徳川家康の家系図を簡単に解説!織田信長や豊臣秀吉とも親戚関係だった?
徳川家康1543年(天文11年)〜1616年(元和2年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名で、江戸幕府 初代征夷大将軍です。
織田信長、豊臣秀吉と共に戦国三英傑とも呼ばれ、約260年続いた江戸幕府をひらいた人物です。
徳川家康は織田信長や豊臣秀吉と親戚関係だったと言われていますが、真相はどうなのでしょうか?
今回は、徳川家康の家系図を簡単にわかりやすく解説をしていきます。
目次
徳川家康の家系図をわかりやすく解説!
徳川家康は正室と側室あわせて11人の妻がおり、合計で16人の子供をもうけたといわれています。
まずは、徳川家康の家系図を見ていきましょう。
徳川家康に子供は何人いた?
徳川家康には、16人の子供がいたと言われています。
正室である築山殿との間に男女1名ずつ、その他に10人の側室との間に10男4女をもうけています。
【徳川家康と正室 築山殿との間に生まれた子供】
・長男:松平信康 1559年(永禄2年)〜1579年(天正7年)
・長女:亀姫(奥平信昌の正室) 1560年(永禄3年)〜1625年(寛永2年)
【徳川家康と側室 小督局との間に生まれた子供】
・次男:結城秀康 1574年(天正2年)〜1607年(慶長12年)
*越前国北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代
【徳川家康と側室 西郡局との間に生まれた子供】
・次女:督姫 1565年(永禄8年)〜1615年(慶長20年)
(北条氏直の正室、のちに池田輝政と再婚)
【徳川家康と側室 西郷局との間に生まれた子供】
・三男:徳川秀忠 1579年(天正7年)〜1632年(寛永9年)
*江戸幕府 第2代征夷大将軍
四男:松平忠吉 1580年(天正8年)〜1607年(慶長12年)
*東条松平家第4代当主、尾張清洲藩主
【徳川家康と側室 下山殿との間に生まれた子供】
・五男:武田信吉 1583年(天正11年)〜1603年(慶長8年)
【徳川家康と側室 茶阿局との間に生まれた子供】
・六男:松平忠輝 1592年(天正20年)〜1683年(天和3年)
長沢松平氏の家督を継ぐ
・七男:松平松千代 1594年(文禄3年)〜1599年(慶長4年)
【徳川家康と側室 良雲院との間に生まれた子供】
・三女:振姫 1580年(天正8年)〜1617年(元和3年)
蒲生秀行・浅野長晟室
【徳川家康と側室 相応院との間に生まれた子供】
・八男:平岩仙千代 1595年(文禄4年)〜1600年(慶長5年)
徳川家康の譜代家臣・平岩親吉の養嗣子
・9男:徳川義直 1601年(慶長5年)〜1650年(慶安3年)
※徳川御三家の一つである尾張徳川家の始祖
【徳川家康と側室 普照院との間に生まれた子供】
・四女:松姫 出生、死没月日不明
【徳川家康と側室 お梶の方(遠山氏)との間に生まれた子供】
・五女:市姫 1607年(慶長12年)〜1610年(慶長15年)
【徳川家康と側室 養珠院との間に生まれた子供】
・十男:徳川頼宣 1602年(慶長7年)〜1671年(寛文11年)
※徳川御三家の一つである紀州徳川家の始祖
・十一男:徳川頼房 1603年(慶長8年)〜1661年(寛文元年)
※徳川御三家の一つである水戸徳川家の始祖
徳川家康の家督を継いだのは3男の徳川秀忠
徳川家康は江戸幕府を開き、征夷大将軍に就任しますが、わずか2年で三男の徳川秀忠に征夷大将軍の座を譲っています。なぜ、三男の徳川秀忠が征夷大将軍に就いたのでしょうか?
