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沖田総司の子孫は現在まで続いてる?家系図で簡単に解説!子孫にはユーミンも?

沖田総司(1842?(天保13)〜1868(明治元年))は、幕末に活躍した武士です。

沖田総司は、新選組一番隊組長及び撃剣師範として、新選組の活躍に大きく貢献しました。

新選組は、ドラマや小説、舞台、ゲームなど様々な媒体で取り上げられているので、知っている方も多いかもしれません。
そんな沖田総司の子孫は現在まで続いているのでしょうか?この記事では、沖田総司の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

沖田総司の家系図をわかりやすく解説!

沖田総司の家系図

沖田総司の家族構成

【沖田総司のプロフィール】

沖田総司(おきたそうじ)

1842?年(天保13?年)〜1868年(明治元年) 
享年:24歳or25歳or27歳
出身地:江戸(現在の東京都港区)
父:沖田勝次郎
母:ミキ

沖田総司は沖田勝次郎の長男として江戸で生まれました。

その出生については不明な点が多く、母親も正確なところはわかっていません。

生年は、今の所1842年(天保13年)と1844年(天保15年)の2つの説が存在していますが、やはり正確な日付はわかっておらず、夏であったということしか判明していません。

成長して、新選組に入隊し活躍していくのですが、沖田総司は生涯結婚することはなかったため、妻はいませんでした。そのため、当然子供もいません。

沖田総司は姉に育てられた?

沖田総司の父・沖田勝次郎は、沖田総司がわずか2歳のときに亡くなってしまいました。
そして、母親も詳しい時期等はわかっていませんが、同じく幼い頃に亡くなってしまったようです。

そのため、沖田総司は姉であるミツに育てられました。このとき、ミツも12歳という若さでした。

しかし、その翌年にはミツは沖田林太郎と結婚し、その林太郎が沖田家の家督を継ぐことになります。幼い沖田総司に家督を継がせることは無理だと判断し、それでもなお沖田家を絶やさないためにはと考えた結果だったのかもしれません。

また、ミツは結婚してから7年後に長男・芳次郎を出産します。
ちょうどこの頃、沖田総司は試衛館に内弟子として入門するので家を出ました。

つまり、ミツと沖田総司が一緒に暮らしたのは、沖田総司が10歳になるまでのわずかな期間だったのです。

沖田総司は次男に使われる名前をつけられた?

沖田総司の幼名は宗次郎と言います。
実は、この「次郎」という名前は、本来次男に使われるものなのです。
この時代、長男であれば、通常「太郎」という名前が使われていたようで、本来であれば沖田総司も長男ですからこの太郎が使われていなければおかしいということですね。

それではなぜ沖田総司には太郎が使われず、次郎が使われていたのでしょうか?

それは、沖田総司が生まれるよりも前に、沖田林太郎が沖田家を継ぐことが決まっていたからではないかと言われています。
沖田総司が生まれたのは、姉のミツが生まれた11年後のことでした。

父・勝次郎が嫡男が生まれることはないだろうと諦め、養子を跡取りとして確保しようと動いていたとしてもおかしくありません。

つまり、沖田総司が生まれたときにはすでに跡継ぎが決まっていたから、次郎という次男に使われる名前をつけられたということなのです。

ちなみに、家督を継いだ林太郎とミツの間には長男が誕生しました。

本来であれば家を継ぐはずだった沖田総司ですが、その立場はとても微妙なものになってしまうのです。そんな沖田総司を気遣ってか、林太郎はその子供に芳次郎という名前をつけました。

林太郎は、沖田総司が成長したら、沖田家の家督を継ぐのが筋だと考えていたのかもしれません。

沖田総司の子孫は現在まで続いている?

新選組で大活躍した沖田総司でしたが、生涯結婚することはありませんでした。
それでは、沖田総司は子供を残していたのでしょうか?
ここでは、沖田総司の子孫について簡単に解説していきます。

沖田総司の子孫は途絶えてしまった?

沖田総司には、馴染みの遊女すらおらず、恋した女性にはとても誠実に向き合うような人物です。

そのため、当然隠し子のようなものもおらず、沖田総司の子孫は途絶えてしまったということになります。

沖田家の血筋は現在まで続いている?

