細川忠興とガラシャのエピソード。波乱に満ちた二人の結婚生活

細川忠興とガラシャのエピソード。波乱に満ちた二人の結婚生活

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細川忠興は、妻の細川ガラシャと共に現代まで続く「肥後細川家」の基礎を築き上げた人物です。
激動の戦国時代を、足利家、織田家、豊臣家、徳川家と主君を変えながら、細川家を守り通しました。
細川忠興と細川ガラシャは結婚し、時代に翻弄されながら、波乱に満ちた結婚生活を送りました。二人の仲は、相思相愛とも、鬼と蛇の夫婦ともいわれています。
今回は、そんな細川忠興と細川ガラシャの波乱に満ちた結婚生活をエピソードを交えながらみていきたいと思います。

細川忠興とガラシャの結婚生活

細川忠興と細川ガラシャが16歳の時に、織田信長の勧めで結婚し、ガラシャが三十八歳で命を落とすまでの、激動の22年間の夫婦生活はどのようなものだったのでしょうか。?
そんな二人の夫婦生活をよく知るためには、まず細川忠興とガラシャの性格をみていきましょう。

細川忠興は、ハイスペックだけれども執念深い短気な性格だといわれています。

【細川忠興の特徴】

  • 戦上手で、数々の功績をあげた
  • 文化教養に長けていた。
  • 激高しやすく殺生沙汰も厭わなかった


細川忠興は、元服前から活躍するほどの戦上手だったようです。
また、貴重な反物を献上するために京都中を探し回るほどの忠義心を持ち合わせていました。
侘茶を確立した千利休せんのりきゅうの高弟子「利休七哲」の一人としての文化教養もありました。
それに加えて、顔も美男子だったそうですから、かなりのハイスペックイケメン男子だったようです。
しかし一方では、「日本一気の短い大名」と言われたほど、気性の荒さと執念深さをもっていました。
細川忠興は「家臣の失敗は二度までは許すが三度目は刀で斬るので、我が家の家臣は教育が行き届いているのだ」と誇らしげに友人に語っていたというエピソードが残っています。
そして実際に、家臣を手打ちにした話も多く残っています。

細川ガラシャの性格は、男勝りで勝気な性格の持ち主といわれています。
【細川ガラシャの特徴】

  • 有力大名の明智光秀の娘
  • 男勝りで勝気な性格だった
  • 戦国時代を代表する美人と言われるほどの美貌

細川ガラシャは、非常に美しい顔立ちをしており、ガラシャに会う人は皆、あまりの美しさに驚きを隠せなかったそうです。
また非常に頭が良く、キリスト教の宣教師から、「こんなに明晰で果敢な判断ができる女性に出会ったことはない」と絶賛されている記録が残っています。
細川ガラシャの父親は明智光秀、なので家柄もいう事なしです。
容姿端麗で頭脳明晰な超ハイスペックお嬢様といえます。

細川忠興とガラシャは、織田信長の勧めで政略結婚だった

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織田信長(「Wikipedia」より)

1578年8月、細川忠興は明智光秀の三女である玉(たま)と結婚をしました
この玉こそがガラシャです。
ガラシャと名乗るようになるのは、キリスト教の洗礼を受けた後からなのですが、今回は統一してガラシャと記させていただきます。

細川忠興とガラシャの結婚のきっかけは織田信長の勧めによるものでした。

織田信長は、戦上手な細川家と、織田信長が最も信頼していたといわれる、優秀な明智家を血縁関係にすることで、家臣同士の繋がり、そして自らの力をより堅固なものにしようと考えたのです。
そんな政略結婚でしたが、細川忠興はガラシャのことをとても気に入り、大事にしていました。
また、ガラシャは義父にあたる細川忠興の父の細川藤孝(幽斎)にも気に入られ、可愛がられていたと言われています。
細川忠興もガラシャも16歳で、美男美女で有名なお似合い二人だったようです。あの織田信長も「お人形のように可愛らしい夫婦」と表現したとの記録も残っています。
そして、結婚1年後には長女が生まれ、その翌年には長男が生まれました。
その間、細川忠興は側室を置くことなく、ガラシャを心から愛していたようです。

細川忠興とガラシャの関係は、明智光秀が起こした本能寺の変の後どうなった?

