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松平定信と田沼意次の関係は?2人の政治の違いは?大奥との付き合い方は?

松平定信(1759(宝暦8)〜1829(文政12))は、江戸時代中期に活躍した大名です。
第11代将軍・徳川家斉のもとで老中となり幕政再建を目指しました。

また、田沼意次(1719(享保4)〜1788(天明8))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府の老中です。第9代将軍・徳川家重と第10代将軍・徳川家治の治世下で側用人と老中を兼任し、幕政を主導しました。

そんな2人はどのような関係だったのでしょうか?

この記事では、松平定信と田沼意次の関係について簡単に解説していきます。

松平定信と田沼意次の関係は?

松平定信は、田沼意次の次に老中となった人物です。

老中のバトンを渡しあった2人はどのような関係だったのでしょうか?

ここでは、松平定信と田沼意次の関係について簡単に解説していきます。

松平定信は田沼意次のせいで将軍候補から外れた?

松平定信は、田安徳川家の祖・田安宗武の子として生まれました。

つまり、第8代将軍・徳川吉宗の孫だったわけです。

幼少期から聡明で、いずれは田安家を継いで、将軍になるだろうと期待されていましたが、実際は将軍になることはなく、奥州白河藩主・松平定邦のもとへ養子に出されました。

これは、松平定信が田沼意次の政治を「賄賂政治」だと批判したことで、田沼派から不興を買ったためではないかと言われています。

このように、松平定信は田沼意次のせいで将軍候補から外されてしまったのです。

松平定信は田沼意次をとても恨んでいた?

松平定信は田沼派のせいで将軍候補から外されてしまいました。

そのため、とても田沼意次のことを恨んでいたと考えられています。

その証拠として挙げられるのが、田沼意次に対する処遇です。

老中を辞任させられた田沼意次は、異例な過酷な処分を受けました。

まず、第11代将軍・徳川家斉が着任すると、田沼意次は老中時代に不正があったという罪で蟄居を命じられます。

さらに、江戸と大阪にあった蔵屋敷は没収され、領地であった相良城は破壊され、財産まで没収されてしまうのです。

これは、江戸時代の幕閣に対する処分としては異例の厳しさでした。

この処遇を決めたのが松平定信です。

松平定信は、田沼意次に対する私怨でこのような厳しい処分を下したのではないかと言われています。

しかし、田沼意次は実力主義の人材登用をしていた人物ですから、本当に松平定信が聡明な人物であったのであれば、左遷のようなことをするとは考えにくいです。

つまり、田沼意次の意思とは関係なく、田沼派の人物が勝手にしたことではないかとも考えられます。

そうだとしたら、完全に田沼意次は被害者なわけで、かわいそうな人物であったと言えるでしょう。

松平定信と田沼意次の政治の違いは?

松平定信と田沼意次はそれぞれ老中として政治を主導していました。

それぞれどのような政治を行っていたのでしょうか?

ここでは、松平定信と田沼意次の政治の違いを簡単に解説していきます。

田沼意次の政治は重商主義だった?

田沼意次が政治の主導をする前の徳川家重の代では、凶作が起こり、増税への反発から各地で一揆が頻発します。

こうした社会不安の高まりから、幕府は財政難に陥ろうとしていました。

そこで、田沼意次はこれ以上農民から税を搾り取るのは不可能だと考え、別のところから取るように考えます。

それまでは、農業主義の政策でしたが、重商主義の政策へと転換していくのです。

商業を盛んにすることで、財政を立て直そうとしたわけですね。

これまで江戸幕府は、商人や都市の住民からほとんど税らしきものを徴収してきませんでした。

そのため、ここから税を徴収するという考えは、当時にしてみれば斬新な考えだったのです。

また、農業主義の政策から重商主義の政策へと転換したこともそうですが、田沼意次の政策は、常識に囚われない大胆な発想のものが数多くありました。

過去の権力者たちが思いつかなかったスケールの大きな政策は、田沼意次だからこそできたものだったと言えるでしょう。

常識に囚われない大胆な改革、それが田沼意次の政治でした。

松平定信の政治は厳しい倹約と統制を主としていた?

