平清盛(平氏)の戦い|源平合戦はなぜおこったのか?平氏の滅亡までを簡単に解説!

平清盛(平氏)の戦い|源平合戦はなぜおこったのか?平氏の滅亡までを簡単に解説!

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平清盛は、貴族中心の平安時代から武士中心の鎌倉時代への過渡期に活躍した平氏の棟梁です。

平安時代の後期から台頭してきた武士団の2大勢力「平氏」と「源氏」の間で、幾度も争いがおきました。この数々の内戦をまとめて「源平合戦」と呼ばれています。

源平合戦は、狭義では「治承寿永の乱」を指し、広義では「保元の乱」から源頼朝が鎌倉幕府の征夷大将軍に就任するまでを指します。

今回は広義の意味の方としての「源平合戦」に注目し、源平合戦が起きた理由や、壇之浦の戦いで平氏が滅亡した経緯などを簡単に説明していきます。

平清盛(平氏)の戦いを年表形式で解説

平清盛は、平安時代後期に台頭してきた武士団である「平氏」の棟梁です。
平清盛は、「保元の乱」や「平治の乱」を切掛けに、朝廷の中で権力を強めていき、武士としては初めて朝廷の最高職「太政大臣」に任じられました。

平清盛は、貴族や朝廷のガードマン的存在でしかなかった「武士」の政治的な地位を向上させた人物なのです。

権力を手に入れた平清盛は、皇帝に自分の妻の妹を嫁がせ、甥っこを次期皇帝にすることに成功します。

平清盛は、平氏一門を重用し、一族で栄華繁栄を極めることに成功しましたが、平氏の圧力によって時期皇帝の座から追いやられた以仁王もちひとおうが平清盛への挙兵を命じる文書を発布すると、それが全国的に広まり、平氏に対する挙兵活動が各地で勃発します。

鎌倉幕府をつくった源頼朝も、伊豆国で挙兵した一人です。

このタイミングで平清盛は64歳で謎の発熱により急死。

平氏は負け戦が重なっていき、ついに「壇之浦の戦い」で滅亡してしまうのでした。
平清盛が率いた「平氏」の栄枯盛衰の様子を年表形式で解説していきます。

源平合戦の年表

源氏と平氏の戦いである「源平合戦」の経緯を、年表で簡単に紹介していきます。

「源平合戦」は、狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承寿永の乱」を指しますが、今回は、広義の1156年(保元元年)の「保元の乱」から1192年(建久3年)に「源頼朝が征夷大将軍に就任するまで」の方で解説をしていきます。

【源平合戦の年表】

  • 1156年(保元元年)保元の乱
    平清盛と源義朝は、後白河天皇方に付き、勝利する
  • 1159年(平治元年)平治の乱
    平清盛と源義朝が戦い、平清盛が勝利する
    源義朝は殺害され、源頼朝は伊豆に流刑される
  • 1180年(治承4年)源頼朝の挙兵
    以仁王の挙兵を命じる文書が全国的に広まり、平氏に対する挙兵活動が各地で勃発
    源頼朝も伊豆国で挙兵する

    ※ 8月石橋山の戦い
    相模国石橋山(現在の神奈川県)で行われた、源頼朝と平氏軍(大庭景親ら)との戦い
    源頼朝が敗れ、安房(現在の千葉県)に逃げる

    ※ 10月富士川の戦い
    駿河国富士川(現在の静岡県)で源頼朝・武田信義軍と平維盛との戦い
    平氏軍は水鳥の羽音を敵の大部隊の襲来と誤認して逃走し、源頼朝は戦わずして勝利したと伝えられている
    平氏軍敗走し、敗戦を経るも、鎌倉入りを果たす
  • 1181年(治承5年)平清盛の死
    平清盛が64歳で亡くなる
  • 1183年(寿永2年)源平合戦の激化
    平清盛派の平氏と、源頼朝派の源氏の戦いが激化していく

    ※ 5月 倶利伽羅峠くりからとうげの戦い
    越中・加賀国(現在の富山県・石川県)の国境にある倶利伽羅峠で、源義仲軍と平維盛軍との戦い。平氏が大敗し、北陸道の支配圏を失う

    ※ 8月都落ち
    源氏の勢力が迫り、平清盛の一族は、安徳天皇を連れて京の都を捨てざるをえなくなる
  • 1184年(寿永3年/治承8年)2月一ノ谷の戦い
    摂津国福原と須磨(現在の兵庫県)で、源義経軍と都落ちした平氏方との戦い。
    源義経がとった、急ながけを馬で下る奇襲作戦により、源義経軍は大勝利をおさめる
    不意を襲われた平氏方は大損害を被り、一門の多くが命を落とした
  • 1185年(寿永4年/元暦2年)平氏の滅亡・鎌倉時代がはじまる

    ※ 2月屋島の戦い
    讃岐国屋島(現在の香川県)で、源義経軍と平氏方との戦い
    源義経がとった、嵐の中で船を渡り村に火を放つ奇襲作戦により、源義経軍は勝利をおさめる
    不意をつかれた平氏は大混乱におちいり、海へ逃げていった

    ※ 3月壇ノ浦の戦い」:長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県)で、源義経軍と平氏方との戦い
    源義経軍が勝利し、平氏は滅亡する

    ※ 11月 源頼朝が守護・地頭の任命権を獲得し、鎌倉幕府の統治基盤が整えられる
  • 1192年(建久3年)源頼朝が征夷大将軍に任命される
    源頼朝が征夷大将軍に任命され、全国の武士を従える地位につく。

源平合戦は、国家体制を左右する戦いだった!