それには、徳川秀忠の出生と、徳川家康と織田信長の関係性が関わっています。
【徳川秀忠が家督を継ぎ、2代目征夷大将軍に就いた理由】
- 徳川秀忠の母が名家の出身だった
徳川秀忠は、1579年(天正7年)に徳川家康と側室の西郷局の三男として誕生します。
母の西郷局の実家の三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家でした。 - 徳川家康の長男が、謀反の疑いで処刑された
徳川秀忠が誕生した5か月後、徳川家康と築山殿とその息子で長男の松平信康は、織田信長によって武田氏通謀の疑いをかけられ、処刑されました。 - 次男の結城秀康は、豊臣秀吉に養子に出された
徳川家康の次男の結城秀康は、豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いでいます。
この3つが重なり、さらには母親が名家出身ということもあって、徳川秀忠が実質的な世子として処遇されることになったのです。
1590年(天正18年)、徳川秀忠は11歳にして人質として豊臣秀吉と面会した際、豊臣秀吉から「秀」の1字を貰い受け、幼名の長松から徳川秀忠へ改名しました。
1595年(文禄4年)、”浅井長政”と”織田信長”の妹”お市の方”の3女であった江と婚姻します。
秀忠は温厚で真面目な性格だったと言われており、政治面では大きな功績を残しますが、逆に戦向きではなかったようです。
「関ヶ原の戦いでは」大遅刻をするという失態をし家康を激怒させ、「大阪の陣」では関ヶ原の失敗を挽回しようと張り切り過ぎて兵を急がせ、兵を疲れさせる結果になり、再び家康を激怒させてしまい、真面目な性格が裏目に出てしまいました。
1605年(慶長10年)徳川秀忠は27歳で征夷大将軍を譲られ第2代将軍に就任しましたが、実質的な実権は父である徳川家康が握り大御所政治(二元政治)を行いました。
家康が亡くなってからは、父の遺志を忠実に引き継ぎ、政治的手腕を発揮し、幕府の体制を確立させました。
徳川秀忠は、「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」の徹底により、徳川家以外の武家や公家との立場を明確なものにしました。また、幕府に歯向かう者を処罰するなどし、こうした徳川秀忠の政権運営方針は、のちの将軍にも引き継がれ、約270年という期間、江戸幕府が確立されてきた要因となりました。
1623年、45歳の時に次男・家光に家督を譲り隠居し1632年(寛永9年)54歳の時に病没します
徳川秀忠の征夷大将軍としての在位期間は、1605年(慶長10年) 〜1623年(元和9年)の18年間です。
徳川家康の娘たちは有力大名たちに嫁いだ
・長女:亀姫
徳川家康と正室 築山殿との間に生まれた長女の亀姫は、上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主になった奥平 信昌に嫁ぎ、4男1女をもうけています。
・次女:督姫
徳川家康と側室 西郡局との間に生まれた次女の督姫は、後北条氏の第5代当主北条氏直の正室として嫁ぎ2女をもうけましたが、1591年(天正19年)に氏直が死去。
その後、播磨姫路藩初代藩主の池田 輝政と再婚し、5男2女をもうけています。
●三女:振姫
徳川家康と側室 良雲院との間に生まれた三女の振姫は、陸奥会津藩主の蒲生秀行に嫁ぎ、2男1女をもうけていますが1612年(慶長17年)に、秀行が30歳で急死。
1615年(元和元年)、家康の命により和歌山藩主の浅野長晟と再婚し2男をもうけています。
徳川家康から続く徳川将軍
徳川将軍家は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家です。創始者は初代・征夷大将軍の徳川家康。家康が征夷大将軍に就任した1603年(慶長8年)から、1867年(慶応3年)に第15代・徳川慶喜が大政奉還をするまで264年間にわたる征夷大将軍の職を世襲した家系です。
- 初代:徳川家康
- 2代:徳川秀忠(徳川氏)
- 3代:徳川家光(将軍家)
- 4代:徳川家綱(将軍家)
- 5代:徳川綱吉(館林徳川家から養子)
- 6代:徳川家宣(甲府徳川家から養子)
- 7代:徳川家継(将軍家)
- 8代:徳川吉宗(紀州徳川家から養子)
- 9代:徳川家重(将軍家)
- 10代:徳川家治将軍家)
- 11代:徳川家斉(一橋徳川家から養子)
- 12代:徳川家慶(将軍家)
- 13代:徳川家定(将軍家)
- 14代:徳川家茂(紀州徳川家から養子)
- 15代:徳川慶喜(水戸徳川家出身、一橋徳川家から養子)
