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徳川家光の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いている?水戸徳川家との関係は?

徳川家光(1604(慶長9)〜1651(慶安4))は、江戸幕府の第三代将軍で、江戸幕府を開いた徳川家康の孫です。江戸幕府の基礎を築いたと言われている徳川家光の子孫は現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、徳川家光の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

徳川家光の家系図をわかりやすく解説!

徳川家光の家系図

徳川家光の家族構成は?

【徳川家光のプロフィール】

徳川家光(とくがわいえみつ):1604年(慶長9年)〜1651年(慶安4年) / 享年:48歳

父:徳川秀忠/母:江

正室:鷹司孝子

側室:お振の方(自証院)、お万の方(栄光院)、お楽の方(宝樹院)、おまさの方、お夏の方(純性院)、お玉の方(桂昌院)、お里佐の方(定光院)、お琴の方(芳心院)

子:千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松

徳川家光は、1604年(慶長9年)に徳川秀忠と江の次男として、江戸城西の丸にて誕生しました。

兄は早世していたため、家光は世子として扱われていました。

1623年(元和9年)には江戸幕府第3代将軍になり、摂家・鷹司家の鷹司孝子を正室として迎えています。

しかし、家光は女性嫌いの男色であったことや、公家嫌いであったことなどから、孝子と良好な夫婦関係は築けませんでした。

晩年には、その女性嫌いも克服し、たくさんの側室を作ることとなりました。

そして、正室との間には子供はできませんでしたが、側室との間に6人の子供を授かっています。

徳川家光は2人の天下人と同じ血が流れている?

家光の祖父は、江戸幕府を開いた天下人の徳川家康です。

そのため、徳川家光には天下人の血が流れています。

しかし、実はもう一人別の天下人と同じ血が流れているのです。

それは、織田信長です。

家光の母親は江という人物です。

この江は、織田信長の妹・お市の方の子供なのです。

つまり、家光には、織田信長と同じ血が流れているというわけです。

このように、家光には、2人の天下人と同じ血が流れています。

徳川家光の子孫は現在も続いている?

徳川家光には、正室との間に子供はいませんでしたが、側室との間に6人の子供がいました。
その子孫は現在まで続いているのでしょうか?

ここでは、徳川家光の子孫について簡単に解説していきます。

徳川家光の男系の子孫は途絶えてしまった?

徳川家光の男の子供は、5人(家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松)でした。

しかし、亀松と鶴松は夭折してしまったため、実際に成人したのは3人です。

長男・家綱は子供を残さずに亡くなってしまったので、この血はここでおしまいです。

三男・綱重は2人の男児を授かっており、その子もそれぞれ男児を授かったのですが、全員夭折してしまい、この血もここで終わりを迎えます。

最後の四男・綱吉ですが、男系の子孫を残すことはできませんでした。

このように、徳川家光の男系の子孫は途絶えてしまったということになります。

徳川家光の子孫には天皇や内閣総理大臣がいる?

徳川家光の男系の子孫は残念ながら途絶えてしまいましたが、女系の子孫は現代まで続いています。

徳川家光の娘・千代姫は、尾張藩の徳川光友に嫁ぎ、徳川綱誠を生みます。

この綱誠の子孫がすごいのです。

綱誠から始まり、
徳川吉通ー徳川千姫ー二条宗基ー二条治孝ー九条尚忠ー九条道孝ー貞明皇后ー昭和天皇と続き、現在の今上天皇へと繋がります。

さらに、綱誠の系統には、19男に尾張家7代の徳川宗春がいます。

宗春からは、
勝子ー近衛経熙ー近衛基前ー近衛忠煕ー近衛忠房ー近衛篤麿ー近衛文麿ー温子と続き、細川護熙と繋がっていきます。

細川護熙さんは、第79代内閣総理大臣です。

さらに、近衛忠房からの系統には、泰子ー徳川家正ー豊子ー徳川恒孝と続いていきます。

こちらの徳川恒孝さんは、徳川宗家の現当主となっています。

このように、家光の女系子孫には、天皇や内閣総理大臣、徳川宗家の現当主がいるのです。

徳川家光と水戸徳川家の関係は?

水戸徳川家は、徳川御三家のうちのひとつです。

ここの家祖・徳川頼房は、家康が晩年に儲けた子で、甥にあたる家光とは1歳差でした。

そのことから、2人は幼少期から江戸にて親交を深めていたのです。頼房は、徳川家光の良き話し相手であり、水戸藩主でありながら大半を江戸で過ごすという異例の措置がとられていました。

頼房が水戸に滞在していた回数は、初めて入国してから亡くなるまでの約40年間でわずか11回だけだったと言います。

水戸藩の整備に努めた1625年〜1630年の間は、毎年江戸と水戸を行き来していましたが、それ以降は水戸入りの頻度が極端に少なくなっています。

この時期というのは、家光の親政が始まった時期で、頼房は家光のことを支えるために江戸に留まっていたのだと考えられています。

家光の方も、幼少期から付き合いのある頼房には信頼を置いていたようで、後に頼房に江戸に常駐するように要望を出しています。

そして、家光が亡くなるまで、頼房は江戸で家光を支えながら領地経営を行っていくのです。

この2人の関係性は、その後の江戸幕府と水戸藩にも受け継がれていき、水戸藩主は代々江戸の小石川邸に常住する「定府(じょうふ)」という形式となりました。

徳川家光は男色で子孫ができない可能性があった?