本能寺の変
本能寺の変(Wikipediaより)

順風満帆な二人の夫婦生活に影がおちたのは、結婚して4年後の1582年6月のことでした。
細川ガラシャの父親である明智光秀が謀反をおこし、京都本能寺に滞在中の織田信長を討った。そう本能寺の変です。

本能寺の変の後、細川忠興は、ガラシャと離縁しませんでした。
当時の習慣だと、謀反者の娘とは離縁するのが当たり前で、離縁して実家に戻り、一族もろとも処罰されることも珍しくありませんでした。
しかし、謀反人「明智光秀」からの援軍要請も断り、細川家の存続を考えた行動を選んだ細川家。
家の存続を脅かす存在でしかなくなったガラシャを離縁しなかった事実からも、細川忠興がガラシャをどれだけ愛していたのかを感じることができますよね。
細川忠興は、命を狙われる存在となった最愛の妻ガラシャを、山深い丹後の味土野みどのに幽閉しかくまいました。
幽閉中のガラシャは、地元の子供たちに文字を教えたり、厄除けの札をつくるなど、不安の中でも領主の妻として懸命に里に溶け込もうとしていた姿がみられたそうです。
細川ガラシャ隠棲地の跡地は、現在も京丹後市味土野の山深い里に女城跡として残っています。
この幽閉生活の中で、ガラシャはキリスト教と出会います。
ガラシャとキリスト教が出会うきっかけは細川忠興でした。
気を塞ぎがちなガラシャの様子を心配し、敬虔なキリシタン大名であった高山右近たかやまうこんから聞いた、キリスト教の話をガラシャに話したのです。
そのことをきっかけに、ガラシャはキリスト教に高い関心を持つようになったと言われいます。

その約二年後、豊臣秀吉の口添えで細川ガラシャは大阪の屋敷に戻ることが許されます。
自由を再び手に入れたかのように思えましたが、しかし大阪に戻ったガラシャを待っていたのは、味土野の地以上の窮屈な生活でした。
ガラシャは興味を深めていたキリスト教の教会に行きたいと願っていましが、細川忠興はガラシャが教会に行くことを決して許しませんでした。
それどころか、外にでることも禁止したのです。
ガラシャを守りたいと思う、細川忠興の愛情が暴走してしまった結果なのでしょう。さらに、細川忠興はガラシャの周りから徹底的に男性を排除します。

もともと短気で激高しやすい細川忠則ですから、排除のしかたも強烈です。
うっかり屋根から落ちてガラシャの顔を見てしまった職人の首を刀ではね、ガラシャに見とれていたとして庭師も刀で斬り捨てます。
自分が家を空ける際は家臣に、「ガラシャの貞操の危機があれば殺してしまうように」と指示をし、屋敷を訪れたヒトを取次ことも、伝言を残すことさえ許さなかったそうです。

そんな強烈な細川忠興の行動にも、ガラシャは動じませんでした。
細川忠興がはねた職人の首を見ながら平然と食事を続けたり、庭師を切り捨てた刀の血がついた着物を、細川忠興が謝るまで着続けたそうです。
ガラシャの意地と強い意志を感じますよね。

ガラシャは細川忠興が九州討伐に出かけている隙に、侍女の恰好をして念願のキリスト教の教会にでかけます。
ガラシャが教会を訪れたのはこの一度きりですが、侍女を通して教会の宣教師と連絡を取ったりしながら、キリスト教へのさらに信仰を深めていきます。
1587年、細野忠興が九州へ出かけている間に、そしてガラシャは侍女を介して念願のキリスト教の洗礼を受けました。
ガラシャの受洗によって、彼女の子どもや側近も相次いでクリスチャンになります。
夫の指示には従いつつも、自分の信念も曲げないガラシャの行動に、意思の強さと聡明さが光ります。
このキリスト教信仰が、ガラシャの唯一の心の支えだったのかもしれませんね。

細川忠興は、ガラシャのキリスト教信仰をどう思っていたのか?

細川忠興は、ガラシャのキリスト教信仰を当初は何とも思っていませんでした。そもそもガラシャにキリスト教を引き合わせたのは、ほかならぬ細川忠興でしたし、「ガラシャの心の支えになれたらよいな」と考えていたのでしょう。

しかし、ガラシャがキリスト教徒になった1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令します。
これは無理なキリスト教の布教活動を禁止するもので、キリスト教の信仰事態を禁止するものではありませんでした。
しかし、細川忠興はキリスト教に入信した侍女の鼻をそぎ、追い出してしまいます。
そんな状況ですから、ガラシャも自分がクリスチャンになったことを、しばらくの間隠していたといわれています。

細川忠興が、家中の者にキリスト教の信仰を厳しく禁じるようになったのは、キリスト教に嫌悪感を持ち始めていた豊臣秀吉の不興を買わないようにし、家を守るための行動だったのかもしれません。

細川忠興が、家中の者にキリスト教を禁止したことで、ガラシャは心の拠り所を失い、夫と別れたいと宣教師に相談しています。
しかし宣教師は、ガラシャに「キリスト教では離婚は認められていない」ことや、「目の前の困難に立ち向かうことの大切さ」を説き、ガラシャもそれを受け入れたといわれています。

