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天草四郎の子孫は現在まで続いてる?豊臣秀頼の息子だった?家系図で簡単に解説!

天草四郎(1621(元和7)〜1638(寛永15))は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆軍の最高指導者です。本名は益田四郎と言います。

天草四郎を取り上げている作品はとても多く、小説やドラマ、アニメ、ゲームなど幅広いジャンルで描かれているため、知っている人も多いでしょう。

そんな天草四郎は子孫が現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、天草四郎の子孫について、家系図を見ながら簡単に解説していきます。

天草四郎の家系図を簡単に解説!

【天草四郎の家系図】

天草四郎の家系図

天草四郎の家族構成

【天草四郎のプロフィール】

天草四郎(あまくさしろう)/本名:益田四郎(ますだしろう)
洗練名:ジェロニモ(Geronimo)、フランシスコ(Francisco)
1621年(元和7年)〜1638年(寛永15年)/享年:17歳
出身地:天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)※出身地については諸説あり
父:益田好次/母:渡辺伝兵衛の娘
兄弟:善、つる、万
妻:有家監物の娘

天草四郎は、母親の実家があった天草諸島の大矢野島にて、益田好次と渡辺伝兵衛の娘の間に長男として生まれました。

天草四郎の出生地については諸説あり、肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市)や、長崎出身という説もあり、はっきりと判明していません。

父親・益田好次は、関ヶ原の戦いで破れて斬首されたキリシタン大名・小西行長の遺臣でした。

そのため、小西氏が滅亡した後は、浪人百姓になりました。

また、その際に一家で宇土へと移住したようです。

そして、島原の乱が起こる直前に好次に伴われて天草へと移りました。

『天草陣雑記』によると、天草四郎は有家監物の娘と結婚したと書かれています。

監物はキリシタン大名の有馬晴信に仕えていた人物で、島原の乱では実質的な総大将の地位にありました。信憑性の高い資料に書かれているため、天草四郎に妻がいたことはほぼ間違いありませんが、それ以外のことは書かれておらず、詳細は不明のままです。

天草四郎は16歳という若さで島原の乱の総大将に選ばれ戦死した?

天草四郎は、幼少期から学問に親しみ、優れた教養がありました。

生まれながらにして文字がかけたという話もあるくらいです。

さらに、
・目の見えない少女に手を当てると、少女の目が見えるようになった
・大矢野から島原まで海の上を歩いて渡った

などといった数々の奇跡を起こしたという話もあります。

そこに、マルコス宣教師の「島原の乱の直前に救世主が現れる」という予言が合わさり、天草四郎は、キリストの生まれ変わりだという噂が広まっていきます。

キリシタンが多い島原藩にとって、イエス・キリストは神で、崇めるべき対象。
天草四郎はその生まれ変わりだと言われているわけですから、天草四郎と一緒に戦うことは、神と一緒に戦うこととなり、当然士気は上がります。

そのため、天草四郎はなんと16歳という若さで島原の乱の総大将に抜擢されました。

島原の乱が日本史上最大の規模となったのは、間違いなく天草四郎の持つカリスマ性があったからでしょう。

しかし、天草四郎は戦術に長けているわけでもなく、ましてやまだ16歳という若さの青年。奮闘虚しく、一揆は幕府軍に制圧され、天草四郎もその最中に討ち取られ戦死したと言われています。

天草四郎の子孫は現在まで続いている?

天草四郎は島原の乱の最中に戦死してしまったと言われています。
天草四郎の子孫は残っているのでしょうか?

ここでは、天草四郎の子孫について簡単に解説していきます。

天草四郎の子孫は途絶えてしまった?

天草四郎は有家監物の娘と結婚していましたが、子供を授かることはありませんでした。

16歳という若さで、島原の乱の総大将に抜擢されてしまったため、子供を授かる暇もなかったのかもしれません。そのため、隠し子などがいない限り、天草四郎の子孫は途絶えてしまったことになります。

天草四郎の一族は皆殺しにされた?

