アフィリエイト広告を利用しています

地租改正をわかりやすく解説!目的や影響は?江戸時代との違いは?

地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革です。

地租改正により、それまで物納だった税が、金納へと変わりました。

この地租改正によって、政府や庶民の生活にどのような影響があったのでしょうか?
この記事では、地租改正の目的や影響、江戸時代との違いなどを簡単に解説していきます。

地租改正とは?わかりやすく解説

地租改正とは、明治政府が行った租税制度改革のことです。
実際にどのような改革を行ったのでしょうか?

地租改正の詳しい内容や目的などを簡単に解説していきます。

地租改正の内容は?

地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革です。
明治政府は、この地租改正を行うに当たって、まず下準備として、地券の発行を行いました。

地券とは、土地所有権と地租負担の義務を表示した証明書のことです。

地券には、

  • 所有者名
  • 所在地名
  • 面積
  • 地価
  • 地租

以上のような内容が書かれていました。

この地券によって、江戸時代から続く領主の権利などが否定されます。

また、今まで課税されてこなかった市街地も、地券を発行することによって町人にも課税できるようにしました。

こうして、課税の下準備を行ったのです。

そして、土地所有者をはっきとさせたところで、今度は「地租改正条例」を公布します。

その内容は主に3つです。

1、課税の基準を、従来の不安定な収穫高から一定した地価に変更する

2、地租を地価の3%とし、現金で納めさせる

3、税を納めるのは地券を持っている人と決める

ここにさらに1874年には、

4、地価は5年ごとに見直す

以上のような内容が追加されています。
簡単にまとめると、
地租改正とは「租税制度を今までのような物納から金納に変えるよ」という制度改革でした。

地租改正が行われた背景は?

それまでの租税制度をわざわざ変えた背景には何があったのでしょうか?
地租改正が行われた要因は主に3つあります。

1、政府の収入が安定しなかった

地租改正以前の租税制度では、農民たちが米などの農作物を年貢として領主に納めていました。いわゆる物納です。

この物納には、主に2つの大きなデメリットがありました。

【物納のデメリット】

・農作物の収穫高によって税収が変わってしまうという点です。

農作物には、どうしても豊作の年と凶作の年が存在します。それによって、年貢の量が大きく変わってしまうのです。すると、現金化するまで予算を組むことが難しくなります。

・農作物の保管が大変という点です。

米にしてもその他の農作物にしても、保管するには色々な手間がかかります。

以上2点のデメリットにより、政府の収入が安定しづらかったのです。

2、不公平な課税が行われていた

江戸時代の税は農地と農民にかけられていました。つまり、農作物を生み出さない都市は無税だったのです。

また、職人や商人といった町人は、決められたわずかな税を納めるだけで、農民よりもはるかに税負担が軽く済んでいました。

この農民にだけ負担が大きくなる課税方式をなんとかしようとしたわけですね。

3、貿易などで現金(特に金や銀)が必要となった

明治政府では、江戸時代と変わって海外との貿易も積極的に行っていく予定でした。

しかし、海外との貿易では、米や農作物では支払いができず、当時の世界共通通貨であった金貨や銀貨が必要となりました。

また、富国強兵を目指していた日本では、工場を次々と建設し、外国人を多く雇うなどしていました。これらに対する支払いも基本的に現金で行われていたのです。

以上のようなことから、換金しないと使えず、税収が安定しない年貢(米)よりも、最初から現金で納税させようとなったわけです。

地租改正の目的は?

地租改正の目的は、いたってシンプルです。

「明治政府で行う予定の数々の改革を計画的に実行するために、安定した財源を確保する」

明治政府が様々な計画を実行していくためには、米よりも現金が必要でした。

また、江戸時代までの租税制度では、地方役人がその年の収穫量に応じて税率を決めており、税の軽減を求めて賄賂が横行するなどといった不正の温床となっていました。

そこで、地租改正によって税率を全国一律で「地価の3%」を基準とすることにより、不正を入り込ませないという目的もありました。

さらに、それまでは農民の負担のみが非常に大きかったのですが、税金が一定の金額になったので、収穫量が増えれば農民の取り分が増えるだろうという狙いもありました。

また、江戸時代には禁止されていた「作物選択の自由」も認められ、農民がより儲かりそうなものや、より収穫が増えるような栽培方法などを模索するきっかけとなりました。

これにより、生産性を向上させる狙いもあったのです。

地租改正の地価の決め方は?

農地の地価は、田畑面積や収穫高、平均米価格などから決められました。

政府は当初、検知するに当たり農民から反発を受けるだろうと予測していたので、検知には農民からの自己申告主義をとりました。

つまり、農民自らが「地押丈量」を行ったのです。

「地押」とは、田畑・屋敷の等級・収穫高を従来のままとすることです。

「丈量」とは、測量し直すということとなります。

つまり、「地押丈量」とは、米に換算した田畑・屋敷の収穫量は変えないで、面積だけを測量し直すということです。

また、地租の決め方は、下記の算出方法で決められていました。

[地価]=Y、[収穫量]=X、[種肥料]=0.15X、[地租]=0.03Y、[村入料]=0.01Y、[利子率]=0.06

Y=[Xー0.15Xー(0.03Y+0.01Y)]÷0.06

上記で算出されたYを簡単に言うと、年間の租収益の8.5倍が地価になります。

そして、地租は年間租収穫益の25.5%、村入用(地方税)を入れると34%になるそうです。

地租改正が行われる前の税制はどうだった?