【徳川公爵家】
- 16代:徳川家達(田安徳川家から養子)
- 17代:徳川家正(公爵家)
【徳川宗家】
- 18代:徳川恒孝(会津松平家から養子)
- 19代:徳川家広
徳川将軍家は、長男が将軍職を世襲する原則を定めていたため、歴代当主は多くの側室を抱えて血統の保持に努めました。しかし、たびたび実子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする分家から、養子を迎えて家系をつなぐこともあったといいます。
これらの分家を「徳川御三家」や「御三卿」といいます。
【徳川御三家】徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家
- 尾張徳川家(家康の九男:徳川義直が家祖)
- 紀州徳川家(家康の十男:徳川頼宣が家祖)
- 水戸徳川家(家康の十一男:徳川頼房が家祖)
【御三卿】江戸時代中期に、徳川氏の一族から分立した大名家
- 田安徳川家(始祖は徳川宗武)
- 一橋徳川家(始祖は徳川宗尹)
- 清水徳川家(始祖は徳川重好)
御三家同様に、徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供していました。また、徳川御三家へ後継者を供給する役割もあったようです。
第4代将軍:徳川家綱には直系の子が無く、徳川将軍家の直系は幕府が始まってから77年で途絶えてしまったので、傍系である館林徳川家から弟の綱吉を養子として第5代将軍としています。
15代将軍:徳川慶喜が大政奉還の後に将軍を辞職し、264年間続いた徳川将軍家の名はここで終わります。
徳川慶喜は、その後新政府に恭順して謹慎・隠居。
徳川宗家の相続を許され、御三卿の一つである田安徳川家から徳川家達が養子として立てられ、徳川宗家の相続を許されました。
その後、公爵を授けられて、徳川宗家は徳川公爵家となりましたが、華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれています。
徳川将軍家を支え続けた、徳川御三家
江戸時代の徳川家の中で、徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家のことを「徳川御三家」と呼びます。
- 尾張徳川家(徳川義直が家祖)
- 紀州徳川家(徳川頼宣が家祖)
- 水戸徳川家(徳川頼房が家祖)
将軍家や御三卿とともに、「徳川姓を名乗ること」と「三つ葉葵の家紋使用」が許されたといいます。
また、徳川宗家の後嗣が絶えた時に備え、宗家存続のために徳川家康が遺したものであるとも言われています。
江戸時代初期には、将軍家である徳川宗家に「尾張家」と「紀州家」を加えた三家を御三家と呼ぶこともあったそうです。
また御三家も、無嗣断絶で当主が絶えることがないようにする必要があり、「御連枝」と呼ばれる分家を持っていました。やがて、尾張家と紀伊家では御連枝による当主継承も断絶し、第8代将軍:徳川吉宗以降は、御三家を模した「御三卿」が創設され、御三家と共に将軍家の嗣子を出す役目を担うことになりました。
徳川義直から続く尾張徳川家
徳川家康の九男:徳川義直を家祖とするのが「尾張徳川家」です。
徳川義直 1601年(慶長5年)〜1650年(慶安3年)
徳川家康の側室 お亀の方との間に生まれた徳川家の九男で、1607年(慶長12年)4月26日、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の弟、松平忠吉の遺領を継いで尾張国清洲藩主になりました。
尾張徳川家は御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有していました。
- 初代:徳川義直
- 2代:徳川光友
- 3代:徳川綱誠
- 4代:徳川吉通
- 5代:徳川五郎太
- 6代:徳川継友
- 7代:徳川宗春
- 8代:徳川宗勝
- 9代:徳川宗睦
- 10代:徳川斉朝(一橋徳川家から養子)
- 11代:徳川斉温(徳川将軍家から養子)
- 12代:徳川斉荘(田安徳川家から養子)
- 13代:徳川慶臧(田安徳川家から養子)
- 14代:徳川慶勝
- 15代:徳川茂徳
- 16代:徳川義宜
- 17代:徳川慶勝
【尾張徳川侯爵家】
- 18代(侯爵):徳川義礼(高松松平家から養子)
- 19代(侯爵):徳川義親(越前松平家から養子)
【戦後の尾張徳川宗家】
- 20代:徳川義知
- 21代:徳川義宣(堀田家から養子)
- 22代:徳川義崇(現当主)
徳川御三家の中で筆頭格の尾張徳川家ですが、将軍を排出することはありませんでした。
徳川頼宣から続く紀州徳川家
徳川家康の十男・徳川頼宣を家祖とする”紀州徳川家”。
徳川頼宣 1602年(慶長7年)〜1671年(寛文11年)
第5代藩主の徳川吉宗と第13代藩主の徳川慶福が、それぞれ江戸幕府 第8代将軍 徳川吉宗、江戸幕府 第14代将軍 徳川家茂となり、徳川御三家で将軍を出した唯一の家です。
- 初代:徳川頼宣
- 第2代:徳川光貞
- 第3代:徳川綱教
- 第4代:徳川頼職
- 第5代:徳川吉宗(第8代将軍として徳川将軍家を相続)
- 第6代:徳川宗直
- 第7代:徳川宗将
- 第8代:徳川重倫
- 第9代:徳川治貞
- 第10代:徳川治宝
- 第11代:徳川斉順
- 第12代:徳川斉彊
- 第13代:徳川慶福(第14代将軍として徳川宗家を相続し、徳川家茂と改名)
- 第14代:徳川茂承
【紀州徳川侯爵家】
- 15代:徳川頼倫(田安徳川家から養子)
- 16代:徳川頼貞
【戦後の紀州徳川宗家】
- 17代:徳川頼韶
- 18代:徳川剛
- 19代:徳川宜子(現当主)
現当主は19代目の徳川宜子さん。徳川宜子は現在独身のため、養子を得なければ今代で紀州徳川家は断絶すると言われています。
徳川頼房から続く水戸徳川家
徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする”水戸徳川家”。
徳川頼房 1603年(慶長8年)〜1661年(寛文元年)
徳川頼房は、もともと”松平頼房”を名乗っていました。徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)7月となっています。
尾張徳川家・紀州徳川家から見ると、水戸家は「格下の家柄」とするのが一般の認識であり、御三家であっても水戸家からは将軍は出さない定めであったとも言われています。
第9代の徳川斉昭の息子で、一橋徳川家に養子に入った慶喜が15代将軍となることによって、江戸幕府最後の将軍を出しています。
しかし慶喜は水戸家の当主となっていないので、水戸徳川家からではなく御三卿の一橋家から将軍を出したと見た方が無難ということになります。
- 初代:徳川頼房
- 2代:徳川光圀 (通称・水戸黄門)
- 3代:徳川綱條
- 4代:徳川宗堯
- 5代:徳川宗翰
- 6代:徳川治保
- 7代:徳川治紀
- 8代:徳川斉脩
- 9代:徳川斉昭
- 10代:徳川慶篤
- 11代:徳川昭武
【水戸徳川侯爵家】
- 12代:徳川篤敬
- 13代:徳川圀順
【戦後の水戸徳川宗家】
- 14代 徳川圀斉
- 15代 徳川斉正(現当主)
徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉とも親戚関係だった
家系図を見ていくと、徳川家康は織田信長や豊臣秀吉と親戚関係だったことが分かります。
【徳川家康と織田信長との関係】
織田信長にはお市の方という妹がおり、北近江の戦国大名浅井長政の継室となりました。
お市の方は、浅井長政との間に長女 茶々(豊臣秀吉側室)、次女 初(京極高次正室)、三女 江(徳川秀忠継室)をもうけています。のちに、江は豊臣秀吉の養女となります。
三女 江が嫁いだのは、徳川家康の三男で、第二代征夷大将軍の徳川秀忠です。
つまり徳川家康と織田信長は、親戚関係だったのです。
【徳川家康と豊臣秀吉との関係】
徳川家康の息子の徳川秀忠は、織田信長の妹の娘 江と結婚し、ニ男五女をもうけています。
徳川秀忠の長女 千姫は、豊臣秀吉の三男 豊臣秀頼に嫁いでいます。
徳川家康と豊臣秀吉も、親戚関係ということになります。
まとめ:徳川家康の家系図には、徳川家存続の理由が詰まっていた
いつ命を落とすかわからない激動の戦国時代の中で、徳川家康は、徳川将軍家を絶やさないように、家を存続させるために、徳川御三家と呼ばれる分家をつくり、宗家に跡継ぎがいなくなると分家から将軍家が養子を取り、跡継ぎを繋げていきました。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家康は、徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)をつくって将軍家を絶やさないようにした
- 徳川御三家で将軍を排出したのは、紀州徳川家
- 徳川家康は、織田信長・豊臣秀吉とも親戚関係にあった
- 徳川家康の子孫は、大政奉還後徳川公爵家、現在は徳川家として現代にも続いている
約260年続いた江戸幕府を開いた徳川家康の子孫が、現代も続いていると考えるとロマンがありますね。