天草四郎に子供はできませんでしたが、四郎の姉には息子がいました。

つまり、甥っ子は存在していたわけです。

これで益田家は続いていくのかと思いきや、なんと四郎の一族は皆、島原の乱などで戦死するか処刑されてしまったのです。そのため、天草四郎の生家である益田家の血が後世に続いていくことはありませんでした。

天草四郎は豊臣の子孫だった?

天草四郎の父親は益田好次ですが、実は別の人物であったのではないかという説も存在します。
その説とは、実は豊臣秀頼の息子だったのではないかという説なのです。
ここでは、天草四郎と豊臣氏の関係について簡単に解説していきます。

豊臣秀吉の血はどうやって九州に渡った?

豊臣秀吉の血はどのようにして九州に渡ったのでしょうか?誰かが九州に行かないとその地に血は残りませんよね。そこで挙げられるのが、豊臣秀吉の子・秀頼です。

秀頼といえば、大阪夏の陣にて自害したと言われていますが、実は生き延びていたのではないかとする説があるのです。
事実、豊臣秀頼の遺体は発見されておらず、最後を確認した人もいないという状況で、当時京ではこんな歌が流行ったと言われています。

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きに退いたり鹿児島へ」

つまり、真田幸村が秀頼を連れて鹿児島へと逃げたというわけです。

このことは、「幸村君伝記」にも書かれています。
さらに、鹿児島には秀頼の墓だと伝えられているものや、豊臣家ゆかりのものがいくつも存在します。

このように、秀頼は生き延びて九州に渡っていたという証拠が揃っているのです。そのため、九州に秀吉の血が残っているというわけです。

天草四郎は豊臣秀頼の息子だった?

豊臣秀頼が九州に渡って生き延びていたという説から派生したのが、天草四郎が秀頼の息子だったのではないかとする説です。
秀頼には実は隠し子がおり、その中には行方不明になっていた子供もいました。
天草四郎もそのうちの1人なのではないかと考えられているのです。

天草四郎が秀頼の子だとする理由はいくつかあります。

【天草四郎が豊臣秀頼の子供だとされる理由】

  • 天草四郎は、豊臣秀吉と同じ「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」を馬印として使用していた
  • 天草四郎が「豊臣秀綱」を名乗っていたという資料が鹿児島に残っている
  • 江戸幕府が島原の乱について記した文章の中に、「天草四郎は秀頼の子」という記述が残されている

豊臣家と同じ馬印は、当時簡単に使用できるものではありませんでした。
そのため、天草四郎が豊臣家とゆかりのある人物だということは確実なのでしょう。

本当かどうかははっきりとわかっていませんが、天草四郎に豊臣氏の血が流れているのだとしたら、その溢れ出るカリスマ性にも納得がいきますね。

まとめ:天草四郎は若くして戦死したため、子孫が続くことはなかった

天草四郎は、幼少期から培われた知性と教養、数々の起こした奇跡などからカリスマ性が高められ、16歳という若さで島原の乱の総大将に抜擢されました。しかし、奮闘虚しく、一揆の最中に四郎は討ち取られて戦死してしまいました。
若いうちに亡くなってしまったため、天草四郎に子供はおらず、その子孫が続くことはありませんでした。

今回の内容をまとめると、

  • 天草四郎はキリストの生まれ変わりとして崇められ、島原の乱の総大将に抜擢された
  • 天草四郎は、島原の乱の最中に、討ち取られ戦死した
  • 天草四郎は、結婚して妻はいたが、子供はできなかったため子孫は続かなかった
  • 天草四郎は豊臣秀頼の息子だったのではないかという説も存在する

天草四郎がいつ結婚したのかはわかりませんが、16歳という若さであれば、子供を授かって、家族で色々な思い出を作るなど、これから先いろんな楽しみがあったはずです。
島原の乱の総大将に選ばれてしまったばっかりに、それらの楽しみが一切なくなってしまったのであれば、天草四郎は悲劇の人だったとも言えるでしょう。

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