千利休の子孫たち。千利休の末裔が残した現代に続く三つの「千家」

千利休の子孫たち。現代に続く三千家

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戦国時代に茶の文化を確立させた千利休。千利休は、織田信長や豊臣秀吉にも意見できるほど強い権力を持ち、その影響力は非常に大きいものでした。
そして、千利休が確立した茶湯の文化は、千利休の子孫たちを通して現代にも続いています。
今回は、千利休の子孫たちと、現代に続く三つの「千家」についてまとめていきます。

千利休の家系図

千利休は、生涯に二人の妻をとり、正妻以外の女性との子供を含めると男子6人、女子6人の子を残したと言われています。

千利休の家系図


千利休の最初の妻とその子供達

千利休の最初の妻は、「お稲(宝心妙樹ほうしんみょうじゅ
三好長慶みよしながよしの妹で、1542年(天文11年)頃に利休と結婚し、一男四女をもうけています。
夫婦仲はあまりよくなかったようです。
宝心妙樹は、利休と結婚し約35年ほど経ったのち亡くなっています。

【お稲(宝心妙樹)の子供達】

・千道安せんのどうあん(長男)
 千利休と同様に茶人として高く評価され、豊臣秀吉の茶道8人衆として活躍。
 千利休が切腹により亡くなったあとは、蟄居ちっきょ、謹慎となりました。
 謹慎が解かれたのち、堺に戻り家督を継ぎ、堺千家さかいせんけを再興しましたが、
 千道安は後継に恵まれず、道安が亡くなると堺千家は断絶しました。

・娘(長女)
 茶人 千紹二せんのしょうじに嫁ぎました。

・娘(次女)
 利休の弟子である万代屋宗安もずやそうあんに嫁ぎました。
 1589年(天正17年)豊臣秀吉が気に入り、側室になるように求めました。
 しかし、利休は娘を使って秀吉に取り入ったと思われることを嫌がり、また娘
 自身もも気乗りしなかったため、それを断りました。
 この娘との一件が原因で、秀吉は利休に切腹を命じたという説があります。
 夫の没後、実家に戻ったと言われています。

・娘(三女)
 従弟にあたる石橋良叱いしばしりょうせきに嫁ぎました。

・娘(四女)
 吟。本能寺の元僧侶で、茶人の古市宗円ふるいちそうえんに嫁ぎました。

千利休の後妻とその子供達

おりき(宗恩そうおん)は、能役者の宮王三入と結婚しており、一男(のちの千少庵せんのしょうあん)を産みました。夫に先立たれたのち、1578年(天正6年)かねてより縁のあった前妻を亡くした千利休と再婚しました。
宗恩は、茶湯に精通しており、新たな袱紗ふくささばきを提案したりと、千利休の良き理解者で、良き補佐役だったと言われています。

【おりき(宗恩)の子供達】

・千少庵せんのしょうあん
 宗恩の連れ子。利休と宗恩が再婚したことがきっかけで、亀(利休の六女、母
 の詳細不明)と結婚し、利休の婿養子となりました。

・宗林そうりん(次男)
 母は宗恩。若くして亡くなった。

・宗幻そうげん(三男)
 母は宗恩。若くして亡くなった。

千利休の庶子たち

千利休には、出生や詳細が不明な子供達もいます。主に庶子(本妻以外の妻との間に生まれ、父親が認知した子供)と言われています。つまり、奥さん以外との間に生まれた子供です。

田中宗慶たなかそうけい
 一説によると庶長子。楽焼の名手と言われた陶芸家です。
 楽焼の通例となっている、高台内の「樂」字捺印はこの田中宗慶の作品から
 始まったと言われています。

・清蔵主
 一説によると庶子と言われています。詳細は不明。

・五女?
 庶子?魚屋与兵衛に嫁いだとされていますが、詳細は不明。

・亀(六女?)
 ちょうちょうとも?1576年(天正4年)頃のちに利休の養子となる少庵を婿とし
 た。
 少庵との間に息子 千宗旦をもうけている。
 この宗旦が現代にも続く三千家の始まりの人物です。