実は、徳川家光は女性嫌いの男色でとても有名でした。

そのため、恋人は男性ばかり。

そのままでは子供は望めませんでしたが、家光は晩年になってから側室を作り、子供を残すことに成功しています。

この成功の陰には、徳川家光の乳母である春日局の努力があったのです。

ここでは、徳川家光の男色について簡単に解説していきます。

徳川家光は男色だった?

先程からお伝えしているように、家光は女性嫌いの男色でした。

しかも、ただの男色ではありませんでした。その恋人の数がとても多かったのです。

家光には小姓と呼ばれるお世話係が沢山いたのですが、その中から自分好みの美少年を見つけると、すぐに恋人にしてしまっていたようです。

小姓としても出世の足がかりになりますし、時の権力者には逆らえないという事情もあるので、家光の誘いを断れる者は多くはありませんでした。

寵愛を受けた小姓の中には、大名にまで上り詰める者もいました。

特に酒井重澄と堀田正盛の2人は恋のライバルとして、家光をめぐって火花をちらしていました。

その結果、2人とも大名になりましたが、酒井重澄の方は、病気と称して引きこもり家光に会わないようになります。その会わない間、こっそりと妻と妾の間に4人も子供を作るのです。そのことが、家光にバレて、領地を没収されました。

反対に堀田正盛は、そのままどんどんと出世していき、家光に寵愛を受けた者の中では別格とも言える「下総佐倉藩十万石」の大名となります。そして、最後には家光の死去に際して殉死するのです。

また、坂部五右衛門は、家光から寵愛を受けていたにもかかわらず、他の小姓とイチャイチャしていました。そして、その場面を家光は目撃してしまい、そのまま坂部五右衛門を手討ちしてしまいます。

このように、家光はたくさんの男性との恋を楽しんでいました。

しかし、自分はたくさんの恋人を作っていたにも関わらず、浮気は許さないとなると、相当独占欲が強かったと伺えますね。

徳川家光は正室を冷遇した?

徳川家光の正室は、関白・鷹司信房の娘である鷹司孝子です。

この当時、幕府と朝廷の関係はとても険悪で、それを少しでも緩和するためにとの、いわゆる政略結婚でした。しかし、家光は男色で女嫌いだったことや、公家自体を嫌っていたことなどから、孝子を冷遇します。

結婚後、孝子は御台所でありながら大奥を追い出され、江戸城内の中の丸で軟禁のような生活を強いられます。それに加えて、その後御台所の称号を剥奪され、「中の丸様」と呼ばれるようになってしまうのです。

また、家光は孝子に先立って死去するのですが、孝子にはわずか50両しか相続されませんでした。
さらに、当時の風習として、正室に子がいない場合は、側室の子を正室の子として扱うのが普通でしたが、家光はそれも拒否しており、孝子は後に将軍となる家綱、綱吉との養子縁組はされませんでした。

ここまで冷遇され続けた孝子でしたが、家光の死後は出家し、家光の菩提を弔う日々を送ったと言われています。孝子にとって、唯一の救いだったのは、家綱が孝子のことを母親のように慕ってくれていたことでしょう。家綱は、実母に次ぐ扱いで孝子のことを厚遇したそうです。

徳川家光は乳母・春日局のおかげで女性に興味を持った?

徳川家光は、女性嫌いの男色でした。
男性と恋すること自体は別に構わないのですが、しかしそれだけでは子供を作ることはできません。
子供ができないということは、将軍家存続の危機ということに繋がります。

そこでこの危機をどうにかしようと立ち上がったのが、徳川家光の乳母である春日局でした。

春日局は、なんとか家光が女性に興味を持つようにと、沢山の美女を斡旋し始めます。
お振、お楽、お玉という美女を連れてきては、奥入りさせたのです。

こうした春日局の努力もあり、家光は女性に興味を持つようになります。これは実に、家光が30歳を過ぎてからのことでした。そこからは、家光は自ら女性に手を付けるようになり、側室を増やしていきました。

春日局がいなかったら、将軍家は続いていなかったかもしれませんね。

まとめ:徳川家光の男系の子孫は途絶えてしまったが、女系の子孫には天皇や内閣総理大臣がいる

徳川家光はとても男色で有名で、恋人は男性ばかりな上に、正室は冷遇し、子供を作るどころではありませんでした。しかし、家光の乳母・春日局のおかげで、家光は側室を作ることになり、無事に子供もできました。その子孫は現在まで続いており、中には今上天皇や内閣総理大臣がいました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家光は女性嫌いの男色で有名で、子供ができない危機にあった
  • 徳川家光の乳母・春日局が多くの女性をあてがった結果、家光は側室を作るようになった
  • 徳川家光の子供は、側室との間に6人いた
  • 徳川家光の子孫は、男系は途絶えてしまったが、女系は現在まで続いている
  • 徳川家光の現代まで続いている子孫には、今上天皇や内閣総理大臣がいる

徳川家光が女性嫌いの男色のままであったら、子孫は現在まで続くことはありませんでした。

「生まれながらの将軍」だと言い張っていた家光でしたが、将軍は跡継ぎを残し、次に繋いでいかなくてはいけないという思いはなかったのでしょうか?
将軍意識が高かった家光だからこそ、そこが不思議でたまりません。

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