松平定信が老中に就任する前は、田沼意次による重商主義の政治が行われていました。

しかし、その際に、度重なる天災が起きてしまうのです。

その結果、農村部から人が消え、江戸に多くの人々が流入してしまいました。

幕府の財政の基盤は、あくまで農村から挙げられる年貢収入です。

しかし、農村が荒廃していき、幕府の財政は傾いていく一方でした。

さらに、江戸に流入してきた農民たちの中には、生活基盤が築けずに、いわゆるホームレスのようになってしまっている人たちも出てきました。

また、田沼時代は役人間での賄賂も横行しており、とにかく国中が荒れてしまっている状態だったのです。

そこで松平定信が目指したのは、田沼時代の悪習を一掃し、質素倹約を心がけ、クリーンで統制が取れた幕藩体制です。

また、松平定信は税を民に還元する「国民福祉」の思想を取り入れ始めます。

それまでは、税を取る対価として行政サービスを施すという現代と同じような仕組みは全くありませんでした。

松平定信は、天明の大飢饉などの致命的な打撃を受け、国が国民を救うための貯蓄などを始めたのです。

このような取り組みは現代に続く税制に影響を与えていると言っても過言ではないでしょう。

松平定信と田沼意次の政治を比較した狂歌が生まれた?

田沼意次の政治に不満を持っていた人々の間では、次のような狂歌が流行りました。

「田や沼や 濁れる御世を あらためて 清く澄ませ 白河の水」

(意訳:汚職にまみれた田沼時代を、白河藩出身の松平定信が正してくれるだろう)

新しく老中となった松平定信への期待がよく表れている歌と言えるでしょう。

実際松平定信の改革は、幕府の財政を一時的に潤わせ、人々の生活も安定させました。

しかし、厳しすぎる倹約や統制は、次第に世間の反感を招くようになっていきます。

すると、次のような世間の不満を表している狂歌が2つ生まれました。

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

(意訳:白河藩出身の松平定信の政治は清廉を求めすぎており、賄賂は横行していたが商業活動が盛んだった昔の田沼意次の政治がなつかしい)

「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜も寝られず」

(意訳:文武に励めという松平定信の政治がうるさくて仕方ない)

どちらの狂歌でも、松平定信の政治に嫌気が差しているのがよく伝わってきますね。

松平定信と田沼意次の大奥との付き合い方は?

松平定信の時代も田沼意次の時代も、大奥の存在は政治に非常に大きな影響を与えていました。

それでは、松平定信と田沼意次は、それぞれどのように大奥と付き合っていたのでしょうか?

ここでは、松平定信と田沼意次の大奥との付き合い方を簡単に解説していきます。

田沼意次は大奥から非常にモテていた?

田沼意次は、稀代のイケメンだったことで知られています。

そのため、その容姿から大奥の女中たちから非常にモテていたと言われています。

しかし、田沼意次が大奥の女中たちからモテていたのは、外見がよかったからというだけではありません。

田沼意次は、こまめに大奥の女中たちに贈り物を送っていたのです。

このような気遣いの結果、大奥は田沼意次に好意を持っている人で大半を締めていました。

さらに徳川家治の側室である蓮光院にも気に入られると、大奥中で田沼意次に反対するものはいなくなりました。

それどころか、蓮光院は田沼意次の出世も後押ししてくれました。

このように田沼意次は、大奥の女中たちと良い関係を築いていたようです。

\ 田沼意次のイケメンエピソードに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /

松平定信は大奥から非常に反感を買っていた?

田沼意次は大奥と良い関係を築いていましたが、松平定信はというと、正反対の付き合い方をしていました。

松平定信は、「御心得之ケ條」という将軍として心得るべきことが書かれたものの中で、
「幕府政治において、大奥から願い事があっても採用してはいけない。御台所にせよ、側室にせよ、政治向に関する発言は控えさせてほしい」
としています。

つまり、大奥の政治関与を許さなかったわけですね。

さらに、松平定信は、政治力だけでなく、大奥の経済力もカットしていきます。

財政難を背景に、大奥の経費をそれまでの3分の1にまで切り詰めたのです。

これに対して、大奥が反発したのは言うまでもありません。

松平定信が失脚した原因の1つに大奥からの反発があったのは、言うまでもありません。

まとめ:松平定信は田沼意次のことをとても恨んでいた

老中のバトンを渡しあった松平定信と田沼意次でしたが、決して良好な関係ではありませんでした。それどころか、松平定信は将軍候補から外されたことで、田沼意次のことを恨んでいたのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 松平定信は田沼派によって将軍候補から外されてしまった
  • 松平定信は、将軍候補から外されたことが原因で、田沼意次のことを恨んでいた
  • 松平定信は田沼意次に対して私怨で厳しい処分を下した

田沼意次のことを恨んでいた松平定信ですが、その政策は実は田沼時代のものを全否定していたわけではないのです。中には、通貨制度のように連続して採用しているものもあり、完全に田沼意次のことを認めていなかったわけではないことがわかります。優秀な2人ですから、きちんと話し合う機会さえあれば、いい関係が築けたのではないかと思わずにはいられません。

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