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北条政子の名言集|最後の詞とは?エピソードとともに解説!

北条政子の名言集|最後の詞とは?エピソードとともに解説!

北条政子(1157年(保元2年)〜1225年(嘉禄元年))は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として有名な人物です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子を演じるということで話題になっています。

そして、北条政子は最後の詞という演説の他にも、様々な名言を残しています。

この記事では、北条政子の名言を簡単にエピソードとともに解説していきます。

北条政子の名言1|そこまであなたが安達景盛を討つと言うならば、まず私に矢を射りなさい

北条政子の名言1:
そこまであなたが安達景盛を討つと言うならば、まず私に矢を射りなさい

現代訳:
それでもあなた(源頼家)が安達景盛を攻めるとおっしゃられるのなら、まず先に私(政子)に向かって矢を当てなさい

安達景盛とは、北条政子の夫である源頼朝が伊豆に流されていた頃から仕えていた安達盛長の嫡男です。

その景盛がある時、京から容貌の素晴らしい妾を呼び寄せました。

しかし、この妾のことを頼家が気に入ってしまい、景盛が留守中に強引に奪ってしまいます。

そして、帰還した景盛が、妾を取られたことに対して頼家に恨みを持っているという噂が流れ始めるのです。

この噂を聞いた頼家は激怒し、家来に景盛を討伐するように命令します。

そこで動いたのが、政子です。
政子は頼家がしようとしていることを知り、急いで頼家に遣いを出して、こう伝えます。

「頼朝様が亡くなり、乙姫(三幡)も亡くなって、悲しい時に戦いを好むことは世の乱れの元となります。景盛は好かれる武将で、頼朝様も情けをかけておられました。景盛の罪をお聞かせくれれば、私が処分しましょう。調べもせずに誅殺することは、後悔のもとになります。それでも攻めると申すなら、まず私に向かって矢を当てなさい」

これを聞いた頼家は、政子の真剣な思いを受け止め、景盛を討つことをやめたそうです。

北条政子の名言2|私のあの時の愁いは今の静の心と同じです…

北条政子の名言2:
私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません

現代訳:
私のあの時の悩みは今の静御前の心と同じなのです。何年にも渡る義経への愛を忘れてしまい、恋慕しないというのならば、それは貞女とは言えないでしょう

源義経の愛妾である静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露した際、義経を恋しく思う気持ちを詠います。

しかし、このとき頼朝と義経の仲は最悪な状態…。
頼朝は静御前に対してひどく腹を立てます。そこで政子は上記の名言を頼朝に伝えるのです。

政子が頼朝と結婚して、伊豆山に不安な気持ちでいた時は、まさに今の静御前と同じ気持ちであったということを聞いた頼朝は、冷静さを取り戻します。
この政子の言葉により、頼朝は機嫌を直しただけでなく、静御前に褒美を与えたとも言われています。

駆け落ちに近い形で結婚した、北条政子と源頼朝。

当時のことを思い出し、頼朝を説得したのかもしれませんね。

北条政子の名言3|子供たちの中でただ一人残った大臣殿を失い、これでもう終わりだと思いました…

北条政子の名言3:
子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失い、これでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました

現代訳:
子供たちの中でただ一人残った源実朝まで失い、これでもう終わりだと思いました。なぜ尼一人(政子自身のこと)が憂いの多いこの世を生き続けなければならないのでしょう。川に身を投げようとすら思ったのです

政子は、自分の子供も孫もそのほとんどが自分が亡くなるよりも前に亡くしています。

この名言は、三代将軍・源実朝が亡くなってしまったときに放った言葉です。
子供に対して冷たいと言われがちな政子ですが、この言葉からは確かな母の愛を感じることができます。

北条政子の「最後の詞」は伝説の名演説!?全文を現代語訳付きで解説!

政子は承久の乱の際、「最後の詞」と呼ばれる演説をして、幕府軍を勝利に導いたと言われています。
しかし、この演説は出典によって内容が異なるのです。

ここでは、出典別(吾妻鏡・承久記)に全文を現代語訳付きで簡単に解説していきます。

『吾妻鏡』の最後の詞

吾妻鏡に記載されている最後の詞:
「二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。是れ最後の詞なり。故右大将朝敵を征伐し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切る可し者り。群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺れ申す返報委かならず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ」