沖田総司の子孫は途絶えてしまいましたが、沖田家は林太郎とミツが継いだため、その血筋が脈々と受け継がれていき、それが現在まで続いています。
そのミツさんから繋がった子孫の方々を一部ご紹介していきます。

【沖田総司とつながる子孫】

  • 沖田要
    ミツの孫に当たる人物で、沖田総司の肖像画のモデルとなりました。
  • 沖田哲也
    ミツの曾孫で、「明治大学・政経学部名誉教授」「行政学者」を務めておられる方です。
  • 阿野典子
    沖田家7代目にあたる人物です。
    祖父母から「沖田は人も斬っているし、あんまり外で話してはいけません」と言われたため、公の場に20年ほど参加しなかったようです。
    今はデイサービスの会社で正社員をなさっているようで、「人と関われるのは天職ですね」とおっしゃられていたそうです。

沖田総司の子孫にはユーミンも?

ユーミンこと歌手の松任谷由実さんも、沖田総司の子孫だという話があります。

これは、松任谷由実さん本人が、ご自身のラジオ番組内で、「私は沖田総司と血が繋がっている」と話されたことに由来しています。

しかし、沖田総司は確かに子供を残していないので、これは沖田家の血が流れているということだと推測されてます。しかし、明確な資料などはないので、真相ははっきりとはわかりません。

沖田総司は女性に対して奥手だった?

沖田総司は女性に対して奥手だったという話があります。

新選組は、女性関係が派手な人が比較的多かったのですが、そんな新撰組の中でも沖田総司は馴染みの遊女すらいませんでした。

生涯独身だった沖田総司ですが、恋も全くしなかったというわけではありません。

沖田総司の恋話についてはいくつか伝わっており、好意をもった女性に対しては、とても誠実であったと言われています。

沖田総司の最後の姿はどうだった?

20代半ばという若さで亡くなってしまった沖田総司ですが、その最後の姿とはどのようなものだったのでしょうか?ここでは、沖田総司の最後の姿について簡単に解説していきます。

沖田総司の死因は結核?

沖田総司の死因は労咳とされていて、今で言うところの結核にあたります。

結核菌という細菌が体を蝕み、やがて死に至る病です。
現代では特効薬が発見され克服された病気ですが、当時は不治の病とされ、多くの人々に恐れられていました。

1867年(慶応3年)の四条大橋での喧嘩事件の頃には、沖田総司の病状はかなり悪化していました。

その証拠に、同年に起こった「元御陵衛士による近藤勇狙撃事件」の犯人を追うのに、沖田総司は病床におり参加することができなかったため、代わりに二番隊長の永倉新八が、本来は沖田総司が率いる一番隊を率いて行ったと言われています。

その後、大阪で療養し、戦場へと復帰する近藤勇を追って甲州へと向かいましたが、途中で病状が悪化してしまいます。

そして、江戸へと戻され医師・松本良順の治療を受けましたが、1868年(慶応4年)に療養先の千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で亡くなりました。

沖田総司は療養中に黒猫を斬り殺そうとした?

沖田総司が千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に療養していた際、その庭先に黒猫がやってきたそうです。
江戸時代では、黒猫がやってくると「結核が治る」とか、「恋患いに効く」とか言われていました。
つまり、とても縁起のいい動物だったのです。

ところが、沖田総司は何を思ったのか、この庭先にやってきた黒猫を斬り殺そうとしたのです。
なぜ結核が治るかもしれないと言われている黒猫を殺そうとしたのか?その理由は諸説あります。

  • 自分の体力の限界を知りたかったから
  • 黒猫を不吉の兆しだと思ったから
  • 黒猫を斬ることによって病魔も斬ろうとしたから
  • 猫が嫌いだったから

諸説理由はありますが、このとき沖田総司は刀も持てずうなだれ、世話をしてくれていたお婆さんに「斬れない……斬れないよ」と嘆いたそうです。

天才剣士も病気に勝つことはできず、猫すら斬れないくらい衰弱しきっていたことがよくわかるエピソードですね。

まとめ:沖田総司の子孫は途絶えてしまったが、沖田家の血筋は現在まで続いている

沖田総司は生涯独身で、女遊びもしていなかったため、子供に恵まれることはありませんでした。
そのため、沖田総司の子孫は途絶えてしまったということになります。

しかし、沖田家自体の血筋は、姉のミツから受け継がれ、現在まで続いているのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 沖田総司は生涯独身で子供を授かることはなく、その子孫は途絶えてしまった
  • 沖田家は、林太郎とミツが継ぎ、子を残したため続いていった
  • 沖田総司は20代半ばという若さで労咳(結核)のため亡くなってしまった

生まれてすぐに両親を亡くし、その後も家督問題で微妙な立場になってしまった沖田総司だからこそ、自分の子供にはそのような思いをさせたくないと考え、子供を作ることに少し抵抗のようなものがあったのではないかと感じますね。

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