地租改正によって、租税制度改革が行われ、物納から金納になりました。

それでは、地租改正以前の税制はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、地租改正が行われる前の税制について簡単に解説していきます。

地租改正前の税制度は古代から続いていたものだった

地租改正前の税制度は、遡るとなんと古代まで遡ります。

「大化の改新」で成立した「租庸調」が基本となっているのですが、これがそもそも古代の大和王権で行われていた「収穫された稲を神に捧げる儀礼」からきているんです。

「租庸調」では、これが転じて収穫物の一部を国や領主に納めるようになり、これらは「田租」「貢租」と呼ばれていました。

その後何百年と変わることなく、戦国時代まできて、そこでやっと豊臣秀吉の「太閤検地」によって少し変わりましたが、基本的なことは大きく変わらないまま約1200年以上にわたり同じ制度が継続されてきたのです。

江戸時代は年貢を納めていた

江戸時代も、特に大きく租税制度が変わることはなく、農民は、税金である年貢(米)を、収穫した量の5割〜6割を要求されていました。

また、農村では村全体で村高が決められており、飢饉などで収穫が減っても村高によって年貢が決まっているので、年貢が少なくなるわけではありませんでした。

そのため、農民の生活は常に困窮を極めていたのです。

このように、江戸時代の農民に対する税負担は大きく、不満を持った農民たちが一揆を起こすということも多発していました。

地租改正の影響は?

地租改正によって、約1200年以上続いてきた税制が改革されました。
それでは、その影響はどのようなものがあったのでしょうか?
ここでは、地租改正の影響を簡単に解説していきます。

明治政府の収入が安定した?

全国一律の基準で、なおかつ現金で税を徴収することができるようになったので、明治政府の財政がとても安定しました。

地租改正が完成した1880年の政府予算を見ると、4分の3が地租でした。

このことからもわかるように、地租は政府の重要な財源となっていたのです。

収入が安定したことによって、様々な政策を計画的に進めやすくなりました。

地租改正反対一揆が日本各地で起こった?

地租改正により、全国一律で地価の3%を納めなくてはならなくなりました。

この3%とは、明治政府が従来の年貢による収入よりも下回らないことを目指した結果の数値でした。

この数値というのは固定だったので、結局農民は苦しめられることとなります。

冷害などで飢饉となると、税を納めることが厳しく、農民が苦しいのは江戸時代と変わりありませんでした。

そのため、農民は一揆を起こして不満を爆発させました。

一揆は、茨城、三重、愛知、岐阜、大坂などで起きましたが、中でも特に大きかったのが、「伊勢暴動」と「ワッパ騒動」です。

伊勢暴動は、処分者が5万人を超えるほどの大規模な一揆でした。

また、ワッパ騒動では、参加者が1万数千人と、伊勢騒動よりも少ないものの、1873年末から1880年末までの7年もの間繰り広げられた長い一揆となりました。
こちらの一揆は、後に自由民権運動へと発展しています。

このように、全国各地で農民たちによる一揆が行われた結果、政府は仕方なく地租を3%から2.5%へと下げることにしたのです。

これにより、江戸時代の税収よりも2割減ることとなりましたが、地租改正そのものは断行しました。

寄生地主制のきっかけとなった?

地租改正以降、凶作や地租を払えなくなる状況が発生する度に、致し方なく土地を手放す農民が増えました。そういう農民は、小作農となり、江戸時代の水呑み百姓と呼ばれていた頃と変わらない状況になっていたのです。

そして、その農民が手放した土地を、元の村の名主といった金持ちが買い集めていきました。

この金持ち達は地主となり、自らは農業をせず、小作人から受け取る小作料だけで経営していくようになります。これが寄生地主制です。

この寄生地主制は、戦後の農地改革まで続くこととなりました。

まとめ:地租改正によって政府の収入は安定したが、農民の負担が大きくなり各地で一揆が起こった

地租改正は、それまでの物納から金納へと変える租税改革でした。

これにより、明治政府の収入は安定しましたが、農民の負担はさらに大きくなり各地で一揆が頻発するようになってしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 地租改正以前の租税制度では年貢(米)を納めていたため、収入が安定しなかった
  • 地租改正を行った目的は、海外との貿易のために現金が必要だったことが大きい
  • 地租改正を行うことにより、物納から金納へと変更した
  • 地租改正によって政府の収入は安定した
  • 地租改正の後、農民の負担は大きくなり各地で一揆が起こった

長年続いてきたことを改革するのには、当然大きな反発がつきものです。しかし、このときに反発を恐れずに改革をしてくれたおかげで、日本は急速に近代化することができたのでしょう。

そう考えると、明治維新を実行した人々の功績は非常に大きいですね。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください