徳川家康の戦い一覧|関ヶ原の戦いや初陣、どんな戦術で戦っていたのか徹底解説!
徳川家康は、戦乱の世であった戦国時代に天下統一を成し遂げ、約260年も続く安定した江戸時代をつくった戦国武将です。堅実で慎重派な徳川家康の戦い方は、彼の性格を反映するように、派手さは無いものの、辛抱強く確実なものが多くありました。今回は徳川家康の戦いについて、17歳の初陣から江戸幕府を開くまでの主な戦や戦術を解説していきます。
目次
徳川家康の戦い一覧
徳川家康の主な戦いを一覧でみていきましょう。
- 1558年(永禄元年):17歳
寺部城城主の鈴木重辰を討伐し、初陣を飾る。 - 1561年(永禄3年):20歳
「桶狭間の戦い」先鋒を任される。今川義元が討死し、岡崎城帰還する。 - 1566年(永禄9年):25歳
三河国統一を果たす - 1570年(永禄12年):29歳
「姉川の戦い」織田・徳川連合軍として、浅井・朝倉軍に勝利する。 - 1572年(元亀3年):31歳
「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」「三方ヶ原の戦い」いずれも武田軍に敗北を喫す。 - 1575年(天正3年):34歳
「長篠の戦い」織田・徳川連合軍で武田(勝頼)軍に大打撃を負わせる。 - 1584年(天正12年):42歳
「小牧・長久手の戦い」豊臣秀吉軍を破る - 1600年(慶長5年):59歳
「関ヶ原の戦い」石田三成に勝利する - 1614年(慶長19年):73歳
「大坂冬の陣」20万の大軍で大坂城を包囲後、和睦するが、 大坂城を丸裸にすることに成功する。 - 1615年(慶長20年):74歳
「大坂夏の陣」大坂城を落城させる。
徳川家康の生涯戦績は?
徳川家康は生涯50戦以上もの合戦を戦ったとされています。
徳川家康の戦績は、51戦31勝13敗7分とされています。
天下統一を果たした人物ですから、連戦連勝のほとんど負けなしだったのではと思われがちですが、案外負けていることに驚きです。
しかしながら、徳川家康の素晴らしいところは、全ての戦で生き残っている点と、負けを教訓として、「何が悪かったのか」と原因を突き止め、次の勝負に生かした点にあります。
徳川家康は東照宮に、
「勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば、害その身に至る」
との遺訓を残しています。
自分の負けを真摯に受け止め、不運の中にも感謝までするような人物だったからこそ、最後には勝ち上がり、徳川260年の安定の基礎を築けたのですね。
徳川家康の主な戦いを簡単に解説
徳川家康の戦いは17歳に初陣を果たすところから始まります。そして、三河(愛知県東半部)の統一を終えた徳川家康は、5つの大きな戦いを経て天下統一を果たします。
徳川家康の初陣の戦いと、天下統一に関わる5つの戦い「姉川の戦い」「三方原の戦い」「長篠の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」に注目し、それぞれ詳しく解説していきます。
徳川家康の戦い1|徳川家康の初陣は17歳
徳川家康は1558年(永禄元年)17歳の時に、今川義元の命を受け寺部城城主の鈴木重辰の討伐を果たしました。
徳川家康はなぜ今川家の命をうけて戦ったのでしょうか。
徳川家康の初陣の背景を、松平家と今川家の関係から解説していきます。
徳川家康は、三河国の豪族である松平家の敵男「竹千代」として生まれました。松平家は、駿河の有力な戦国大名である今川家と同盟を結び、その証として当時6歳だった徳川家康(竹千代)を今川家に差し出します。その途中で尾張の織田家に奪われ、織田家で2年間程すごしたりもしましたが、今川家が取返し、徳川家康の幼少期は今川家で過ごしたのでした。
当時の今川家の当主だった今川義元には可愛がられていたようで、元服の時には、今川義元の一字を賜って松平元信と名乗り、今川家の重臣の娘 瀬名姫と結婚しています。
1558年(永禄元年)、三河国加茂郡の寺部城の城主が今川から離反して織田信長に通じていたとして、今川義元は徳川家康(松平元信)に討伐を命じます。
徳川家康は松平家の城だった岡崎城へ、合戦の準備をしにいったん戻ります。
その時、岡崎城の家臣たちは、「ようやく殿とともに出陣できる」と、大いに喜んだといいます。
徳川家康(松平元信)は、すぐに寺部城へと向かいませんでした。
「寺部城を落とした後に、周辺の諸城から後詰めがくれば、一気にピンチとなる事は明白だ。先に枝葉を刈ってから根を断つべし。」と、今川からの離反に同調する周辺の広瀬城・拳母城・梅坪城・伊保城などへ攻撃した後に寺部城を落としたのです。
17歳の若き主君の立派な軍令指揮と知略は、岡崎城の家臣ら感心させたといいます。
今川義元は、徳川家康(松平元信)のこの大活躍を大いに喜び、自身の太刀を与え、今川が松平から奪った領地の一部を返還したと言われています。
徳川家康の戦い2|姉川の戦い
1570年(元亀元年)に27歳の徳川家康は、その後の躍進の足掛かりともなる大きな戦いに参戦します。「姉川の戦い」です。
今川家から独立し織田信長と同盟を結んでいた徳川家康は、1570年(元亀元年)6月、織田信長とともに、近江国(現在の滋賀県)の姉川流域で浅井長政・朝倉義景連合軍と対峙します。
織田・徳川連合軍は、この1ヶ月前に朝倉義景と戦っており、その際、織田信長は義弟である浅井長政の裏切りにより背後を突かれ、命からがら撤退を余儀なくされています(金ヶ崎の戦い)。
姉川の戦いは、信頼していた浅井に裏切られた織田信長の報復戦だったのです。徳川家康は約5000の兵を率いて、織田信長の要請に応じて駆け付けたのでした。
1570年(元亀元年)6月28日未明、姉川の北側に約2万の浅井・朝倉連合軍、南側に約3万の織田軍・徳川連合軍が対峙します。織田軍の正面には浅井軍が位置し、徳川軍の正面には朝倉軍が位置しています。朝倉軍の兵力は1万ほどで、徳川軍の方が数的不利でしたが、家康は自らこの場所を志願したといわれています。織田信長に自分の律義さをアピールするためと言われていますが、自分の兵たちの強さを信頼しているからこそできた行動だったといえるでしょう。
こうしてはじまった姉川の戦いは、両軍ともに多くの犠牲者をだす激しいものとなりました。
徳川軍と朝倉軍が対峙した場所は血で真っ赤に染まったと言われ、「血原」と言う地名が今も残されている程です。激闘の中でも家康は冷静でした。相手の陣形が伸びきっていることに気が付いた家康は、味方に姉川を西側から回り込んで渡り、朝倉軍の側面を攻撃するように指示します。横腹をつかれて朝倉軍が撹乱したことで、徳川軍有利な形勢に一気に傾いていきます。朝倉軍はたまらず撤退し、その後浅井軍も撤退していきました。
姉川の戦いは、織田・徳川同盟軍の勝利と終わりました。
徳川家康にとっては、姉川の戦いの功績により、徳川家康が織田信長側の有力大名の一人であることを、アピールできた戦いとなったのでした。
徳川家康の戦い3|三方原の戦い
三方ヶ原の戦いは、1572年(元亀3年)12月、徳川家康が29歳の時の、武田信玄との合戦です。
この戦いは徳川家康が勝利したものでなく、武田軍の10倍もの死傷者をわずか1時間で負うことになった大敗北の戦いです。
1572年(元亀3年)、武田信玄は、室町幕府の最後の将軍である足利義昭からの求めに応じ、京に向かって進軍を開始します。それまで友好な関係を続けていた織田信長と決別したのです。
織田信長を討つことを目的とした武田軍の上洛を阻止するべく立ちふさがったのが、織田信長と同盟関係だった徳川家康でした。
徳川家康は上洛の途中に位置する浜松城で武田軍を迎え撃つ準備をととのえますが、武田軍は浜松城を素通りするかたちで京へと進軍していきます。徳川家康は追撃のチャンスを得たりと浜松城を飛び出して、武田軍に背後から襲い掛かるのでした。しかし、全ては武田信玄の計画通り、背後をとれたと思った徳川家康が三方ヶ原台地に到着したとき、目の前には万全の布陣の武田軍が待ち構えていたのです。武田信玄はあらかじめ三方ヶ原の地形を把握しており、徳川家康はまんまとおびき出されてしまったというわけです。
徳川軍は総崩れとなり、2000人以上もの死傷者を出しながら徳川家康は命からがら逃亡したのでした。
命からがら自分の城へ逃げ帰った徳川家康は、自分自身の情けない負け姿を絵師に描かせたとの逸話が残っています。無理な戦いで多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせ、生涯「自分の慢心の戒め」として持っていたと言うのです。
しかみ像と称される肖像画「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、現代でも名古屋市の徳川美術館に所蔵されています。なお近年、この肖像画は江戸時代にかかれ、昭和初期に逸話がつくられたものであるとの説が有力視されるようになっています。
徳川家康の戦い4|長篠の戦い
長篠の戦いは、織田信長が火縄銃を使った新しい戦法を生み出し、当時最強といわれた甲州騎馬軍団を破った戦いとして有名です。1575年(天正3年)、織田・徳川連合軍は、三河国長篠城をめぐり武田勝頼と対峙し、勝利します。
この戦いにより、武田家の衰退が決定的になります。長篠の戦いは、徳川家康にとっては三河から武田の脅威を排除することができた戦いであり、織田信長にとっては天下取りへの道が開けた戦いとなったのでした。
徳川家康の戦い5|小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12年)に、織田信長の次男の織田信雄と徳川家康の連合軍が、豊臣秀吉との間で行われた戦いです。
小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が直接対峙した、唯一の戦いです。結果は、徳川家康の勝利です。
徳川家康が小牧山城の占拠に成功し(「羽黒の戦い」)、籠城戦になると戦いは膠着状態に陥ります。にらみ合いが続く中、徳川家康は、ある情報を手に入れます。
豊臣秀吉軍で、徳川家康の領地のある三河地方に、家康が留守にしている今のうちに攻め入る作戦が立てられているというのです。
徳川家康は非常に迅速に三河地方にひそかに進軍をしていた豊臣秀吉軍勢に、長久手付近ではもう追いつき、捕縛することに成功したのです。豊臣秀吉が援軍に駆け付けたときは、戦いはすでに終わっていたと言われていますから、徳川家康がいかに迅速に情報を得ることができ、またいかに迅速に状況を判断し、対応を行ったのかをうかがい知ることができますね。
こうして、徳川家康と豊臣秀吉の直接対決では、徳川家康の勝利という結果になったのでした。(「長久手の戦い」)
徳川家康の戦い6|関ヶ原の戦い
関ケ原の戦いは、豊臣秀吉が亡くなった2年後の1600年(慶長5年)に勃発した、天下の体制を決定づける合戦です。
徳川家康は、この関ケ原の戦いで大勝利をしたことで、事実上、天下統一を果たすことになるのです。
豊臣秀吉が亡くなり、誰が政権をにぎるのかを巡って徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の争いに、全国の有力大名が参加しました。
徳川家康ら東軍は総勢7万、対する石田三成ら西軍は総勢10万の陣を関ヶ原に構えます。
先に石田勢が陣を構えたことから、後から関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていたといわれています。徳川家康にとって、数的にも地理的にも不利な状況の中、戦いの火ぶたがきられたのです。
この関ケ原の戦いでは、合戦の勝敗を語るうえで欠かせない人物たちがいます。
小早川秀秋や脇坂安治らの、西軍として軍を配置していたにもかかわらず、東軍へと寝返った武将たちです。
この寝返った武将たちは、合戦が始まるだいぶ前から東軍に寝返るように調略されていました。
合戦が始まり小早川秀秋らは、このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ね、関ヶ原合戦に参加せず見守っていたそうです。
徳川家康ははっきりしない小早川秀秋の態度にしびれを切らし、ついに小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けたのでした。
その大砲を受け、「徳川家康が自分の怒っている」と悟った小早川秀秋は、東軍に寝返ることを決意。
西軍として隣に軍を配置していた大谷吉継らの陣に突撃を開始したのでした。
小早川秀秋の決断を皮切りに、調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも次々に東軍へと寝返り、西軍に戦いを仕掛けていったのでした。
このように、当初は西軍が有利でしたが、徳川勢の事前の働きかけが功を奏し、西軍側には寝返りや動かない大名が続出する結果となったのでした。
こうして、関ヶ原の戦いは、わずか6時間で徳川家康率いる東軍の大勝利として終わったのでした。
関ヶ原の戦いの原因については、こちらの記事に詳しくまとめております。
>>関ヶ原の戦いの原因を簡単に解説!いつ、どこで行われた?東軍が勝った理由は?>>
徳川家康の戦い方の特徴
徳川家康の戦い方にはどのような特徴があったのでしょうか?
晩年の徳川家康の戦いを見ると、戦場での働きよりも、戦が始まる前や情報戦としての動きに特徴があるといえるでしょう。
小牧・長久手の戦いでは情報を先んじて得ることで危機を回避していますし、関ヶ原の合戦では、友軍の確保や、敵武将の調略、戦への誘導など、さまざまな事前工作を行い、功を奏しています。大坂夏の陣でも大坂冬の陣終了後、大坂城の堀を埋めるなどの工作で戦いを有利に進めることに成功しています。
徳川家康は、その慎重な性格を戦術にも活かし、十分な調査を行い、事前に相手を寝返らすなどの情報をうまく利用して戦った、まさに戦略の武将と言えるのではないでしょうか?
徳川家康の性格については、こちらの記事に詳しくまとめております。
>>徳川家康の性格は?人柄は?どんなタイプだった?エピソードとともに解説!>>
まとめ:徳川家康は十分な調査をして戦に挑んでいた戦上手だった
徳川家康は事前に十分な調査を行い、戦いの前に事前工作を行ったうえで合戦に臨む特徴ある戦い方をしていることがわかりました。また、徳川家康は自分でいろいろなことを行うよりも、家臣を適材適所に配置し委任することを好んでいたとのことで、現代社会で例えるならば、はえぬきのベテラン管理職タイプといえるのではないでしょうか。今回の内容をまとめると、
- 徳川家康の生涯戦績は、51戦31勝13敗7分
- 徳川家康の初陣は17歳だった
- 晩年の徳川家康の戦い方の特徴は、事前に十分な調査を行い、戦いの前に事前工作を行うことだった
派手さや革新性はありませんが、上司からも部下からも信頼の厚いチームリーダーです。そんな人物だったからこそ、260年間もつづく江戸幕府をひらくことができたのですね。