源平合戦は、「平氏と源氏の雌雄を決する戦い」という「武」の面だけを持っているものではありませんでした。
源平合戦は、日本の「国家体制」を決める戦いという一面も持っていたのです。

平清盛と源頼朝はどちらも、「政治的権力を手に入れる」ことを目指して戦っていたと言ってもよいと思います。
しかしながら、平清盛と源頼朝では、目指す「国の政治システム」に明確な違いがあったのです。

【平清盛の国家プラン「中央集権制度の維持」”】

平清盛が目指す国の政治システムは、平安時代のものと大きく変わらないものでした。
平清盛は、新しく武士による政治を生み出したかったわけではなかったようです。

貴族による中央集権制度は変えることなく、平氏の方を有力貴族に押し上げることで、朝廷の政権を握っていたわけです。

【源頼朝の国家プラン「封建制度の設立」】

源頼朝は今までの制度を壊して、全く新しい国家システムの構築を目指していたと考えられています。
今まで国家のものとしていた土地を、家臣の武士の働きに対して与えて管理運営を任せるシステムを目指していたのです。君主と家臣が土地を介して主従関係が結ばれるこの制度は「封建制度」とよばれています。

源平の戦いは「武力による強者を決める戦い」なだけではなく、「国家の体制」を決める戦いでもあったというわけですね。

平清盛はどんな戦い方をしていた?

平清盛は、「政治上手の戦下手」と表現されることも多い人物です。
平清盛は武力よりも情報収集の能力に優れていたといわれています。得た情報を上手くつかい、勝利を得ていたというわけです。

実際、「平治の乱」では複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害を最低限に抑えることに成功しています。

平清盛は頭脳派で優秀な武将でもあったといってよいのではないでしょうか。

平清盛と源頼朝は直接戦った?

平氏の棟梁である「平清盛」と源氏の棟梁である「源頼朝」ですが、実は、直接対峙したことはほぼありません。

平清盛と源頼朝の年の差は30歳程あり、一世代ちがう人物だったというわけです。
源頼朝の父親の源義朝の方が、平清盛と同世代であり、協同して戦った「保元の乱」や源平が対立する始まりとなった「平治の乱」で関わりが深い人物といえるでしょう。

「平治の乱」では平清盛と源頼朝が共に挙兵していますが、源頼朝は初陣の若者でしかなく、源氏側の中心はやはり源朝義であったため、この戦いを一緒に戦ったといっていいのか微妙な所といえるでしょう。

世代が違う二大武将が、共に全盛期の勢いのまま戦ったのならば、果たしてどちらが勝ったのでしょうか。

保元の乱とはどんな戦い?

源平合戦の切掛けとなったのが、平安時代後期の1156年(保元元年)の「保元の乱」です。

源平合戦で壮絶な戦いをすることとなった平氏の平清盛と、源氏の源義朝は、保元の乱では仲間として戦っていました。
共に仲間として戦っていた源氏と平氏がなぜ戦うことになったのでしょうか?

平安時代の後期になると、武芸に率いた武士が台頭し、「源氏」と「平氏」の2つの武士団として勢力を強めていきます。しかしながら、まだまだ武士の地位は高くありませんでした。
強い権力を持つのは天皇や貴族で、武士は雇われる立場だったのです。

そんな中、都では天皇たちによる政権争いが勃発します。
天皇たちは、自分達の争いに武士の力を利用することにします。こうして起きたのが「保元の乱」です。

保元の乱では、平氏と源氏の棟梁である平清盛と源義朝は同じ天皇側に付き、味方として戦い勝利しました。

この戦いでの功績を認められ、平清盛も源義朝も天皇に褒美をもらいます。

源義朝は左馬頭さまのかみに任じられます。
左馬頭は軍事部隊のトップの地位です。源義朝は、当時の武士の最高位を与えられたというわけです。

一方、平清盛は、播磨守はりまのかみに任じられます。
播磨守は播磨国の受領国司で、天皇の近臣が任命されるポジションでした。
平清盛は、いままで武士には与えられていない地位を与えられたのです。

つまり、平清盛が播磨守に任じられたという事実は、武士の権力が強くなったということと、天皇が平清盛を大事にしたいと思っていたことが伝わるものというわけです。

平治の乱とはどんな戦い?