現代訳:
従二位の北条政子は、家人達を簾の下に招き、安達景盛に示し含めて言うことに、
「皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の詞です。故右大将軍(源頼朝)が朝敵(平家)を征伐し、関東(鎌倉幕府)を草創してから、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く、海よりも深いのです。恩に報いようという志が浅くはありませんか。しかるに今回、逆臣の讒言によって、道義に反した綸旨(天子の命令)が下されました。名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義(上皇方の首謀者)らを討ち取り、三代将軍の眠る、この鎌倉の地を守りなさい。ただし、院方に参ろうとする者は、ただ今申し出るとよい」
たくさん集まっていた武士たちは、ことごとく命に応じ、かつ涙に溺れ、申し上げる返事もはっきりと言葉にならない。
ただ命を軽んじて恩に報いんことを思うのであった。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府における公式な記録書であるので、実際の演説内容に近いのではないかと考えられています。
これを聞いた幕府の御家人たちは心を打たれて、動揺することなく一致団結し、承久の乱に勝利したと言われています。

『承久記』の最後の詞

承久記に記載されている最後の詞:
「二位殿 仰せられけるは、
「殿原、聞きたまへ。尼、加様に若より物思ふ者候はじ。一番には姫御前に後れまいらせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後、又打ちつづき左衛門督殿に後れ申、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度の思は已に過ぎたり。今度、権太夫打たれなば、五の思に成ぬべし。女人五障とは、是を申すべきやらん。殿原は、都に召上げられて、内裏大番をつとめ、降にも照にも大庭に鋪皮布、三年が間、住所を思遣、妻子を恋と思ひて有しをば、我子の大臣殿こそ、一々、次第に申止てましましし。去ば、殿原は京方に付、鎌倉を責給ふ、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄にけさせ給ふ者ならば、御恩蒙てまします殿原、弓矢の冥加とはましましなんや。かく申尼などが深山に遁世して、流さん涙をば、不便と思食すまじきか。殿原。尼は若より物をきぶく申者にて候ぞ。京方に付て鎌倉を責んとも、鎌倉方付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」
とこそ、宣給ひけれ」

現代訳:
従二位の北条政子が仰せられることに、
「お前たち、聞きなさい。私は、これほど、若いころから物思いの絶えない者はございません。一番には姫御前(=長女・大姫)に死に遅れ、二番には大将殿(=夫・頼朝)に死に遅れ、その後、また続いて左衛門督殿(=長男・頼家)に死に遅れ、またほどなく右大臣殿(=次男・実朝)に死に遅れました。四度も辛い思いに、私はもういっぱいです。今度、権太夫(=北条義時)が討たれれば、五度の辛い思いをすることになります。「女人五障」ということば『法華経』にあるが、これを言うのでありましょう。お前たちは、都に召し上げられて、内裏大番(宮中の警護役)を務め、雨が降っても日が照っても、清涼殿の前庭にしき皮を敷いて、三年の間、故郷を思いやり、妻子を恋しく思っていたのを、我が子である大臣殿が、ひとつひとつ、じょじょに、おつとめが免除されるようにしてくださいました。であれば、お前たちが京方について鎌倉をお攻めになることは、大将殿、大臣殿二人の御墓所を馬の蹄に蹴らせなさるものであるので、御恩を受けていらっしゃるお前たち、武士の道において神仏の加護がありましょうか。(いや、あるわけがありません)かく申す私などが深山に隠棲して、流す涙を、不憫とはお思いにならないのでしょうか。お前たち、私は若いころから物の言い方がきつい者であります。京方について鎌倉を攻めるのも、鎌倉方について京方を攻めるのも、思うままに仰せられよ、お前たち」
とおっしゃった。

『承久記』はいわゆる軍記物・お話の書物ですので、ドラマチックに描かれているようです。

作者が北条政子に共感して、政子の内面をより深く掘り下げているのでしょう。

まとめ:北条政子の名言は、多くの人の心を動かす強いリーダーシップが現れていた

北条政子は、冷たい人間だとか、悪女であるとか言われがちですが、その名言からは義理や人情のようなものであったり、愛情であったりをしっかりと感じ取ることができます。

また、皆をまとめて士気をあげるというような、強いリーダシップも現れていました。

今回の内容をまとめると、

  • 北条政子の名言には、多くの人の心を動かす力があった
  • 名言から見る北条政子は、義理や人情、愛情に溢れた人物であった
  • 北条政子の最後の詞のおかげで、幕府軍は承久の乱に勝利した
  • 最後の詞のように強いリーダーシップがあったからこそ、尼将軍と呼ばれるまでになったといえる

身内の死に心を痛める様子や、敵であるはずの静御前の心に寄り添う様子などから、北条政子は本当に優しい、誰よりも愛に溢れた人物であったのではないかと思いました。

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