少庵との夫婦仲は良好でなく別居していたが、宗旦が利休に連座しようとしたときには別居先から駆けつけたといわれている。

千利休の切腹の原因は娘?あの秀吉が求婚した千利休の娘

現代に続く侘茶を確立した千利休。その人生は、豊臣秀吉の命により切腹させられ幕を閉じました。

千利休の切腹の理由は、

  • 大徳寺の木像が、秀吉の気に触った
  • 茶の道具を高値で売買していた
  • 秀吉が利休のことを脅威に感じ始めた
  • 秀吉との意見の相違

など諸説ありますが、利休の切腹の原因の一つと考えられているのが、利休の娘との一件です。
秀吉は、利休の次女のことを大そう気に入り、側室になるように求めたといいます。利休の娘を気に入ったのももちろんですが、政治的な意図もあったように感じます。
千利休は、秀吉の筆頭茶道も努めており、多くの戦国大名たちからの信頼も非常に厚かったのです。その利休の娘を側室にするということは、利休と血縁関係にも近い強固な信頼関係を築くことになります。
そんな利休の人望や信頼を、秀吉は自分の政治にも利用しようとしたのではないかと考えられています。
秀吉は、農民の息子から関白まで上り詰めた天下人。自分の思ったものはなんでも手に入れるという一面もあったため、利休とその娘に申し出を断られたことが非常にショックだったのでしょう。
今となっては真相は闇の中ですが、自分の思い通りにならなかったことも、利休に切腹を命じた理由の一つである可能性はありますね。

千利休の切腹の理由に関しては、こちらの記事に詳しくまとめてあります。

千利休の末裔が残した三つの千家、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」

千利休の確立した侘茶は、現代にも茶道の名家としてその精神を受け継いでいます。
千利休の孫にあたる、千宗旦が現代に続いている三千家の源です。
千宗旦は、もともと仏門として大徳寺に入っていましたが、帰属して千家の再興と侘茶の普及に励みました。
宗旦自身は、祖父である千利休が政治との関わりの中で切腹という形で生涯を終えたことにトラウマを感じていたのか、政治との関わりを嫌い、生涯誰にも仕官しませんでした。
その宗旦の息子たちが、各々で大名家に仕え、千利休の侘茶の精神が後世に伝えられるようになったのです。

【千利休の精神を継ぐ「三千家」】

  • 表千家(三男「千宗左せんのそうさ」)
  • 裏千家(四男「千宗室せんのそうしつ」)
  • 武者小路千家(次男「千宗守せんのそうしゅ」)

三千家は、利休のひ孫にあたる世代が、利休の精神を大切にしながら興したんです。
では、それぞれの千家の由来と、簡単な特徴をみていきましょう。

表千家

表千家は、千宗旦の三男「千宗左」が宗旦から家督を継ぎ、千利休にゆかりのある「不審庵」を拠点として表千家を創立しました。
初代家元は千利休、現在は第15代千宗左せんのそうさ

【表千家の主な特徴】
・古来からの作法に忠実な本家本流
・道具や作法などは比較的質素
・わびさびにに関してのこだわりが強い
・茶は泡を立ててはいけない
・左足から部屋に入る
・1畳を6歩で歩く
・男性は紫、女性は赤の帛紗ふくさを使用する

裏千家

裏千家は現在は茶道界で最大の流派です。
千利休の四男「千宗室」が、不審庵の裏にあった「今日庵こんにちあん」を拠点として創立しました。
明治時代に、戦後に茶道復興に尽力し、学校に茶道部を作るなど教育機関と関わりを強め、現代では最大級の流派となっています。
現在の家元は、裏千家16代坐忘斎宗室さぼうさいそうしつ

【裏千家の主な特徴】
・茶を泡立てる
・右足から部屋に入る
・1畳を4歩で歩く
・男性は紫、女性は朱色の帛紗を使用する

武者小路千家

武者小路千家は、二男「千宗守」が武者小路通りにあった「官休庵かんきゅうあん」を拠点として創立しました。
流派の茶室が、天明の大火や幕末兵火などで焼失・再建を繰り返した。
茶室の造りや所作など、無駄のない合理的なことが特徴的な流派。
現在の家元は、武者小路千家14代不徹斎千宗守ふてっさいせんのそうしゅ

【武者小路千家の主な特徴】
・茶は泡を立てない
・柱側の足から部屋に入る
・1畳を6歩で歩く
・男性は紫、女性は赤の帛紗を使用する

表千家、裏千家、武者小路千家は、それぞれ創立された場所から名前がついてるなんて意外ですよね。
三千家ともに、千利休の侘茶の精神を受け継ぎ争うこともなく、共存共栄して現在に至っています。

まとめ:千利休の子孫たちは、三つの千家で茶湯の精神を現代にもつなげている

今回は、千利休の子孫たちと、その子孫たちが残した茶湯の流派「三千家」についてご紹介しました。

簡単にまとめると、

  • 千利休には2人の妻、連れ子や庶子を含めて6男6女の子供がいた
  • 千利休の孫たちにより三千家が創立された
  • 表千家、裏千家、武者小路千家はその発祥の地が名前の由来となっている
  • 三千家は、それぞれの特徴を持ちながら、共存共栄して現代にも続いている

特徴は多少違っても、400年以上も続く流派を確立させた千利休は、まさに茶聖と呼ぶにふさわしい人物ですね。

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