「保元の乱」の3年後、今度は天皇の近臣らによる権力争いが勃発します。「平治の乱」です。

「平治の乱」では、平清盛と源義朝は別々近臣に味方をすることになりました。
一説によると、天皇が平清盛ばかりを大事にするので、不満を募らせた源義朝が発起人となって、保元の乱が起こしたと言われています。

こうして、平清盛を筆頭とする「平氏」と源義朝を筆頭とする「源氏」が対立することになりました。

源義朝らは、平清盛が京の都を留守にした時を見計らって兵を挙げ、天皇と上皇を幽閉することに成功します。

都に戻り、源義朝らの御所襲撃を知った平清盛は、巻き返しをはかります。
平清盛はいきなり武力で対峙するのではなく、まずは天皇と上皇を助け出します。
天皇を女官に変装させて、幽閉場所から助け出したというエピソードが残されています。

天皇を取り戻した平清盛は、いよいよ兵をあげます。

平清盛の攻撃で、京都を逃げ出した源義朝は、家来の裏切りにあって命を落としてしまいます。

この戦いが初陣だった源頼朝も捉えられ、伊豆国に流刑されてしまいます。

「平治の乱」は平氏の勝利で終結し、平清盛は、ますます朝廷の中で権力を得ることになるのです。

こうして、平氏の栄華繁栄の土台が築かれていったのでした。

壇ノ浦の戦いとはどんな戦い?

平清盛の元で栄華繁栄を極めた平氏は、「壇ノ浦の戦い」で源義経軍によって滅亡します。

「一ノ谷の戦い」や「屋島の戦い」で平氏に圧勝した源義経は、平氏を西へ西へと追いこんでいきます。
そして、ついに壇ノ浦の船上決戦で、平氏を滅亡させたのです。

壇ノ浦に終結した平氏方の船はおよそ500艘、対する源氏は840艘だったといわれています。
平氏の方には、女性や幼い安徳天皇もいました。圧倒的不利な状況ながらも平氏の武士たちは奮闘します。
一時は優勢になる時もありましたが、ついに源氏に攻め込まれてしまいます。

敗北を悟った平氏一門の武将や女性たちは次々と自死していきます。
平清盛の妻である平時子も、幼い安徳天皇を抱きかかえ、「阿弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます。」と幼い安徳天皇を抱いて入水したといわれています。

平氏最後の地となった壇ノ浦は、九州と本州とを隔てる関門海峡の中でも最も狭く、わずか500m程しかない海峡です。

対岸を見ることができる程の海峡で、平氏滅亡の壮絶な戦いが行われていたのですね。

平氏は本当に滅亡したのか?

壇ノ浦の合戦で滅亡したとされている平氏ですが、本当に滅亡したのでしょうか。

じつは、平氏は滅亡していないのです。

平清盛の「平氏」一門は壇之浦の戦いで滅びたとされていますが、東国に根を張っていた「平氏」は後世にわたって残っています。源頼朝の樹立した鎌倉幕府で実権を握っていた北条氏も、伊勢平氏の支流の系統といわれていますし、鎌倉幕府の有力御家人の中にも三浦氏、和田氏、千葉氏、梶原氏など、多くの「平氏」が含まれていました。

戦国時代でも、「平氏」は滅んでいません。
上杉謙信の長尾氏や、織田信長の織田氏も「平氏」の系統と言われています。

平氏は日本の歴史になくてはならない存在なのですね。

実は平氏は逃げ延びた?

平清盛の「平氏」も滅亡していないという説も存在しています。
平氏の残党や郎党が身分を隠して味方の西国の武士たちのところに逃げていき、僻地や山奥で隠れくらしたという伝承が日本各地でのこされているのです。

「平氏の落人伝説」は、日本各地に存在していますが、富山県の五箇山や、栃木県日光市の湯西川温泉が有名です。

もしも平氏が逃げ延びた事実が存在していても、絶対的に秘密にされていたはずです。

そのため、史料が残されておらず、証明はできませんが、同時に否定もまだできないのです。

栄華繁栄を誇った平清盛の平氏たちは、歴史のミステリーとして、私たちの心を今も尚、惹きつけている存在です。

まとめ:平清盛(平氏)の戦いは、後の武家政権を作るきっかけとなった

平清盛の「平氏」と源頼朝の「源氏」の戦いは、国の政治システムを変える大事な戦いだったということが分かりました。平清盛の「平氏」が栄華繁栄した歴史があったからこそ、源頼朝の「封建制度」という政治システムが確立したのだと思います。
つまり、平清盛の戦いは、鎌倉時代から江戸時代まで700年間続く「武家政権」を作るきっかけとなったんです。

今回の内容をまとめると

  • 平清盛は、戰上手、政治上手と言われている
  • 平清盛と源頼朝は直接戦っていない
  • 源平合戦は「保元の乱」からはじまった
  • 源平合戦は「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡することで終わった
  • 平氏は滅亡せずに生き延びたという「平氏の落人伝説」が日本各地で残されている

「源平合戦」の場所に注目すると、本当に日本各地で戦っていることがわかりました。
「源平合戦」は、日本の歴史を決めるうえで本当に重要だったんですね。

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