細川忠興とガラシャの最後。武士の妻として潔い最期を迎えたガラシャ

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いがきっかけとなり、細川忠興とガラシャの夫婦生活はついに終わりを迎えます。
関ケ原の戦いでは、細川家は徳川家康率いる東軍に与しました。
細川忠興が出陣している間に、石田三成が率いる西軍が、ガラシャを人質に取ろうと、何度も使者を送ってきます
しかしその度に、ガラシャは人質になることをきっぱりと拒否します。

西軍が実力行使に出るのではないか?と察した家老たちは、ガラシャを逃がそうとしました。
しかし、ガラシャは「夫は逃げることを許しません。夫の言いつけ通り、私が屋敷から出ることは一歩もないでしょう。」と静かに覚悟を決めていました。
凛と答えるガラシャの決断に感銘を受け、家老達はガラシャと最後まで共にする覚悟を決めたのです。
いよいよ西軍が大阪の屋敷を取り囲み、ガラシャに投降するように促します。
しかしガラシャは、侍女や家人を逃がした後、家老に部屋の外から槍で自分の胸を突かせます。
キリスト教では自害は禁止されているからです。
家老はガラシャの死を見届けた後、屋敷に火をつけ、自分も自害したといわれています。

【細川ガラシャの辞世の句】

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
現代訳:花は散る時を知っているからこそ、花として美しいのです。私も私として、散るべき時に散りましょう。


この辞世の句からは、細川ガラシャの武士の妻としてのプライドと、ガラシャの人生観・美学を感じ取ることができます。
桜の散り際の見事さに心がざわめかすように、あまりにも潔く、あまりに切ない彼女の散りざまは、心にグッとくるものがありますよね。

細川忠興のガラシャへの愛情を感じるエピソード

細川忠興はガラシャを心から愛していました。そんな細川忠興のガラシャに対する愛情を感じるエピソードをご紹介します。

  • 幽閉中も定期的に食料などを送っていた
  • 非常に嫉妬深かく、ガラシャに男性を近づかせなかった
  • ガラシャの葬儀はキリスト教の形式でおこなった

それぞれ詳しくみていきましょう。

・幽閉中も定期的に食糧などを送っていた
細川忠興は、ガラシャが丹後の味土野に幽閉されている時も、定期的に食料を定送るなどして、ガラシャを大切に守り通していたようです。
これは長い間、地元の村々の長男だけに語り継がれていた内容で、ガラシャを何としてでも守ろうとしていたことが伺い知れます。
幽閉中のガラシャに、家臣が自害をすすめたところ、「私は忠興の妻です。忠興の指示を得ないで行っては、婦道にそむきます。」と聞き入れなかったそうです。ガラシャも細川忠興に強い信頼を寄せていたことを感じさせます。

非常に嫉妬深かく、ガラシャに男性を近づかせなかった
細川忠興は、幽閉生活から大阪に戻ったガラシャの周りから徹底的に男性を排除します。猫も雄猫は近づかせなかったそうです。
また、うっかり屋根から落ちてガラシャの顔を見てしまった職人の首をはねたり、ガラシャに見とれていた庭師も、刀で斬り捨てています。
また、細野忠興は非常に嫉妬深く、ガラシャに男性が近づくことすら許しませんでした。
忠興が朝鮮出兵した際、出兵先からガラシャ宛に何通も何通も手紙を送っていたそうです。
その内容は、「お前は美しいのだから、男に惚れさせてはいけない」。
朝鮮から何度も手紙を送るほど、徹底的に男性を近づけないようにするほど、細川忠興はガラシャを愛していたんですね。

ガラシャの葬儀はキリスト教の形式でおこなった
細川ガラシャが西軍の人質になるのを拒否し、命を落とした際、最愛の妻の訃報を旅先できいた細川忠興はその場で泣き崩れたそうです。
そして、ガラシャの一周忌は、あんなに反対していたキリスト教の形式で行い、彼女の魂の安寧を祈ったといわれています。
細川忠興は、自らの信念を曲げてでも、ガラシャの望みを叶える。それほどまでにガラシャのことを愛していたんですね。

まとめ:細川忠興はガラシャに対して異常な愛情を持っていたが、最大の理解者だった

細川忠興はガラシャに対して異常な愛情をもっていましたが、ガラシャを心から愛し、ガラシャの最大の理解者だったといえます。
今回の内容を簡単にまとめると、

  • ・細川忠興と細川ガラシャは、相思相愛の夫婦だった
  • ・細川忠興は嫉妬深くガラシャを監視していたが、ガラシャを深く理解もしていた

織田信長も認めるほど美しい夫婦だった、細川忠興とガラシャ夫妻。
二人は、激動の戦国時代に翻弄されながらも、強く潔く、自分の信念に生きた細川ガラシャ、細川忠興は愛情を持って見守っていたとも取れますね。

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