物でした。

その関係で、田沼意次は徳川家重の小姓を務めていたのです。

その際に、徳川家重は田沼意次の才能を見抜いていたのでしょう。

こうして、田沼意次は徳川家重に抜擢されたことにより、最終的に大名にまで出世することになります。

田沼意次の出世は徳川家重抜きでは考えられないことだったと言えるでしょう。

まとめ:徳川家重の死因は排尿障害で、生涯病気に苦しめられていた

徳川家重は「小便公方」と呼ばれるくらい、その生涯、頻尿といった排尿障害に苦しめられていました。死因もその関係で、尿毒症や尿路感染が疑われています。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家重は「小便公方」と呼ばれるくらい頻尿といった排尿障害に苦しめられていた
  • 徳川家重の死因は、尿毒症や尿路感染が疑われている
  • 徳川家重の死因の症状が女性特有のものであることから、女性説も浮上している

徳川家重は、ただでさえ排尿障害に苦しめられていたのに、脳性麻痺も患っていたのではないかと考えられています。将軍という立場で、それらの病気を抱えていたことは、どれだけの苦悩を産んだのか想像もできませんね。

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